第5話 宗次郎メールを伝授する

宗次郎メールを伝授する

 目覚めは快いものだった。夢を見ることもなく、久し振りに心地良い眠りを貪った宗次郎は、布団の中で思いきり伸びをした。そう言えば、あの五月蝿(うるさ)いクロベエでさえ、今日は寄りつこうとしない。結構なことだ。宗次郎は腕枕して、にやりとほくそえんだ。二年振りの静かな朝の目覚めである。

 昨夜の重い疲労感はどこにもなかった。逆に、躰には新鮮な力が漲っている。宗次郎はベッドに腰掛けると、深く溜め息を漏らした。心の中が虚ろに感じられる。大きな何かが、心の中から抜き去られたような気分だ。何が抜け落ちたのか? この心の感触は、昨夜の出来事と関係があるのだろうか? 長い時間、哀しいことばかり思い浮かべていた後のような空虚さだった。

 障子がすっと開き、クロベエが開いた障子の間にぴったり顔をつけて、宗次郎の方を見ていた。それでも、部屋の中に入ってこようとはしない。黒く濡れて輝く眼が忙しげに瞬き、宗次郎をいたわしげに見あげている。クロベエが鼻を鳴らして甘えた。

「お前まで、そんな目で俺を見るのか?」

 宗次郎はついに苦笑いをもらした。クロベエが、今日は愛おしくさえ思えてくる。

「大丈夫だ。もうなんともないよ」

 そう言って頭を撫でてやると、クロベエは大きな頭を宗次郎の手に擦りつけてきた。

 顔を洗い食堂へ行くと、小西老人と時子さんが、クロベエと同じ眼をして宗次郎を迎えた。やれやれ、こりゃあすっかり病人か化け物扱いだぞ。宗次郎は苦笑いを禁じ得なかった。

「お早うございます。昨夜は、ご迷惑お掛けしました」

 宗次郎は先手を打って、そう言った。そうでもしなければ、このこわばった空気はほぐれそうにもなかった。

「お早うございます。まあ、座って」

 小西老人が、いかにも案配が悪そうな顔で言った。

「はい、宗ちゃんお茶」

 時子さんはすっかり、母親気分になっているようだ。

「あ、すみません。あれからは、何事もなくちゃんと眠れました」

 時子さんの心配してくれる真心が、今朝は特に心にしみる。

「まあ、宗ちゃん、あんまり気にするなよ。思い詰めちまうと、余計に再発するからさ」

 小西老人が、出来るだけ普通を装って励ましの声を掛けてきた。

「さ、再発ですか」

「いや、そんな意味じゃないよ。それより、朝飯食ったら、ちょっと頼みがあるんだけどね。聞いて呉れるかい?」

「構いませんよ。今日はもう、大学の方へ行く心算はないですから」

「そうか、その方がいいよ。じゃ、ちゃっちゃっと飯を済ましちまおうよ」

 これで、小西老人の機嫌がかなりよくなったのが、その顔色で判った。

 今日の朝食は、油揚げと豆腐の味噌汁に大根の糠漬け。極めつけは時子さんの田舎、山形から送って来たものを保存してあった、塩引きの鮭を焼いたものだった。

 これは昔ながらの作りで、焼くと表面に白く塩が浮き出てくる。この鮭の切り身ひと切れで、飯が三杯は食えると言う代物だった。

 舌の上でぴりりとした塩の辛さを楽しみながら、宗次郎は四杯もお代わりした。今どきの健康志向の方々が見れば、目を吊り上げてしまいそうな塩辛さだが、宗次郎に言わせるととんでもない。これが堪らない味わいなのだ。

 気づくと、小西老人と時子さんが呆れた顔で宗次郎を眺め、安心した様子で笑いあっていた。

「あ、いやあ、なんだか、凄く躰に力が漲ってまして。昨夜あんなことがあったのに、人間の躰と言うのは妙なものですね」

 宗次郎の言葉に、小西老人が、あはははと大口開けて高笑いした。

「薮坂先生の宗ちゃん。負けた。宗ちゃんには負けたよ。これなら大丈夫だ」

 いつもの顔に戻って、小西老人が宗次郎の膝を叩いて喜んだ。

「あなた、もうそれぐらいにしときなさいよ。宗ちゃん困った顔してるわよ」

「いいんだ、いいんだ。いつもの宗ちゃんに戻ったのが嬉しいんだよ」

 もう一度そっくり返って笑うと、小西老人はやっと落ち着いた。

「じゃあ、飯が済んだら、ちょいと頼まれてくれないか?」

「なんです?」

「ネットって言うの? メールしたいんだ」

「メールですか。いいですよ」

「あれは、手紙と同じなんだろ?」

「ええ、そうです」

「琴ちゃんにね、孫娘のさ。そのメールって奴で確かめようと思ってるんだ。本当に、この家を壊す事に同意したのかどうかをさあ」

 小西老人はほうっと息を吐き、淋しげに鼻の頭を撫でた。

「じゃあ、朝飯が済んだら、すぐに取っかかりましょう」

「そうかい、悪いねエ」

 小西老人は時子さんに頷き、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、宗ちゃん。こう言うこと頼めるの、宗ちゃんしかいねえからサ」

「こう言うことだったら、遠慮なく言ってください。僕のパソコンを使いましょう……あっ、そうだ。その琴美さんのメールアドレスはご存知ですか?」

「メールアドレス、ね。……おい、あったか?」

 心もとない顔で、小西老人が時子さんを見た。

「ええっと。たしか、随分前に教えて貰った気がするけど……」

 と時子さん、こちらは覚束ない顔で立ち上がった。

「ちょっと探してきます」

 そのまま板戸を開け、中廊下を隔てた向かいの部屋へ入っていった。

 時子さんが入った部屋を含めた三部屋を、小西夫妻は自分達の為に使っていたが、この屋敷の広さからすれば、慎ましいと言うほかない。こう言うところにも、小西夫妻の人柄が表れている。

 これまではそれほど気にならなかった宗次郎だが、何故か今日ばかりは胸にじんと浸みるものがあった。二人のひたむきさが、宗次郎を動かしたのかもしれない。

 五分ほどして、時子さんは中振りの箱根細工の文箱を持って、いそいそと戻って来た。

「あった。ありましたよ」

 ぺたんと敷物の上に座ると、時子さんは文箱の中から、一枚のメモを取り出しテーブルに置いた。

「宗ちゃん、これよ、これ」

 テーブルに置いたメモを開いて、時子さんが頷いた。

「拝見します」

 宗次郎はメモを取り上げ、書かれたメルアドを確かめた。

 丸っこい、可愛らしい文字が並んでいる。今風の女の子の文字と言えばいいのだろうか。

 学生が出してくるレポートで、時々宗次郎もお目にかかる文字だ。

「琴美ちゃんが留学する前に教えてくれたのよ。でも、用がないからそのままにしておいたの。まさか、今ごろになって必要になるとはね」

「わかりました。メルアドさえあれば、いつでもメールできますよ。どんな文面にするか、メモしておいて下さい。メールする時になって考えると時間もかかるし、まとまりのないものになりますからね」

「宗ちゃんよ、文面ってのは、普通の郵便みたいに書けばいいのかい?」

「ええ、そうです。メルアドって言うのは、現実で言えば此処の住所みたいなものですからね。メールも手紙も同じものですよ」

「そうか。それを聞いて安心したよ。じゃあ、文面考えたら行くからサ。頼むよ、宗ちゃん」

 小西老人が照れた顔に笑いを浮かべて言った。

「何でもありませんよ。じゃ、お待ちしてます。パソコン、準備しておきますから」

 宗次郎は、熱くて濃いお茶が入った伊万里焼の蓋つき茶碗を持って立ち上がった。

 小西夫妻は黙って事が進むのにいたたまれず、琴美に直接事情を聞きたいに違いない。

 この家の問題と言い、自分に起きた異変と言い、やっかいなことが続く。まだなにひとつこれだと、手をつけられる具体的な処方はない。こういうのを、八方ふさがりというのかな。宗次郎はまたため息をついた。

 

 一時間半が過ぎて、小西夫妻が離れの宗次郎の部屋にやって来た。

 小西老人がパソコンの横に置いた手紙は、丁寧に封筒に納められている。

「宜しいですか?」

 手紙を手に取り訊ねる宗次郎に小西夫妻が無言でうなずいた。

 封筒の中は、二枚の便せんに書かれた丁寧に時候の挨拶から始まる、手紙そのものだった。思わず、宗次郎の頬に頬笑みが浮かぶ。何と言う純真。何と言う誠心。

「手紙としては、申し分ありませんが、メールとしては長すぎます。すみません」

「そ、そうかい……」

「メールの場合は、ほぼ用件だけを打ち込んで送れば事足ります」

 言いながら、宗次郎は出来るだけ小西夫妻の文面の趣意を壊さないよう、文字を打ち込んでいった。

「おおむね、こんな具合ですが。如何ですか」

 パソコンの前から躰をずらし、小西夫妻に場所を譲って宗次郎が訊いた。

 小西夫妻が頭を揃えて、パソコンに打ち込まれた文章を読む。

「こんなもんでいいのか……。しかし、味気ないもんだねえ」

 小西老人が溜め息をつくようにして、宗次郎の顔を見あげた。

 隣で時子さんも、さも不思議そうに頷いている。

 宗次郎は苦笑いした。

 今何処?・ 渋谷・ センター街?・ そう・ 俺も行く・ モアイ前ね、と言ったような学生たちのメールのやり取りを見たら、小西夫妻はどんな顔をするだろう。

「これでも、至極丁寧なメールです。これで宜しければ、琴美さんに送りますが」

「ああ、いいよ」

 小西夫妻は顔を見合わせたあと、そう返事した。

 メールを送信する宗次郎の手許を、二人はじっと見つめている。

「はい、これで終わりです。返事を待ちましょう」

「おい、宗ちゃん。メールが届くには、何日くらいかかるんだい?」

 ちょっと心配そうに、小西老人が聞いて来た。

「もう、届いている筈です」

「もうって、相手は外国だよ、おい」

 小西老人は喉を詰まらせそうになり、

「飛行機だって、結構時間かかるんだよ?」

「まあ、メールってのはそう言うもんですから」

「じゃあ、何かい。うまくいきゃあ、今日中にも返事が戻って来るってことかい?」

 小西老人は嬉しさより、切羽詰まった顔で宗次郎に詰めよって来た。

「はい。相手がこまめな人なら……」

「そうか。……ありがとう、宗ちゃん」

 小西老人は急に気が抜けた顔になって、ふらりと立ち上がった。

「どうしたの、あなた?」

 時子さんが、廊下に出ていく小西老人に呼びかけた。

「あ、ああ?」

 うん、と口の中でぼやけた声を残して、母屋の方へ戻っていく。

「何か、気に障ったんでしょうか?」

 宗次郎が訊くと、時子さんはほろ苦く笑ってかぶりをふった。

「あの人はね、恐くなったんじゃないかしら」

「怖くなったって、なにがですか?」

「琴美ちゃんがね、自分が知ってる琴美ちゃんじゃなくなってて、この家を潰すことにも平気になってたらどうしよう。そう思って、恐くなったのよ。それが、メールだと今日にもわかるじゃない。……それが恐くなったのよ」

 ありがとう、と時子さんは畳に手をついて礼を言った。

 はあ、と宗次郎もあわせて頭を下げた。小西老人のことが気になっていた。そうか、そう言うものかも知れない。

 メールを送った後の小西夫妻と言うものは、まるで遠足の前の日の小学生のように興奮して落ち着きなく、宗次郎から見ても可愛く映ったものだ。

 三十分に一度はメールの返信を確かめに来るあわただしい午前が過ぎ、もの問いたげな午後が過ぎ、じりじりと気持ちを煽る夕暮れがやってきた。

 宗次郎の仕事は進まなかった。大学へは行かなかったが、データ整理の仕事は出来る筈だった。だが、午前中は三十分ごとの小西夫妻の来訪に忙殺され、午後は満腹で気抜けし、夕方は一緒になってじりじりとメールの返信を待っていた。

 琴美と言う孫娘が何と言って返事を返してくるか、宗次郎もまんざらでもない気分になっていた。

「ご飯ですよ、薮坂先生」

 小西老人がやって来たのは、まだ六時前だった。

 小西老人の後ろに、クロベエが鎮座している。どうやら様子を見に来たらしい。謙虚な犬と思うなかれだ。

 あいつめ、俺がいつもの俺か確かめに来たな。しかも、自分だけで来るのは不安だから、小西さんの腰巾着で来やがった。

「返事は、まだですね」

 言って、宗次郎はパソコンの前から立ち上がった。

「あ、いや。気長に待とうよ、宗ちゃん」

 あ、いやと気長に、の間に、太いため息を挟んで、小西老人は力なく笑って見せた。

 夕食の間も、小西夫妻は元気がなかった。宗次郎、どうも居心地が悪い。しかし、返事の内容によっては、これはまたひと波乱だぞ。宗次郎は気が重くなった。

 メールが返って来たのは、夜十時過ぎだった。

 いつもならもう寝ている時間だったが、小西夫妻は濃いお茶で眠気を騙しながら宗次郎が呼ぶのをじっと待っていた。

 返って来たメールは思ったより丁寧なもので、近況報告に始まり、小西夫妻の健康を問い、八月末には日本へ戻ると記されていた。

 そして最後に、屋敷のことについて返答があった。


 小西さんにお願いしている家については、全面リニューアルすると言うことで、先日送られてきた書類にサインしました。

 マンションに関しては、手入れの届かない裏手の庭の一部と、隣接する土地を買収して建設すると説明を受けました。

 ですから、小西さんがおっしゃる心配はないと思います。

 八月末には一度日本へ戻りますので、その時に詳しくお話出来たらと思っています。サインした書類は、その時に渡す予定になっています。

「ふうむ……」

 宗次郎と小西老人は、同時に腕組みして唸っていた。

 小西老人が聞いた話とは、だいぶ食い違ってしまう。

 二人は顔を見合わせた。

「しかし、内容はどうあれ、書類にサインしてしまったと言うのがどうも……」

 小西老人が疑いを拭いきれない不満顔で言った。

「そうですね」

 小西夫妻は、屋敷のリニューアルとは聞いていない。あくまでこの広大な敷地にマンションを建てる、そう聞いたのだ。

 この家がなくなったら、小西夫妻はどうするのだろう。ふと、宗次郎は思った。

「くそ、琴美ちゃんがサインした書類ってのが確かめられたら、もっとはっきりするんだがなあ」

 小西老人が天を仰いで悔しそうに言った。

「そうね。今度こっちへ帰って来た時、その書類渡す前に持って来て貰うようにメールしてみたら?」

 時子さんが横から口をはさんだ。

「ああ、そうしよう。それがいいや。……しかし、それじゃ遅くねえか?早くて八月の末だぜ」

 頷く時子さんへ、

「そこから手を打つとしても、もう手遅れになるかもね」

 じれったげに口調を強くした。

「じゃあ、その書類をスマホで撮って、メールに添付して送って貰いましょうか。そうすれば、一週間以内にはリニューアルに関する内容を確認できますよ」

「えっ?……」

 小西老人が、喰いつくような眼で宗次郎を睨んだ。

「今はそれが普通です」

 小西老人が興奮して叫び出す前に、宗次郎は出来るだけ冷静に答えた。

「そんなことが、できるんだ?」

「すぐ返信して、頼みましょう」

 宗次郎はパソコンに向き直ると、すぐさま要件を打ち込んだ。

 小西夫妻に確認させ、その場で送信する。

「さ、これで少なくとも明日にはまた返信されるでしょう。まずは落ち着いて明日を待ちましょう」

「すまないな、宗ちゃん」

「いいえ、なんでもないことです。……待ってください。メールもいいけど、琴美さんの顔を見ながら直接話しますか?」

「そりゃもちろんよ。でも八月末はまだずっと先よ」

「いや、スカイプを使えば待つ必要はありません」

「なんだよ、その、スカなんとかってのは?」

 小西老人が身を乗り出す。

「簡単に言えば、テレビ電話みたいなもんです。スカイプのアカウントがあればいつでも使えますよ」

「待てよ宗ちゃん。琴美ちゃんはアメリカだぜ。そんな簡単にできることなのかい」

「メールで聞いてみましょう。おそらく若いからスカイプのアカウントを持ってると思います。スカイプにアカウントを追加すればすぐにできますから」

 宗次郎は手早くもう一回メールを送った。


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