第4話 俺は夜中に闇の中に立つ
俺は夜中に闇の中に立つ
宗次郎は茶漬けを掻きこむと、早々に離れに引っ込んだ。
昼間の熱気が残る部屋を開け放って、宗次郎はパジャマに着替えると、ぼんやりと縁側に胡坐をかいた。幸か不幸か宗次郎は酒に強く、小西老人に付き合って呑んだがそれ程酔ってはいない。
宗次郎はぼんやりと団扇を使いながら、濁った夜空を見あげている。
庭が広く、地面が多いせいかこの家はそれ程暑くない。
さっき小西夫妻から聞いた話を考えていた。
夜の中に押し黙って広がるこの家が取り壊されることは、この家には無性に不似合いに思えた。
そうなると余計に、この家を取り壊すことに異存を示さない孫娘のことに思いが及んでくる。
いくら十七歳とは言え、この家がどうなるかくらいは判りそうなものだ。小西夫妻が言うように、今の社長に上手く丸めこまれたのか。それとも知らないのか。いや、今の若い連中の考えは、そう言った乾いたものかも知れない。大学で教えている学生たちを思い浮かべてみると、そんな気がしないでもない。いや一概に決めつけちゃいけないな。
「いかん。堂々巡りだ」
宗次郎は熱くなってきた頭を持て余してきたので、寝ることにした。
どっこいしょ、言って立ち上がりながら、どっこいしょはないだろうとふと思った。学生言うところのオッサンだ。
部屋の方へ振り向いた時、風景がぐらり、と揺れてねじ曲がった。
また来た! あの感覚だ。頭のてっぺんから金属の棒をねじ込まれる重い感覚だ。躰の力がぬけ、ぺたりと宗次郎は座りこんだ。
「おいっ、宗次郎!」
誰かが自分を呼んだ気がする。その声は、宗次郎の頭の中で響いた。
それっきり、宗次郎は深い闇の中に閉じ込められた。
躰が自分の意思を無視して動いていく感覚がある。
幽かな光が、足許から宗次郎を照らしている。
足許は光が浮かぶ辺りだけ、ぽっかりと空間が広がり、光の底では何十万、何百万もの
宗次郎でありながら、宗次郎でない何かが、必死にもがき何処かへ向かっている。向かっている先は判らないが、確かに何処かへ必死に辿りつこうとしているのだ。
躰は光の底へゆっくりと沈み込んでいく。落ちてはならない。落ちてしまえば戻れない。その思いがある。光の底が近づいて来て、蠢くものの正体が見えた。何十万、何百万もの蠢く手が、宗次郎に縋りつこうとしている。
宗次郎は、声もなく叫んで上に昇ろうともがいた。恐怖と言う単純な感覚ではない。静謐な光の底の、無言の真空への熔解。そしてまた闇の中へ閉じ込められた。
「やぶさか、せんせい」
あの、恐ろしい残像の中で、小西老人の切羽詰まった声が遠く呼びかけてくる。
「はい?」
「あ、あの……」
振り返ると、及び腰の小西老人と、その背中に縋りついて怯えた眼で宗次郎を見ている時子さんの姿があった。
宗次郎はようやくあの熔解の感覚から解き放たれた。力が抜け、その場にしゃがみこむ。出るのは虚しい吐息ばかりだ。
「宗ちゃん。こんな真夜中に、こんな所になんでいるんだよ?」
「なにがあったんですか、薮坂先生」
二人が恐る恐る聞いてくる。
宗次郎は力なく首を振った。
「わかりません……」
宗次郎が縋るように小西老人の方へ手を差し伸ばすと、二人はさっと一歩下った。
宗次郎はぎょっとして、躰を固くした。小西老人が、ゴクリと唾を飲み込む音が、夜気にはっきりと響いた。
「あの、僕、何をしていたんでしょう?」
宗次郎は視界がおぼろになっていくと同時に、心の中がぽっかりと空虚になっていくのが分かった。
いやあ、と小西老人は首をひねり、
「私達が見た時には、宗ちゃんこの蔵の前に突っ立って、凄い眼してじいっと蔵を睨んでた」
小西老人が額の汗を拭った。その背中から顔を突き出した時子さんが、
「それでね、その前にぎゃあっ、って言う悲鳴って言うか、人間と思えない凄い叫び声がしてね。びっくりして声のした方へ来てみたら、宗ちゃんがここに」
つっかえ、つっかえ言った。
「その姿を見た時には、ゾオッとしたよ。間違いなく叫んだのは、宗ちゃんだよ。でね、幽霊みたいだったな。いや、それもまったくの別人みたいに見えたなア」
言ってしまって肩の荷が下りたと言う風に、小西老人は躰の力を抜いた。
「そうですか。実は、何にも覚えていないんです。どうしましょう?」
弱りました、呟くと宗次郎は力を振りしぼって立ち上がった。
激しい運動をした後のように、ひどく疲れている。歩き出そうとして足がもつれた。
宗次郎は目の前の蔵を眺め、振り返って後ろを見た。
この蔵は、母屋と離れを結ぶ渡り廊下の、庭と反対側の奥まったところにある。離れから蔵までほんの十五メートルか二十メートルの所だ。この蔵まで真っ直ぐに来たのなら、こんな理不尽な疲れにおそわれる筈はない。
それともここへ来るまで、何処かを走り回っていたのだろうか。しかも、その途中かこの蔵の前で、宗次郎は人間とは思えない声で咆えているのだ。
「どっちにしてもこんな所で立ち話も出来ないでしょ。中に入りましょうよ」
時子さんが、宗次郎を気遣って言った。
二人の後をよろよろと歩きつつ、宗次郎の頭の中で凍った風が吹き荒んでいる。吹き渡っていく冷たい乾いた音の中で、幽かに繰り返される声のとよみ。届きそうで届かない何か。その何かが自分とつながっている感覚がある。
だがこの疲れは、只事ではない。水につけられた綿のような頭と、泥のように流れ出しそうな躰。一体自分に何が起こったのだろう。 宗次郎は慄然としていた。
土間に立って初めて宗次郎は、自分が跣(はだし)なのに気づいた。
(素足のまま、外へ飛び出したと言うことか)
宗次郎はサンダルを持って外に出ると、出てすぐ左手にある水道で足を洗った。
時子さんが出してくれたタオルで足を拭き、いつもの場所に腰を落ち着けると、それでもう躰は言うことをきかないくらいぐったりとなった。
時子さんが熱い煎茶を出す。小西老人は黙って宗次郎を見ている。
宗次郎も何も言わない。暫く沈黙が流れた。
「済みません、ご迷惑お掛けして」
それだけ言うのがやっとだった。
「薮坂先生、大丈夫? 前にもこんなこと、あったんですか?」
時子さんが心配そうに尋ねた。
宗次郎は溜め息をつき、黙って首を振った。
「そう。……夢遊病、みたいなものかしらね?」
時子さんが誰へともなく聞く。
「判んないね。あれは、突然出るものなのかねえ」
小西老人が、ぼんやりと返事する。何か想いに捉われている顔だった。
また長い沈黙がやってきた。
しかし、どう頭を捻って見ても自分が夢遊病などとは思えない。かと言って、今日特別に強烈なストレスを感じた覚えもない。宗次郎は黙然として座っているしかなかった。それに躰も頭も限界にきている。
バスの中から見えた、異世界のような風景が蘇る。あれと今夜の異常な自分の行動と関連があるのだろうか?
「ともあれ、どうしようもないのでもう一度、寝ます」
宗次郎が立ち上がると、小西老人はぎょっとした顔で宗次郎を見あげた。
「もう、大丈夫だと思います。そんな感じがするんです」
部屋へ戻りながら、
(あの犬公め、こんな時は要領よく、姿を見せないな)
ぼんやりとそんなことを、頭の隅で思い浮かべていた。もうこれ以上何も考えたくなかった。
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