第3話 不穏な帰路 不穏な下宿先

不穏な帰路 不穏な下宿先


 世の中がバブル景気とやらで賑やかだった頃も、デフレだ何だのと暗い話の時も、そして今も、宗次郎にはとんと縁のない話だった。来年は六十年ぶりに東京でオリンピックだ、と騒がしい。

 宗次郎は相変わらず、大学の研究所と下宿を往復する毎日だった。週に二回程駅前の碁会所に寄り、顔馴染の常連さんと、時間が許す限り囲碁に没頭する。休みを取って、流れ星やオーロラを見る為に、あちこち世界中を飛び回るのは毎度の事だ。だが、後は毎日、判で押したように同じ日々だった。

 大学が休みに入ってからも規則的な生活は変わらない。だが今日はそんな日常に、なにか変化が訪れたような気がする。目に見えない内側の変化だが、宗次郎にとって居心地のいいものだった。

 駅へ向かうバスの中で、今日の夕飯はなんだろうな。そんな他愛もないことを思いながら、宗次郎は窓の外を流れる風景をぼんやりと眺めていた。夏休みのおかげで、大学から駅へ向かうバスに乗客の姿はほとんどない。

「うっ……!」

 頭頂部から脳髄へ金属の棒をねじこまれるような感覚を覚え、宗次郎は思わず声を上げた。鈍く重い感覚が背骨まで貫いた。だが不思議なことに痛みはない。

 宗次郎はしばらく目を閉じ、呼吸が整うのを待った。躰の中の何かが吸い取られるような、余計な何かが躰の中に充満していくような真逆の感覚があった。

 やっと呼吸が落ち着き目を開いた時、目の前がおぼろにかすんでいた。宗次郎は頭を振り遠のいた意識をはっきりさせようとした。

 深呼吸して窓の外へ目をやる。まだかすんでいる目がとらえたのは、深い樹木のつらなりだった。宗次郎の頭が、何かに反応した。

 見慣れたような風景だったが、何か異様なものに映る。たしかに山の上の大学から下に下りるまで道路の両側に昔の名残を残す森が連なっている。

「こんなに、深い森だったっけ?」

 宗次郎はもう一度目を閉じ、ぱっと目をひらいた。

 次の瞬間、宗次郎の息が止まった。

 バスの窓の外には、藁葺きの背の低い家が二、三軒並んでいるのが見えた。毎日通う道にこんな風景はない。山を下りたバスは、いつものように右へ曲がり駅へ向かっている。ちょっと走れば、住宅地に続き商店やコンビニが並んでいる。だが、今宗次郎の目に映るのは、藁屋根や古びた瓦屋根の家並みだった。道は舗装されていない。道の両側を歩く人の姿を見て、宗次郎は目を見張った。男も女もひとり残らず着物を着ていて背が低い。どの家もひさしが深く暗い印象を与える。馬が材木を積んだ荷馬車を引いている。

(これはなんだ?)

 思考力をなくした頭で、宗次郎はまるで違う時代に迷いこんだような外の風景を睨んでいた。

 次の瞬間、またあの感覚が戻ってきた。今度は金属の棒を頭のてっぺんから引き抜かれる感じだ。意識がよどんで薄れていく。脳みそを引きずり出されるおぞましい感覚に、宗次郎は意識を失った。

「お客さん、大丈夫ですか?」

 呼びかける声と一緒に、車の走る音や埃っぽい臭いが戻って来た。

 宗次郎が顔をあげると、目の前にバスの運転手の心配そうな顔があった。

「大丈夫です。ちょっと、暑さにやられたみたいで」

 言って宗次郎は立ち上がった。全身がいやな汗で濡れている。

 いつものように電車に乗って帰ったのだろうが、その間のことを宗次郎はほとんど覚えていない。有り難いことに、方南町は終点だ。だからこそ運転手に気づいてもらえたらしい。


 宗次郎は方南町駅前の碁会所も目に入らず、真っ直ぐに下宿へ戻った。戻ったらまずは食堂へ顔を出すのが日課になっている。今日はそれもおっくうだ。さっき見た風景と不思議な感覚で頭は混乱し、躰は支えるのが精一杯な程にくたびれ果てている。

「只今戻りました」

 食堂の椅子にどさりと座りこむ。

「お帰りなさい、薮坂先生」

 時子さんが出迎えてくれた。宗次郎の前に、冷たい麦茶が置かれる。

 麦茶を一気に飲み干し、おや? と宗次郎は首を傾げた。時子さん、どこか落ち着かない様子で、元気がない。朝と随分顔つきが違って見えた。

「なにか、あったんですか?」

 思わず宗次郎が訊いたほど、時子さんは取り乱した様子だった。

「……ええ、それが……」

 と言いかけ、

「ちょっと主人を呼んで来ます」

 時子さんは立ちあがり、庭の方へ出て行った。

 珍しいことではある。宗次郎はまたもや首をかしげながら、冷えた麦茶をもう一杯飲んだ。少し頭が落ち着き、躰も力を取り戻したようだ。

「まさか、ここでも何か起こったんじゃないだろうな」

 バスから見た風景が焼きいて、宗次郎を不安にさせる。何故あんな風景を見たのか? 理由などないのかも知れない。あの感覚はなんだったのか。病気の前兆?それとも超常現象? 確かなものは何もない。何も分からないというのが、宗次郎の正直な気持ちだった。

 すぐに小西老人と時子さんが戻って来た。小西老人は庭の草むしりでもやっていたのだろう、手には麦藁帽子と軍手、首にはタオルと言う出で立ちだった。

「お帰りなさい、先生。今日も暑うございますね。先に風呂で汗を流して、さっぱりしてくださいよ」

 小西老人はタオルで、顔と首筋の汗を拭った。

「でも、何かお話が?」

「いやいや、あわてても仕方ありません。汗を流して、一杯やりながらゆっくりと」

 顔の前で軽く手を振って、小西老人が私も汗を流しますと付け加えた。

 で、宗次郎と小西老人は汗を流し、さっぱりとして食卓についた。風呂に入ったおかげで、宗次郎の気分も随分落ち着いたものになった。

 冷えたビールが出て、肴が出る。今夜の肴は鱸の洗いに焼き茄子である。

 庭では蝉と蜩が交互に鳴いている。

 クロベエは土間の自分の場所に、のっそりと控えている。

 ビールを二、三杯喉に流しこみ、鱸の洗いと焼き茄子で腹もさっぱりとした頃合いをみはからって、小西老人が口を開いた。

「先生がお出かけになった後、お昼すぎ頃でしたか。この松島の財産を管理している、後見人の方から呼び出しがありましてね」

 松島と言うのは、この屋敷の持ち主だった老婦人の亡夫の姓である。

「後見人?」

 宗次郎は、ちょっと面食らっている。

 小西夫妻がこの家の管理人で、その先には老婦人の後継者か直系の誰かが、現在の当主だと思っていた宗次郎である。

(どうやら、そうではないらしい)

 取りあえず、宗次郎は黙って小西老人の話を聞くことにした。

「ええ、後見人です。亡くなった先代社長の弟で、奥様の孫娘の叔父に当る人が後見人になっています。奥様が亡くなられた後、会社の社長におさまってますよ」

 と言いつつ、小西老人どうも歯切れが悪い。

 五代に亘(わた)っての江戸っ子である小西老人の喋り方は、宗次郎からするとちゃきちゃきの江戸っ子だと思わせる歯切れのいいものだった。それが今はすっかりいなせさが影をひそめている。

「この家も含めて、遺産を相続するのは孫娘の琴美さん一人なのですが、まだ十七歳なんです。それで、後見人が必要となる訳ですが……」

 小西老人は喋るうちに段々と苦り切った顔になっていく。ため息までついてしまった。

「それで……?」

 だがまだ自分がそれとどう関係があるのか、宗次郎にはさっぱり判らない。

「今度のことだって、あの人の考えよ。琴美さん、うまくまるめこまれたのよ」

 たまらなくなったのか、時子さんも口を挟んできた。

 どうやら小西夫妻は相当に興奮し、後見人とやらに感情的になっているらしい。

「まあ、ちょっと待って下さい。これじゃ何が何だか判りません。具体的に、何があったのか教えてください」

 宗次郎が宥めると、小西老人は一瞬、きょとんとしたが、

「あれ、私最初に何も言いませんでしたっけ?」

 と訊いたものだ。

「ええ」

 と宗次郎、飽くまで穏やかに受けた。

「いや、これは失礼。面目ない」

 小西老人は手指で白い頭髪を撫でつけ、苦笑いした。

「こりゃ迂闊だった。……実は、現社長で後見人の弁護士から連絡がありまして。出掛けてみたら、今年十一月でこの屋敷を壊すので、整理をして措けと言われました。なんでも此処を、マンションにするのしないのってえ話なんですよ」

 小西老人はいっそ淡々とした口調で言った。

「ええっ?」

 驚いたのは宗次郎だ。

「ですから、どんなに遅くとも十月には下宿人はむろん、私たちも出ていってくれと、とにかく強引なんですよ。こっちだって、突然にそんなこと言われてもねえ」

 いつもは元気で底抜けに陽気な時子さんが、むっつりした顔になった。

 この家の下宿人とは自分のことだし、小西夫妻の話が正しければ、十月には居心地のいいこの家を出ていかなくてはならないのだ。

「困ったな」

 宗次郎は思わず呟いていた。

 家主の都合で、三か月前に言われれば、下宿人の宗次郎はうんと言うほかないのだ。

 部屋を出るのは仕方ないにしても、問題は部屋の蔵書である。正確に数えていないから分からないが、二千冊近くあるはずだ。

 今どきのマンションで、二千冊の本を並べたらどうなるのか。三年前も本が原因で、なかなか部屋が見つからなかったのである。

「それでね、薮坂先生。本当に申し訳ありませんが……」

 小西老人が、辛そうに眼を伏せた。

「わかっています。出来るだけ早く部屋をさがしますよ」

「こればっかりは、私達の力ではどうしようもありませんや」

 小西老人はきっと鋭い視線を宗次郎と時子さんに巡らせ、ため息をついて自分の手に眼を落とした。

「本当に口惜しいったらないよねえ」

 時子さんは大柄な躰をくねらせ、ビール瓶を荒っぽく取り上げると手酌で注ぎ、一気に飲み干した。

「私達だってお払い箱ですよ。ああもう、奥様が生きてらした頃はこんなことはなかったのに。馬鹿な話ですよ。あんまり、長生きするもんじゃありませんね」

 時子さん、鼻息が荒い。

「怒っても、仕様がねえことだ」

「それでもね、判っててもあんな高飛車な言い方が、どうしても気に入らないのよ」

 時子さんが、腹に据えかねると言う眼で中空を睨んだ。

「誰のことです?」

 宗次郎が訊くと、時子さんは鼻先で笑い、

「電話して来た弁護士ですよ。社長の弁護士。今の社長、重治さんって言うのだけどね。先々代の社長の弟なんだけど、社長が生きてる頃は、あんな人じゃなかったのよ。奥様が亡くなってからよ、変わったのは。やっぱり、前から会社のこと狙ってたんじゃないかって思うのよね。それに重治さんの奥さんよ、問題なのは。あの女がけしかけてるのよ」

「おい。薮坂先生に、内輪の愚痴だの恥を晒すもんじゃないよ」

 小西老人が止めた。

「ちょっと、待って下さい。その社長って、一人残ったお孫さんの後見人でしょ? 勝手にここを壊したり、マンション建てたり出来るんですか?」

 宗次郎は単純な疑問を口にした。

「そう、それなんですがね」

 小西老人が、身を乗り出してきた。

「孫娘の琴美さんも承諾して、後は委任状に署名するだけだって言うんですよ。だけどね、こればっかりはどうも納得出来ねえんだなあ」

 ビールが半分残ったグラスを握りしめたまま、小西老人が更に身を乗り出し、宗次郎を覗きこむと声を落とした。

「だってね、ご両親が亡くなった後、琴美さんを奥様が手塩にかけて育てられたんです。しかもこの家は、奥様が先々代の社長と暮らされた家でもあるんです。と言うことは琴美さんの父親が生まれた家でもあるんです。当然、琴美さんのご両親も此処で暮らされましたしね。大切な、思い出の場所ですよ。ご両親とお祖母さま、そして琴美ちゃんを繋ぐものはもうこの家しかないんです」

 ぐいとビールを飲み干すと、小西老人は上目使いに宗次郎を見て、言葉を続けた。

「いや、ご免なさい、琴美ちゃんとか言っちゃって。でも私らにとっても、琴美ちゃんは大切な可愛い娘みたいなもんなんだ。それでね、薮坂先生、この大切な家をぶっ壊しちまってマンションにするよ、はいそうですかって琴美ちゃんがサインする訳がないんです。これはどう考えたって、辻褄が合わないでしょうっての。そうでしょうが、宗ちゃん」

 段々と声を張り上げながら、小西老人は一気にまくしたてた。

「はあ、なるほど」

 大体の様子が分かって来たと思いながらも、琴美さんが琴美ちゃんになり、薮坂先生が宗ちゃんになっちまったよと、宗次郎は面白くも切なくなってきた。

 そう言わせるほどに、小西老人は切羽詰まっているに違いない。 宗次郎は、黙って小西老人のコップにビールを注いだ。

「ああ、すいませんね。それにね」

 小西老人は、悔しそうに唇を噛んだ。

「まだ他にも何か、腹に据えかねることがあったんですか?」

 と宗次郎は心情的にすっかり、小西夫妻寄りになっていることにも気づかず尋ねた。

「奥様の法事。今年のですけど。会社に関係ないものとして、ここでやってくれって言うんですよ。費用(かかり)は持つから、手配は私達と琴美ちゃんとでやってくれって、こうですよ。今の社長がそう言ったんですよ。わかります?」

 小西老人はどんとコップをテーブルに置いて、ぐしゅりと鼻をすすった。

 時子さんがそっと小西老人の背中をさすっている。

 小西老人が問題の会社に勤めていたのは、琴美の祖父が社長だった頃からである。

 琴美の祖父が小さな会社を起ち上げ、共に苦労して大きくしてきたのだ。初代社長にも、琴美の父にも信頼された小西老人なのだ。 目立つ部署ではないが、会社の礎をしっかりと支え続けた小西老人を、初代社長の奥さまである琴美の祖母は同じように信頼し、この家の管理人として頼んだのである。

 その奥様も社長夫人として、夫や社員達と一緒に苦労して来た人である。夫人の社員への心遣いは、それはもう行き届いたものだったらしい。

「それはもう、一人々々に分け隔てなく気を遣われましてね。その血をひいた琴美ちゃんのお父上も、しっかりした方でした」

 昔を懐かしみつつも、祖父母と両親の思い出が詰まったこの家を取り壊すことを、琴美が承諾する筈はないのだと、小西老人は繰り返し宗次郎に向かって力説した。

「あの重治社長夫婦に騙されているんです。間違いありません」

 時子さんが断言した。

「やり方が露骨すぎますよ」

 時子さんが他人をこんなあからさまに非難するも、宗次郎にとって初めてである。二人の話からすると、現社長夫婦がかなりの元凶であるらしい。

 想像以上の人でなしか、小西夫妻の大いなる勘違いかどちらかだな、と宗次郎は思った。何が本当なのか、今のところ即断するのは時期尚早と言うものだろう。立証すべきものは多く、検証のテーブルに載せる材料はあまりに少ない。

「それで、肝心の孫娘の琴美さんと言うのは、今何処に?」

 何となく気になって、宗次郎は訊いてみた。

 後見人がついた十七歳の女の子。宗次郎が思い浮かべるのは、大学のキャンパスを歩いている学生の姿に他ならない。若いと言うよりまだ幼い面立ちを残す、一年生と二年生の姿だ。女子高生などと何の接触もない宗次郎が想像できるの身近なサンプルは、それ以外になかった。

 十七才の孫娘・琴美は間違いなく高校生だ。宗次郎がこの家に寄宿して三年、孫娘の話題は一度も小西夫妻の口にのぼらなかった。全く想像も見当もつかない宗次郎である。

「琴美ちゃんは学生です。今は、アメリカですよ。留学先はオーストラリアですがね。アメリカはゴルフで行ってるんです。特待生なんですよ琴美ちゃん」

 小西老人の話が、筋道を失い、もつれてきている。

 腹立ちまぎれに立てつづけに呷った酒のせいかも知れない。酒は強い筈の小西老人だが、今夜は青い顔をして眼が据わっている。

「特待生? ゴルフのですか? 高校生なんでしょう?」

「ええ。私はゴルフのことは、よく分からないんですけどね。ゴルフが好きだったお父様の影響なんですよ」

 時子さんが足りないところを補ってくれた。

「へえぇ……」

 乏しいデータをひっくり返してみたが、同僚が置いていったスポーツ新聞やテレビニュースくらいなものだから、出てくるのは男子プロや海外の一流プロの顔ばかりだった。女子プロについてはもっとひどく、引退した有名プロの二、三人しか思い浮かばない。特待生にいたってはもうさっぱりである。宗次郎は手早く諦めた。

「今行ってるアメリカは、プロ・アマが出る大会で行ってるんです。今話題の新人女子として、結構名前が出るんです」

 小西老人がテーブルに肘をつき、さも嬉しそうに相好を崩した。

「ほう。それは全然知りませんでした。どうもそう言う世界に疎いものですから。すみません、知らなくて」

「ゴルフはイギリスが発祥の地ですが、今は何てったってアメリカですよ。来年は琴美ちゃん、十八歳ですからね、わたしが思うに、焦ってるんだと思いますよ」

「その、琴美さんとやらがですか?」

「違いますって、社長ですよ、今の社長。しっかりしてよ、宗ちゃん」

 小西老人が、宗次郎の肩をひとつ景気よく叩いて言った。

 小西老人、本格的に酔っぱらってしまったらしい。

「すいません、先生。主人何だか酔っちゃって」

 時子さんがすかさず謝る。

「すいませんじゃないっての。いいか、宗ちゃん。ちゃんと人の話を聞きなさいよ」

「はあ、すみません」

 小西老人の酔いは、絡み酒の様相を呈してきている。

「ここが大事なところですよ。社長の後見人としての期限と言うか期間がね、琴美ちゃんが十八歳になるまでなんだ。奥様がそう決めなさったんだ。後見人としての権利がある間にだよ、何とか自分の有利にもっていって、財産を琴美ちゃんに渡さない算段をしてやがるに違いないんです。ええ、こりゃまちがいありません。そうでんしょ?」

 憤然として言って、小西老人、がくりとうなだれた。

「私もそう思います。でもこれじゃ、相談も何もあったもんじゃありませんね。琴美ちゃん、留学なんかやめてさっさと日本に戻ってくればいいのに」

「その琴美さんの留学、誰が決めたんですか?」

 ふと思いついて、宗次郎は聞いてみた。

「たしか奥様でした。でも、琴美ちゃんあんまり行きたくなかったみたい。約束だからって強引に留学を決めたのは、今の社長の重治さんだったと思うわ」

「そうですか……」

「なにか気になる?」

「いえ、ただちょっと。もし、最初から今回のことなどを今の社長が計画していたのなら、琴美さんが日本にいない方がやりやすいかなと思ったんです」

「そうね、そうかもしれない。この人、最後まで琴美ちゃんの留学反対したんです。寂しすぎるって言って」

 時子さんは、ほとんど酔い潰れてしまった夫を淋しそうに眺めて言った。

「小西さんがこんなに怒るなんて、よっぽどのことなんですね。僕に何か出来るとは思いませんが、手伝えることがあればおっしゃってください」

「ありがとう、薮坂先生」

「じゃあ、今夜はこれで引き上げます。小西さん寝かせてあげた方が」

 立ちあがる宗次郎へ、時子さんは我に返った顔で同じように立ちあがった。

「ちょっと待って下さいね。今、後の作りますから。つい、うっかりしちゃって」

「あ、いや今夜はもう」

「だって、酒の肴だけで何もご飯らしいもの食べてないでしょ」

「ああ、でも、いいですよ。死にゃあしません」

「駄目ですよ、そんなの。そうだ、じゃ、鱸でさらっとお茶漬けにしましょうか」

 宗次郎の肩を抑えるようにして座らせると、時子さんは手早くお茶漬けを用意した。

「ウチの人はね、初代の社長が大好きでそりゃあもう、会社一筋の人だったんです。本当に仕事と社長さんが好きで。定年してからも、社長さんとつながりがあるこの家にいられるって、心から嬉しそうに笑ってました。ウチの人、若い頃に父親亡くしてるから、社長さんのこと父親みたいに慕ってて。ウチの人にとっても、この家は大切なものなんです」

 言って、時子さんはほろ苦く笑った。

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