第2話 薮坂宗次郎これでも助教授です
薮坂宗次郎これでも助教授です
夏休みとあって、大学のキャンパスは普段に比べると静かだった。休みに入ったばかりなので、クラブやゼミの学生がたむろしている。それでものんびりしたものだ。教室の間を抜け、宗次郎は東の外れの研究室棟へ入った。宗次郎の研究室は一番奥で、裏手の温室へつながっている。
研究室棟の中には、一番手前に宗次郎の部屋があり、他に四つに区切られたエリアがあって、そこにはガラスケースだの培養箱だのが整然と並んでいる。宗次郎の専門は蚊だが、ここには他にダニ、蝿、蚤などの人間にとって害虫と言われるものが研究されている。バイオ技術の為の微生物も培養されている。
研究室棟の南側には、微生物の為の実験場があり、実験場と研究室棟を合わせたと同じ広さの、蚊や蝿の生態を観察するガラス張りの立派な温室が六つ建っていた。
大学時代の先輩で教授でもある大友は、夏の学会の為の研究論文をまとめている最中だ。あまり邪魔しても悪いと思って、宗次郎は顔を出さない。大友の部屋はキャンパスの教室よりのひと棟に、他の教授達と同じ場所にある。宗次郎のプレハブに毛が生えたような部屋と違って、荘重で広い部屋だ。この研究室棟は、夏は暑く冬は寒い。
研究室には五、六人学生がいて、課題の微生物培養と家ダニの観察をやっているところだった。学生が挨拶するのへ応(こた)えておいて、宗次郎は自分の部屋へ入った。
部屋へ入ってドアを閉めた途端、電話が鳴った。宗次郎は携帯電話を持っていない。今のところ必要ないからだ。
「はい、薮坂です」
あわてて電話に駆けより受話器をとる。
「薮坂、ああ、俺だ。正太郎だ」
長兄の声がした。
「兄さんか。宗次郎です」
「ちょっと打ち合わせしておこうと思ってな」
「打ち合わせって?」
長くなると見て、宗次郎は椅子に腰を降ろした。
「また忘れてるな。祖(じ)父(い)さまの七十回忌法事のことだ」
兄が顔をしかめているのが見えるようだ。
「ああ、そうだ。忘れるところだった。で、いつだっけ?」
「おいおい、やっぱりな。修三が、宗次郎の兄貴はきっと忘れているから、連絡しといた方が良いって言ってたんで念の為に電話したんだが、案の定だったな」
正太郎の声が笑っている。
「いや、申し訳ない。待てよ兄さん、祖父さまはもっと前に死んだんじゃなかったっけ?」
宗次郎が苦笑いした。
「それがだ。先代の住職が急に亡くなって、息子が京都から慌てて戻って跡を継いだことがあっただろ?」
「ああ、覚えてる」
「その時、引き継ぎが上手くいってなくてだな、住職が去年の十月くらいに調べたら、もう七十回忌が過ぎてたらしい。檀家が多い寺だからな。まあ仕様がない」
「それで、今年、やろうってことになったのか」
「そうだ。節目の七十回忌でもあるし、今回は兄弟三人、間違いなく集まれと親父もおふくろも言ってる。ここから先は永代供養ってことになるらしいから、大きな法事はこれが最後らしい。お前、大丈夫だろうな?」
正太郎がややくどい口調になった。
「うん。で、いつだっけ? もうお盆終わったろう?」
「こら、ばか。福岡の盆は八月だ。八月の十三日からだよ。東京は七月だが、勘違いするなよ」
「判った、判った」
「やるのは、八月の十五日だ。それで、一日か二日早目に帰ってこいよ。色々面倒らしい」
「うん……」
「福岡は暑い。そっちはどうだ?」
「こっちも暑いよ。暑いのはおんなじだ」
「そうか。ま、躰に気をつけて頑張れ。じゃあな」
「知らせてくれて、ありがとう。おふくろ達に宜しく」
「うむ」
宗次郎は受話器を置くと、そうかと呟いた。
祖父蔵之介が死んでからもう七十年以上経つのだ。とすると、かなり若くして祖父は死んだんだろうな? 初めてそのことに思い当った。何故か素晴らしく新鮮なことのように思われた。祖父の蔵之介は、宗次郎が生まれる前に他界している。だから、宗次郎は直接には祖父を知らない。宗次郎の夢に出てくる祖父の姿は、全くの想像であり、宗次郎の思いこみなのだ。これこそそうだと刷り込まれている情報は、田舎の家にある祖父の肖像画だ。
(帰らなきゃ)
宗次郎は急に、祖父の肖像画を見たくなった。すぐにでも見たい。妙に落ち着かない気持ちにさせられる。祖父の肖像画を最後に見てから、もう何十年も経っているのではないか。それにこの六、七年田舎の福岡にも帰っていない。
そして今朝見た祖父の夢が、宗次郎をある種の感傷の中へと誘い込んでいる。郷愁と重なった、湿って温かい緩やかな心の傾斜であった。
その日、宗次郎はいつもより早く研究室を出た。
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