第1話 最悪の夢といつもの目覚め
最悪の夢といつもの目覚め
荒涼たる大地が広がる。
細かい
「
陵雲の夢 誰ぞその影を歩まんとするか」
思わずこの詩の一節が口を衝いて出た。
周囲に黒い人影が
その人々は溟くして見えざる涯めざして進んでいく。
私は馬に乗っている。
鞍の上から鋭く重なる丘陵地帯が見渡せる。丘の重なりを越え、何万と言う人影が進んでいくのだ。
戦場である。
極寒の
突如、風を切り裂く砲弾の雄叫びとともに、凍える大地の怒りの発露の如く、大地が弾け
足許で、白い巨大な軍用犬が私を見あげている。私は行軍を共にしてきた犬に頷き、叫ぶ。
「突撃ィ!」
軍刀は手を放れ飛び、私が掴んだのは凍土のひと塊れであった。骨を痺れさせる凍気が私の背中を這い上がってくる。薄れゆく意識の裡(うち)で、私はもう死ぬのだと覚悟した。
「生きて再び、叶わず。……さん……」
「おさらば……」
と、右手の裂けたる手袋の手指の先に、生温かき息のかかり、しばし後、頬に温かく触れる者あり。そは、我が連れたる軍用犬の姿。
(軍用犬?)
疑問が浮かんだ時には既に遅かった。
嗄れた吠え声と一緒に、いつものよだれと熊のように大きな前足が宗次郎を襲ってきた。
「どけっ。やめろ、この馬鹿。間抜け犬が毎朝々々、どくんだ、この馬鹿犬が」
宗次郎は、ゆうに四十キロはあるだろう巨体を押しのけようと、ベッドの上でのたうちまわった。
「頼む、頼むから、判ったからどいてくれよ」
宗次郎は必死に悶え、どうにか毎朝の闖入者をベッドの下に追いやった。
「お座り……」
号令をかけておいて、宗次郎は髪を掻きあげ、肩で息をした。ふう、疲れる。
ベッドの脇で千切れるほど尻尾を振って愛想を振りまいているのは、六歳になる秋田犬で名をクロベエと言う、この家の飼い犬である。どこを見ても黒いところなど見当たらない。
だが飼い主の小西老人は、この犬にクロベエと言う名をつけ、得々としている。
どう頭をひねっても、宗次郎には飼い主の感性が理解できない。出来ないが、理解できないものを無理にこじつける必要もないので、小西の親爺の言う通り宗次郎もクロベエと呼んでいる。
そして、飼い主が飼い主なら、飼い犬も飼い犬である。
宗次郎がこの広い家の離れを借りた翌日から、何が気に入ったのか、クロベエは宗次郎に非常な好意を示し、毎朝こうやって起こしに来る。防ぐ手は今のところない。
この屋敷は、建てられてから百五十年は経とうかと言う古強者である。渡り廊下で結ばれたこの離れは見事な数寄屋造りで、ドアもなければ錠を掛ける余地もない。犬であろうと人であろうと、その気になれば出入り自由なのだ。
(おっと、いかん)
宗次郎はクロベエの顔を見て、
「お手、おかわり」
芸をさせた。お座りのまま放っておくと、クロベエは決まって自身の存在の権利を主張して、またぞろ、のしかかってくるのである。
「伏せ」
投げやりに言って、ベッドの脇の缶からドッグフードをひとつかみ取り出す。
「待て」
クロベエの鼻先に突きつける。欠伸まじりに寝ぐせのついた頭を掻き、ぶつぶつと十数える。それから、よしと号令する。
クロベエは頗(すこぶ)るつきの悪声でひと声吠えると、宗次郎の手からドッグフードを貪る。これで、宗次郎とクロベエの朝の儀式は終わりである。クロベエは尻尾を振り立て、さも宗次郎を信頼したような眼で見る。
(まあ、これで本人は可愛い顔してるつもりなんだろうな)
宗次郎はクロベエの頭を撫でてやる。
取りあえず朝の挨拶さえ終われば、従順で温和しい奴なのだ。宗次郎にしても、慕ってくるクロベエが嫌いなわけではない。
宗次郎はベッドに腰を降ろしたまま、それにしてもと考える。目覚める前のあの夢は、また何と言うか、夢と現実の
夢の中に居る〈私〉は、確かに宗次郎自身なのだが、その正体は宗次郎ではない。〈私〉はまごうかたなく宗次郎の祖父薮坂蔵之介その人である。場処もはっきりと判っている。日露戦争である。日露戦争はロシア本土で戦った戦争ではないから、激戦地旅順の外れである。それだけ明確でありながら、夢の中の〈私〉は宗次郎とも祖父の蔵之介とも言えぬ存在で、いわば祖父の中に宗次郎が存在する感覚なのだ。夢だからではない。
(いや、逆かも知れない)
と宗次郎は思う。宗次郎の中に祖父蔵之介が存在するような、混然とした感覚なのだ。一概に夢の話と片付ける訳にはいかない、不思議な感覚だった。
「しかしまあ、夢は夢だ」
宗次郎は呟き、
「行くか」
クロベエに声をかけて立ちあがった。
宗次郎の声を聞くと、クロベエは自分が入って来た雪見障子の方へ身を
渡り廊下に続く離れの広縁に出るとき、クロベエはひょいと後ろ足をあげ、障子を蹴って宗次郎が通れるくらいに開いて見せたものだ。
(こいつ、今度はそういう芸も身に付けたか。油断ならない犬(いぬ)公(こう)だ)
ほほえましい気持ちになって、宗次郎は広縁に出てきっちりと障子を閉めた。クロベエは、母屋への渡り廊下の端で宗次郎を待っている。
宗次郎が近づくと、クロベエは先に立って歩き出した。まるで路次の案(あ)内(ない)と言わんばかりである。
古い屋敷なので庇が深く廊下は仄暗い。母屋の廊下に出ると、左側は築山がある広い庭で、視界がぱっと広がり明るくなる。庭には夏の陽射しが照りつけていて、まだ八時前なのに今日も暑くなることを仄めかしていた。
庭を竹箒で掃いている大家の小西老人の姿が、朝の陽光の下に見えた。正確には大家ではなく、この屋敷の管理人である。この屋敷の持ち主は、既にこの世の人ではない。
元々この離れの下宿を世話してくれたのは、宗次郎を今の大学へ呼んでくれた先輩の大友だった。学部長を務める先輩の大友が、屋敷の持ち主の老婦人と知己があったらしい。大友は少々強引に老婦人を説得し、宗次郎の下宿を承諾させたと言ういきさつがある。 その老婦人は、宗次郎が離れに下宿する前に亡くなっている。八年前のことである。
だから宗次郎は老婦人の顔も知らないし、下宿するときの挨拶もしていない。かなりの高齢で明治の人だったと言うから、非常に長生きだったと言えるだろう。
持ち主の老婦人は、亡くなるずっと前からこの家には住んでいない。老婦人の夫が興した会社を継いだ息子夫婦が、愛娘一人を残して交通事故で無念の死を遂げたのは八年前。老婦人は夫が興し息子が継いだ会社を切り盛りする為と、家族を失った孫娘を育てる為に都内のマンションに移った。
その時、老婦人に乞われて、小西夫妻が屋敷の管理を任されたらしい。小西老人は老婦人の会社の総務部で課長として務めあげ、定年退職したところだった。二代に渡る社長を敬愛していた小西老人は、老婦人の請いを快く受けたのである。
「おはようございます」
宗次郎が声をかけると、小西老人は掃除の手を止め、
「やあ、薮坂先生お早うございます。いい天気で」
愛想良く丁寧に頭を下げた。
「今日も暑くなりそうですね」
宗次郎も丁重に頭を下げ返す。
たかだか、しがない私立大学の助教授の宗次郎に、先生などと言って頭を下げてくれるのは小西夫妻くらいなものだ。宗次郎としては、
廊下を右に曲がり、次に左に曲がって右側の重い板戸を開けると食堂である。その手前の洗面所で手早く顔を洗い、食堂に入る。
中は板張りで、十五畳ほどの広さだろうか。奥の五畳ばかりは、アイランド型のこぎれいなキッチンになっている。古い作りの板張りの部屋を改造したもので、窓も大きくされ室内は明るい。
手前には夏用の八畳の籐のカーペットが敷かれ、その上に低めのテーブルが置かれ五つの椅子が囲んでいる。
下宿人である宗次郎は毎日、この居心地がいい清潔な食堂で朝食と夕食を食べる。休みの日は昼食もちゃんと用意される。宗次郎にとって、至れり尽くせりの下宿先だ。
右手の、四枚続きの板戸を開けると、母屋の広間につながる中廊下だ。左手にも四枚板戸があり、こちら側は土間になっていてそこは昔ながらの竈が残る本来の台所である。これはもう文化財のようなもので、小西夫妻がせっせと行き届いた掃除をしているだけで使うことはない。つまり十五畳の広い板張りの部屋は、昔は客をもてなす料理の配膳所だったのだ。
今は小西夫婦と宗次郎の三人が食卓を囲む。持ち主の老婦人がいないこの屋敷に、客は来ない。それと、宗次郎が来てからと言うもの、土間でクロベエが食事するようになった。母屋へ入る廊下の途中で庭に出て、ぐるっと土間へ回りこんで来るのだ。
「まあまあ、薮坂先生、お早うございます。今日もいいお目覚めのようで、宜しゅうございますね。さ、お茶をどうぞ」
小西老人の老妻時子さんは、明るくて賑やかで愛想がよく、いつも元気に満ち溢れている。
「おはようございます。いただきます」
宗次郎はいつもの場所に腰を降ろすと、お茶をひとくちすすった。
ここでも先生である。それも嫌味はこれっぽっちもない。結構大きな会社の課長だった人から見たら、宗次郎などたいした存在ではないだろうにと思う。これは、小西夫妻の人としての徳と言うものだろう。きびきびではないが、滞ることなく動いて料理する時子さんを見ていると気持ちが和(なご)んでくる。
しかも時子さんは躰も大きい。小西夫妻、世に言う処ののみの夫婦である。実直で穏やかな小西老人は、時子さんのこの朗(ほが)らかさに心惹かれたのかも知れないと宗次郎は思っている。
朝食の前に熱くて濃い煎茶を一杯、ゆっくりと飲む。脇にはチラシを外した新聞が置かれている。実に行き届いたものである。
男兄弟ばかりの宗次郎は、自分の家でさえこんな扱いを受けたことはない。下宿人ながら、下にも置かぬ扱いで、頗るつきに心地良い。
(俺の人生で、これほど生き心地のいい年月は、もう後にも先にもないだろうな……)
宗次郎は確信に似たものを感じている。それにしても、
(年寄りと子供と動物にだけは、俺は受けがいいらしい)
何故なら、宗次郎は四十二歳の今も独り身である。縁がなかった訳ではないが、結婚まで至らない宗次郎なのだ。体格は尋常だし、肉体的にも不具合はなく、精神的にも恋愛の対象は女性である。
小西老人に言わせると、
「温和と言うか、どうも奥手と言うか、女性や恋愛に対して、免疫がないせいで、いまひとつ押し出しが利かないねえ」
と言うことになるし、時子さんから見た宗次郎は、
「薮坂先生はもうちょっと身の回りに気を配れば、佳(い)い男なのに。少しお洒落すればいいんですよ」
と言う具合らしい。
だが当の本人は着るものや小物は勿論、寝ぐせがついた髪も二、三日分の無精髭もものともせず、気にもしない。こう言うところに時代の流行や話題に置き去られた、宗次郎の本質があるようだ。宗次郎自身は、男兄弟でがさつなものですからと言うが、
「学者の世間知らずと言う奴じゃないかねえ」
と小西老人は禁じえない苦笑とともに妻の時子さんに言う。
「それが宗ちゃんのいいところなのよ、お父さん」
以前は夫婦だけの時に限られていたが、近頃では食事の最中など時子さんは宗次郎を、宗ちゃんなどと呼ぶ。
「しかし押し出しが利かないからなあ。あれでずんと胸を張って、もっと威勢よくびしっと喋ればいい感じなんだがねえ」
「大丈夫よ、私がなんとかするから」
小西老人の心配を受けて、時子さんは宗次郎の改造計画を立てているらしいが、宗次郎が逃げ腰なのでまだ実行に移されていない。
それだけ宗次郎は、小西夫婦に受け入れられていると言うことだろう。因(ちな)みに小西夫婦に子供はいない。
三年の間同じ屋根の下で住み暮らし、宗次郎の人柄に好意を抱いた小西夫妻は、宗次郎を自分達の息子同然に思い始めている。何せこの家に住んでいるのは、小西夫妻と宗次郎の三人だけなのだ。家族に似た感情が生まれても不思議ではない。
「今朝はえぼ鯛の干魚(ひもの)ですよ」
宗次郎がお茶を飲んでいるうちに、時子さんが焼きたての魚とお味噌汁を持ってくる。食事は三人揃って食べるのが常だった。見計らったように、小西老人が食堂へ入ってくる。時子さんは夫にもお茶を出し、三人揃(そろ)って朝食の膳に向かった。
「今日も学校へいらっしゃるの?」
時子さんがお給仕しながら聞いた。
「ええ、行きます」
「大学はもう夏休みなんでしょ?」
「講義がない分、やりたいことに一日没頭できますから。休みの方が、気楽なもんです」
時子さん自慢の糠漬けと茄子の味噌汁で、二杯目の飯を平らげながら宗次郎がこたえた。
「まあ、そりゃあそうだろうが。少し根を詰めすぎじゃないのかなあ」
「大丈夫です。それに夏は、僕の専門の蚊の季節ですから。のんびりしていられません」
宗次郎は空の茶碗を、時子さんに差し出した。
「お代わりください。今日の茄子の味噌汁ときゅうりの糠漬け、絶品だなあ。いくらでも食べられますよ」
「そう? お茄子は、胡麻油でさっと炒めてるから、甘みがあるでしょ。夏はこれがいいのよ、元気が出て」
時子さんがさも嬉しげに宗次郎の茶碗を受け取り、いそいそとご飯をよそう。
「なるほど」
宗次郎、頷くことしきりである。
「私もね、こいつの料理には、ちょいちょいと丸めこまれましてねえ。うまいことやられました」
小西老人がにやりとする。
「いや、さもありなん。ですね」
などと言いつつ、屈託のない朝食を済ませた宗次郎は、小西夫妻とクロベエに見送られて出掛けていった。
宗次郎の専門は、蚊である。
夏になると湧きでる、ハマダラカやアカイエカの研究をしている。地味で目立たない分野だ。教えているのは害虫に関することだ。
趣味は天文学と囲碁。日食月蝕、オーロラ、彗星、小惑星。
日食月食は天空を見あげ、オーロラが出ると聞けば、南極、カナダ、ニューファンドランドと、北でも南でも何処へでも飛んで行く。 彗星と聞けば、人工の灯りがない山の上へ寝袋を担いで出掛ける。
身の回りを気にしないのは、宗次郎のこう言った安気な性格からきている。だからあまり出世の道は開かれていないし、女の扱いもまずい。デートの最中に彗星やアカイエカの話をされても、女性にとって迷惑どころの話ではないだろう。
さて、下宿先の屋敷は中野・方南町だが、表通りに出るまでは閑静な住宅と緑が多い。駅に近いと言うのに、まるで静かなものだ。そしてこれから宗次郎が向かうのは、都内ではなく八王子方面だ。
大学は結構な山の中にある。これも宗次郎の望むところである。 自然と星と空を感じられる場処なら、外国の辺境であれ、何カ月も孤独であれ厭(いと)わない男なのだ。一途だが不器用だ。思い込みが激しいところも人一倍なのだが。
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