03 口

 二日酔いで頭は痛むが、身体は動く。

 いくら刃物を持った女子高校生でも、今なら負けはしない。

 力づくで追い出して通報してしまおう——とオレは考えていた。


「柳川さん」


 先手を打ったのは春野だった。


「なんだ」

「仕事、楽しかったですか?」

「しごと?」


 オレは急に聞かれて固まった。


「な、なんだよいきなり」

「なんとなくです。楽しかったのかなって」


 楽しかったか——そう言われたら、楽しくはない。

 面倒だし、嫌な思いをするし、楽しくないことばかりだ。

 長時間労働&残業は当たり前。休日出勤、残業代なし。手当ての種類も少なく、給料も低い。仕事内容も重く、毎日疲れきったまま会社を後にする。しかし8時間後には再び出勤している。

 思い出すのは、悪い面ばかりだ。


「そう言われたら、楽しくはなかったが……」


 それでもオレは6年働き続けた。

 言い換えれば、6年も続けられたのだ。


「仲間には、恵まれていた」


 同期の小林、後輩、そして谷口先輩。

 オレが愚痴を吐ける、数少ない仲間が周りにはいた。

 その人たちがいたからこそ——オレは今まで働けた。


「だから続けられたし、続けたかった」

「仲間、ですか」


 春野はため息交じりにそう言った。

 彼女からすれば、他人など全く信用できないだろう。

 殺人は、他人を排除する行為なのだから。


「あの。殴った上司は仲間ではないんですか?」

「それとこれとは話が別だ」

「矛盾してます」

「良い人もいれば悪い人もいるってことさ。お前にもわかるだろ?」


 春野が視線をそらす。

 認めたくないが、わかるのだろう。殺人とはそういうことだ。


「…………」

「…………」


 会話が途切れ、お互いに黙っていると、ぐぅと腹の音が響いた。

 オレの音ではなかった。


「飯、食うか?」

「……いりません」

「意地張るな。ここに来てから何も食ってないだろ」

「柳川さんの音でしたよ」


 どこまでも強情な女子高生だ。

 オレは気にせず、食パン2枚をトースターで焼いた。

 その間にも、また腹の音がした。

 腹が減っているなら正直に言えないものか。


「本当にいらないんだな?」

「ええ、いりませんとも……」


 絶対に欲しそうな言い方だった。


「じゃあ、オレひとりで食うぞ」


 オレは彼女の前で、焼けたトーストにハチミツを垂らした。


「はちみつ……」

「ああこれか? これがな、いっちばんウメェんだよ。こんがり焼けたパンに絡む甘さってのが最高なんだ」


 大げさにそう言うと、ゴクリと喉の音がした。もちろんオレの音ではない。

 オレはトーストに噛み付いた。

 ぱりっ、と良い音。


「んめぇ〜」

「…………」

「やっぱ朝メシにはパンだよなァ」


 昨日のヤケ酒もあってか、空腹に甘さが染みわたる。

 あっという間に1枚を食べ終えた。


「……ください……」


 押し殺したような春野の声。


「何を?」

「う……」

「ちゃんと頼んでくれないとわかんねぇぞ」


 オレが意地悪に訊くと、彼女はハッと目を開いた。

『そうだ、この手があったか』と言うように。


 なんだか、嫌な予感がした。


「おい——」

「パンを渡してください」


 オレの目の前で、包丁が光った。


「うわッ!!」


 春野からは先ほどの意地を張った様子がなくなっていた。

 どうやら刃物を持った彼女は、別人になるようだ。


「おいおい、トースト1枚だけのためだけにオレを殺すのか!?」

「私のために死んでくれませんか?」

「マジかよ……」


 もはや楽しんでいるだろ、と思う。

 正直になれないというのは損なものだ。


「わかったわかった。やるから、人に刃物を向けるな!」


 ハチミツトーストを差し出すと、春野はようやく包丁を置いた。

 こんなに凶器を活用する女子高生、なかなかにいない。


「……いただきます」


 彼女はマスクを上にずらし、下から入れてトーストに噛み付いた。

 オレの位置から顔が見えない、角度を計算された食べ方だった。

 もぐもぐ、とマスクが揺れる。なんだか小さな動物みたいだ。


「な、うまいだろ?」

「ふ、普通です」

「素直じゃないな」

「うるさいです」


 そう言いつつも、彼女もあっという間にトーストを食べた。

 最後にごちそうさまでした、と手を合わせる春野。


「ありがとうございました、柳川さん」

「……はいよ」


 お礼を言う彼女は、まるで普通の女子高生のようだった。

 ただ少し、歪んではいるが。



 



 朝食を済ませたところで、状況は変わらない。

 オレは無職だし、人殺しの女子高生はいるし、腹が満ちただけだった。

 春野を追い出そうとする意志も、簡単に崩れ去った。

 無職というのはどうやら、エネルギーさえもなくなるらしい。


「はぁ…………」


 オレが横目で見ると、春野は包丁の柄を指でなぞっていた。

 それしかすることがない、というように。


「なぁ」

「なんですか」

「いつまでここにいるつもりだ?」


 暇つぶしに聞くことにした。


「いたらダメですか?」


 春野がオレに包丁を向ける。オレにイエスと言わせないためだろう。

 だが、そこで引き下がるオレではない。


「ダメに決まってんだろ」

「どうしてダメなんですか?」


 どんな言い返しだよ。

 オレはあくびをする。たかが暇つぶしの会話だ。包丁で刺されることもないだろう。


「普通じゃないからだ」

「ふつう?」

「女子高生が見知らぬ男の家に泊まるのも、女子高生が人を殺すのも、無職の男を刃物で脅すのも、全部普通じゃねぇだろ」

「上司を殴ってクビになるのは普通なんですね?」

「あァ……?」


 こいつ、意外と冷静だな。てっきり刺してくると思ったが。

 しかも言い返しが絶妙にウザい。


「うるせぇ。とにかくこんな異常なこと、ダメに決まってんだろ」

「柳川さんって、そんなに普通が好きなんですね。無職のくせに」

「ぐっ……!」


 このクソ女!

 こいつと言い争ってもメンタルがズタボロになるだけだ。


「とにかく! もっとこう、自分の状況を考えろよ」

「それ、柳川さんこそ考えたほうがいいのでは?」

「ぐぬあァッ!!」


 最近の女子高生、生意気すぎるだろ!

 オレはさっさと負けを認めることにした。


「こんな言い争い無駄だ……寝る……」


 無駄なエネルギーを使わないために寝転る。


「あっ、ふて寝ですね」

「いちいちイラつく奴だな……?」

「さっき起きたばかりなのに、もう寝るんですか?」

「せっかくの人生の休日なんだぞ。寝たいときに寝てもいいだろ」

「物は言いようですね」

「大人は言い訳が得意だからな」


 オレは女子高生にそう吐き捨て、無理やり目を閉じた。

 こんな奴がまだここにいると思うと、どんどん不安になっていく。

 

 オレは本当に、これからどうなるのだろう?



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