02 胸

 目を覚ますと、目の前に包丁が落ちていた。


「あ…………?」


 こんなところに出しっぱなしだったかなぁ。

 寝ぼけた頭がそう理解したところで、全てを思い出した。


「うあぁッ!」


 オレが跳ね起きると、女子高校生がびくりとした。

 彼女は三角座りをしたまま眠っている。

 持っていた包丁は落とし、血まみれの制服のまま、こっくりこっくりと。


「夢じゃねぇんだな……」


 オレは首筋を触ると、血が固まっていた。

 やはり、夢ではない。

 酔いのせいか、オレはこんな危険な女子高生を泊めてしまったのだ。

 そもそも未成年を泊めること事態、犯罪である。


 しかしオレは、刃物で脅された被害者でもある。


「いや……これ、どっちがアウトなんだ……?」


 女子高生を泊めたオレと、オレを脅した女子高生。

 寝起きの頭で考えた結果、女子高生が悪いことにした。

 もし問題になったとしても、オレには『脅されて仕方なく泊めた』という大義名分がある。仮にオレが酔っていたことがバレたとしても、7:3くらいで女子高生が悪いことになる……だろう。そういうことにしておく。


「うわ、血が移ってんじゃねーか」


 鏡を見ると、オレのシャツは赤くなっていた。女子高生に触れられた部分だった。

 クリーニングのことを考えたが、面倒なので後回しにした。


「ふぁ〜……ねみぃ……」


 ふと、目に入った時計が「7:00」を指していた。

 身に刻まれた時刻に、身体が焦り出す。


「やべ、会社行かねぇと」


 慌てて支度をしようとしたが、オレはふと気付いた。

 そして突然、笑いがこみ上げた。


「はは」


 女子高生を泊めたのが、夢ではないのなら?


 オレが会社をクビになったのも、夢ではないということだ。


「なにやってんだ、オレ」


 ため息をついて、その場に座り込んだ。

 まだ外していなかったネクタイを、ゆっくりと緩める。


「あんなに頑張ってきたのになァ……」


 会社に就職して5年。

 毎日休まずにやってきた。

 理不尽なことも飲み込んで、会社のためにと必死にやってきた。


 それが昨日にして、一瞬で終わった。

 

「人が死ぬときも、こんなふうにあっさり終わるんだろうな」


 オレは眠っている女子高生を眺めた。

 彼女はおそらく、人を殺してきた。

 彼女に殺された人も、こうやって突然死んだのかもしれない。

 今まで必死に生きていたのに——こいつの手で、勝手に人生を終わらせられた。


「同情するぜ、被害者さんよ」


 そんな不謹慎なことを考えていると、携帯が鳴った。

 電話はほとんど職場からしか来ない。急な仕事とか、そんなものばかりだった。

 着信音を聴くたびに吐き気がこみ上げてくる。

 

 そんな携帯が女子高生から鳴っている。


「おい、電話……」


 そう言いかけて、オレは固まった。

 着信音が鳴っていながら、女子高生はすうすうと寝息を立てていた。

 疲れきった人間がする、深い眠り。


「いやいや、なに考えてんだ……こいつは人殺しだぞ」

 

 そうわかっていても。

 女子高生を叩き起こすことなど、オレにはできなかった。

 

「……同情なんかすんなよ、オレ」

 

 仕方なく、女子高生を起こさずに携帯を取ることにした。

 しかしそこで、重大な問題が発生する。

 

 彼女は携帯をどこにしまっていたか?


「胸ポケット……」


 さあ、どうする?

 携帯はまだ鳴り続けているあたり、何が何でもオレとコンタクトを取るつもりだろう。まだ業務時間前なので、仲間からの安否確認かもしれない。上司以外の人間なら、ここで出てしまいたい。

 オレの前に立ちはだかるのは、女子高生の胸。

 さあ、どうする?


「携帯を取りたいだけだ。ああそうさ、おっぱいに触りたいわけじゃない」

 

 オレはそう自分に言い聞かせ、女子高生の胸に手を伸ばした。

 血の臭いは少しだけ薄れ、女の子特有の匂いがした。

 女子高生とは、どうして決まって甘酸っぱい香りがするのだろう?


「おっぱいじゃない。おっぱいじゃない。おっぱい、おっぱい……」


 人間とは無力な生き物だ。

 心を無にしようとしても、意識はそちらに向いてしまう。

 オレの心は『おっぱい! 大きいおっぱい!』と叫んでしまっている。

 触れることのない聖域への、憧れ。

 

 大丈夫だ。オレはおっぱいじゃない。だから大丈——。


「あの」

「うおぁッ!?」


 オレは吹き飛んだ。

 女子高生は伸びをすると、眠そうに目をこすった。

 白いマスクがぷかぷかと膨らんでいる。あくびをしているようだ。


「なにをしてるんですか?」

「いやっ、まだ、なにも」

「まだ?」


 寝ぼけているのか、ふわふわと首を揺らす彼女に、オレは全力で説明する。


「電話が鳴ったから、その、気になって」

「でんわって、これですか?」


 女子高生は自分の胸を指した。

 彼女の胸からは、陽気な木琴のメロディが鳴り続けている。


「それだ。それがほしい」


 彼女は目を細めた。

 相変わらずマスクで表情はわからないが、クスクスと笑っているようだ。


「そんなに触りたいんですか?」

「電話だって言ってんだろ!」

「別に触ってもいいですけど」

「それはあとで早く!」

「自分で取ってください」


 は、とオレは言葉を失う。

 女子高生はわざとらしく、自分の胸を突き出してみせた。


「私にかまわず、どうぞ」

「う……」


 小さくない——むしろ、一般的なものより大きい。

 どう見ても柔らかそうだし、形もいい。

 そんな胸ポケットから、携帯の頭がぴょこんと飛び出している。


「あれ……早くするんじゃなかったんですか?」

 

 触らずに取ることもできそうだが——からかわれているようで、腹が立った。


「……バカにすんな、よこせ」


 なんでこんなことをやっているんだ、オレは。


「どうぞ」


 張り合いがなかったのか、女子高生はつまらなそうにオレに携帯を渡した。

 受け取ると、表面はほんのりと温かかった。


「誰からですか」

「会社の同僚だ」

「私にも聞かせてください」


 はいはい、とオレはスピーカーモードにして電話に出た。







『おっーす。元気か?』


 中性的な女性の声。

 電話の主は、会社の同期である小林だった。

 彼女のフランクな話し方に、オレはどこか安心する。


「元気だと思うか?」

「仕事も忘れてゆっくり眠れただろ?」

「まぁ……そんなところだ」

「平日っつーのに、いいご身分だな」


 小林はオレと同時期に入社した女だ。

 その関係上、オレたちは男女という壁を超え、何でも話せるような仲だった。


「昨日電話しようと思ったが、どうせヤケ酒してると思ってな」

「お前は超能力者か」

「だてに5年間も一緒に働いてないよ」


 しっかしなぁ、と小林の声。


「お前、すごいな。まさか上司を殴ってクビになるとは」

「我慢の限界がきた」

「あいつ、あからさまにお前にだけキツく当たってたもんな」


 思い出したくない上司の顔が出てきそうだったので、慌てて別の話題を探す。

 だが——小林との話は、いつもくだらないものばかりで。


「小林さ、あのクソ上司とセックスできるか?」


 オレがそう言うと、電話越しにカッカと笑い声が聞こえた。


「無理に決まってんだろ。金払われてもやんないよ」

「だろうな」

「そー言うお前は?」

「できるわけねぇだろ」

「男同士、仲直りのセックスでもしてこいよ」

「想像すらしたくねぇ……」

「わたしもだ」


 小林は性事情の話が好きだった。オレたちは男友達みたいになんでも話した。1日ひとりで何回やるか、どういう体位は好きか、ピロートークは何を話すか——そんなことばかりだった。

 同期だからこそ意識はしなかったものの、よくよく考えればドキッとする話題ばかりだったな、と今更になって思う。


「朝からなに話してんだろーな、わたしたち」

「今までもこんなくだらねぇことばっか話してただろ」

「それもそうか」


 少し間があり、それぞれが息をのむ。


「なあ」


 先に口を開いたのは、小林だった。


「本当に辞めるのかよ」


 電話越しだというのに、まるで目の前に小林がいるように感じる。

 気付けばオレは身振り手振りをしていたし、彼女の反応を想像していたし、何度も言葉を選んで話した。

 無意識にこうしてしまうほどには、オレにとって小林の存在は大きかったらしい。


「……わりぃけど」

 

 しかしもう、全ては過去の話だ。


「もう戻れねぇよ」


 声はすぐには返って来なかった。画面の通話時間が10秒を過ぎた頃に、「そうか」と小林は言った。少し湿った声のようにも聞こえた。


「あのさ。こんなこと、言っちゃいけないかもしれねーけど」

「なんだよ」

「お前が辞めるって聞いてさ……谷口先輩、泣いてたぞ」

「え?」


 その言葉に、オレは胸が詰まった。

 谷口先輩は、オレが会社でさんざんお世話になった女性だった。

 ふるふわっとした雰囲気で、オレがミスをしても「次だよ」と励ましてくれた。一緒に飯を食いながらオレの愚痴を聞いてくれた。一緒に帰りながら他愛もない話をした。


「……そうか」


 そんな先輩が、オレのために泣いていた。

 下衆な思いだが——先輩ならそうしてくれるだろうな、と思えた。


「迷惑かけてすいませんでした、と伝えてくれ」

「りょーかい」


 もし会う機会があれば、先輩にしっかりと謝りたい。

 だけどなぁ、と小林が続ける。


「お前はわかってないかもしれねーけど、お前の抜けた穴、けっこうデカイぜ?」

「オレの代わりなんていくらでもいるだろ」

「そう言うけどな、そうじゃないんだよ」

「悪かったよ」

「会社、潰れるかもしれねーな」

「んなわけねぇだろ」


 カッカと笑う小林。オレたちの雰囲気が少し軽くなる。


「会社の荷物、あとでまとめて届けるぞ」

「悪いな、お前にも迷惑かけて」

「いいってもんよ。とにかくちゃんと休めよ、柳川」


 さんきゅ、と言ってオレは電話を切った。通話時間は3分を切っていた。

 携帯をテーブルに置くと、強い虚無感に襲われた。

 オレは本当に会社を辞めたんだと、改めて実感する。


「クビになったんですね、柳川さん」


 通話を黙って聞いていた女子高生が言う。

 オレの名前を知られようが、どうでもいい。


「ああ。たっぷりと笑ってくれ」

「笑ったほうがいいですか?」

「じゃないとやってらんねぇよ」


 女子高生は笑わずに、オレの携帯をじっと見つめていた。


「上司、殴ったんですか」

「ああ」

「なかなかすごいことをしますね」


 きみほどではないけどな——その言葉をオレは飲みこんだ。

 台所でふたつのコップに水を注く。女子高生に差し出すと「いりません」と言ったので、構わずふたつの水を飲み干した。二日酔いが少しだけ軽くなる。


「でも、電話してくれるんですね」

「小林か?」

「エッチな話ばっかりでしたけど」

「そういう仲だったからな」

「でも、そんな話ができる人がいるだけ、柳川さんは幸せだと思いますよ」


 彼女の言葉に、オレは昨夜のことを思い出す。

 血まみれの制服、包丁、「とめないと、やります」。

 人を殺してしまうほどには、彼女も溜め込んでいたのだろう。

 頼れる人は、誰もいなかったのだろうか?


「きみには、なんでも話せる人はいないのか?」

「春野」


 え、とあっけに取られるオレに、彼女は続ける。


「私の名字です。これで平等ですね」

「……平等にする必要なんてあるか?」

「少なくとも『きみ』と呼ばれることはなくなります」


 だとしても、彼女が名乗るメリットなどない。

 偽名ならまだしも、オレに余計な情報を与える意味など。


「春野、か……」


 やはり、この女子高生は歪んでいる。

 人を殺したというのに、どこか律儀だったり、オレをからかってきたり。


「わかった、覚えておく」


 名前を知っただけで——春野と話しやすくなった、ような気がした。


「それと、さっきの質問ですが」


 春野は三角座りのまま、自分の横髪に触れた。

 くせのない、真っ直ぐな黒髪だった。


「話せる人は、誰もいませんでした」


 そうか、とオレは言うしかなかった。

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