five

「高度があがってきたな。そろそろじゃて」


 博士がそわそわしはじめました。


 たしかに、風にのったせいか、どんどん高空にはこばれているようです。もう下に見えるのは細かな光の粒だけです。そうしてみると、空の星と大差がないほどです。ということは、きっとここは宇宙と大地との中間あたりなのでしょう。


 でも、月は、すこしは近づいたようですけれども、やはり高い空に輝いていて、この気球ではとてもそこまでたどり着けそうにありません。


 ぼくがその不安を博士に告げますと、


「ふふん、ポロリくん。きみはわしが天才科学者であることを忘れているようだな。すでにわしらは、月の重力を受ける高さまで来ておるのだよ」


 え、とぼくは思いました。たしかにゴンドラはゆっくりとですが、月のほうに流されている感じがします。これは、風のせいではなくて、月そのものの重力が働いているからなのでしょうか。


 月が大きくみえていました。今までとはかなり大きさがちがいます。よく目をこらしてみれば、黄金色に光る表面にかすかな模様が浮かんでいるようです。


「純金の月には海はないということだが、しかし、湖のようなものはあるようだな」


 双眼鏡をつかって、博士が月を見ています。


「楽しみじゃて。月の秘密を地球人ではじめて知るわけだからなあ」


ぼくも月世界人の身で地球で生活してみたのですが、月での記憶があいまいなせいか、地球での生活にそんなに違和感はありませんでした。博士の興奮ぶりがなんとなくうらやましくも感じられます。


 と、<偉大なる我が輩号>がなにものかに引っ張られるかのように、ぴたりと止まりました。


「む、む」


 博士が眉をしかめました。


「どうやら地球の仕業だの。わが大発明<偉大なる我が輩号>を手放したくないのはわからなくもないが、せっかくの壮挙をなんで気持ちよく送り出してくれんのかな」


 地球には、自分から離れようとするものを引きとめる習性があるようです。


「だが、ここからが、わしの発明じゃ」


 博士はニヤッと笑いました。すごく悪人っぽい笑いです。こういうときの博士は、じつは得意満面なのです。


「ポロリくん、その、舳先の板を覆っている布をはずしてくれたまえ」


「はあ」


 ぼくは、椅子をはなれて、中腰で舳先まで向かいました。といってもちいさな船のことで、一、二歩行くだけでよいのですが、さすがに高いところに浮かんでいるので、ちょっとおっかなびっくりでした。


「取りますよ」


 ぼくは、博士に声をかけてから、円盤状の板にかかった布を取り去りました。


「ああっ」


 思わず声をあげていました。


 そこには、とても美しい顔のレリーフが刻まれていたのです。


 それは少女の顔でしょうか。夢見るように目を閉じて、微笑んでいます。眠っているような、あるいは次の瞬間にぱちっと目を見ひらいて笑いだしそうな、そんな微妙な表情です。


 思わず抱きしめて頬ずりしたくなるような、そんな顔なのです。


「わしの知るかぎり最も腕のよい細工師に頼んだのじゃ。そのかわり、とんでもない金と時間がかかったがな」


レリーフが月の光を反射して輝きます。そして、<偉大なる我が輩号>はふたたび月にむかってのぼりはじめます。


「月だって、こんなにきれいな顔を向けられたら、いやな気にはなるまい。自分のそばに近づけたいと思うはずじゃて」


 博士がしてやったりという感じで笑います。


 でも、しばらく行くうちに、また上昇がとまりました。


 やっぱり地球もかんたんには行かせてくれないようです。


「だが、ポロリくん、もうひとつ、板があったことを覚えているだろうな」


「はい」


 ぼくはうなずきました。博士の考えがわかったのです。


 博士とぼくはそれぞれ舷側にむすびつけた紐に手をかけました。


「せえの、でいくぞ……せーのっ」


 ふたり同時にほどきました。


 ふわり、布が落ちてゆきます。


 そして――


 ぎぃやああああーッ――


 世にも恐ろしい声が下から聞こえてきました。


 とたんに、強い力で<偉大なる我が輩号>が押し上げられはじめます。まるで暴風のただなかに飲みこまれたかのような激しさです。


 博士は大声で笑っていました。


「驚いておる、驚いておるぞ。地球のやつめ、世界でもっとも醜い顔のレリーフを見て、びっくりしてわしらを押しのけておるわい」


 ぼくはといえば、ぎゅっと目をつむり、ゴンドラのふちにしがみついて、ふりおとされないようにするので精一杯でした。


 ゴンドラは揺れに揺れました。


 どれくらい、それが続いたでしょう。


 だしぬけに風の音が鎮まりました。


 それどころか、すべての音がなくなっています。


 ゆっくりと目を開きました。


 博士がいます。一点を凝視したまま、微動だにしません。


 ぼくは、博士の視線の先を追いかけて、固まりました。


 目の前に、黄金いろに照り輝く月の大地があったのです。


 ――これが、ぼくと博士が月に行くまでの顛末のすべてです。



                       おしまい

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重イ月ノ世界 琴鳴 @kotonarix

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