three

「でも、ぼくは、まだ月に帰る決心はできていないのです」


 ぼくは正直なところ、動揺していました。まさか今夜、月へ行けるようになるとは思わなかったからです。博士が月の研究家であり、そこへ行くための乗り物を造っていることは知っていて、だからこそたまに研究所にも遊びに行っていたのですが……


「だが、きみは月世界人だ。そうだろ?」


 真顔で博士が訊いてきました。ぼくはあいまいにうなずきました。


「たぶん……でも、ぼくには記憶がないのです」


「きみのその耳、そして脚のかたち、そして、目の色。地球には、きみのようなうさぎ人間はいない。うさぎ人間は月に住んでいるものなのだよ」


 ぼくは、気がつくと、地球にいたのです。親切な深雪さんと知り合わなければ、サーカスに売られていたかもしれません。あぶないところだったのです。


「月は美しい」


 博士はふいに言いました。この人にはこうした唐突なところがあります。


「月は黄金色に輝いている。なぜならば、月は純金でできているからだ。だから、月はたいそう重い。重いということは、重力が強いということだ。だから、月の重力で海が持ちあがるのだ。そして、うさぎ人間も月に住んでいるからこそ、跳躍力がすぐれているのだ。そう、たとえばポロリくん、きみのように」


 ぼくは自分の脚を見ました。たしかに、地球で歩いているぶんには、たよりなくてしょうがありません。すぐに跳ねあがってしまいます。たぶん、ここよりもずっと重力が強い場所だったら、ぼくも紳士のようにどっしりと歩けるように思うのですが。


「人間は昔から月に行こうとしていた。だが、しかし、いかに月の重力が強いといっても、地球のほうがやっぱり大きくて重い。だから、どうしても下に落ちてしまうのだ。地球は嫉妬ぶかいから、自分を離れて月に行こうとする者は無理にでも引き寄せてしまうのだ」


「ははあ」


 博士の演説がはじまりました。これが始まると、しばらくはなにを言ってもむだなのです。


「だーが、しかし。わたしは科学の粋をあつめ、ついに月へ行く船をつくりあげたのだ、それがこれ――ええと、まだ名前をつけていなかった――」


 ちょっと思案ののち、博士は、びしいっ、とゴンドラを指差しました。


「名づけて、<偉大なる我が輩号>である!」


 博士は不意に真顔にもどり、ぼくの手をとりました。


「どうかね、ポロリくん。月世界のガイドとして、わたしと一緒に月へ行ってくれんかね」


 ぼくはためらいました。


「でも、ぼくは記憶がちゃんと残っていないのです。どうして地球に落ちてきたのかもはっきりとはしません。ガイドとしては失格だと思います」


「なあに、むこうに行けば思い出せるさ。それに、月世界のうさぎ人間も、地球人のわしが一人で行くよりは、きみが一緒であるほうが歓迎してくれるだろうしな」


 熱心に博士が言います。たしかに、月には帰りたいのです。おぼろげに覚えている黄金色の山や野原――そして家……


 おかあさん――


 ふと、深雪さんのことを思い出しました。地球に落ちて、記憶を失っていたぼくを助けてくれた女性です。学校の先生をしていて、とてもオルガンが上手で、笑うと片えくぼがでて、そして紅茶とケーキをいつもごちそうしてくれるやさしい人です。


 いま、月に帰ったりしたら、お礼をいうこともできません。それに……


「さあ、今宵は満月。すなわち、月の重力がもっとも強くなる夜だ。今宵をのがしては、しばらく月へは行けんぞ」


「でも……でも……」


 ぼくはうろたえて、あたりをぴょんぴょんと飛びはねました。あわてたときのくせなのです。


「ポロリくん、後生だ! 協力してくれ!」


ああ、博士がぼくにむかって手を合わせています。どうにかして、今夜じゅうに月へ往く船の成果をたしかめたいのでしょう。満月はたしかにまた巡ってはきますが、そのときに晴れているという保証はありません。雨だったりしたら、また先に延びてしまいます。


 ぼくは、うなずいていました。深雪さんにはあとであやまろう、と思いました。それに、月に帰ったとしても、博士のこの船――<偉大なる我が輩号>があれば地球へ行くのもたやすいことではありませんか。


「わかりました、博士。月へゆきましょう」


 ――と、ぼくは言ってしまっていたのです。


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