第11話

 意外にも、綺麗に片付いていた。

 流れたはずの血の跡すら見受けられず、逆に不審が募ったが、水月はいつもの様子で笑って見せた。

「そちらも終わったんだな」

「ああ。奴らは、しっかりと片付けたんだな?」

「勿論だ」

 きっぱりと言い切られ、優は思わず溜息を吐いた。

「相変わらずなのね。律ちゃんの苦労が、見えるわ」

 そんな女を見つけ、少年はわざとらしく目を見開いた。

「お前、ユウか? 何処の骨とも知れん奴の手にかかって、死んだと聞いていたんだが?」

 到底信じられない話だったが、律には深く聞けなかった。

 幼馴染と言ってもいい位の仲の娘が、会わない内にそんな目に合っていたのを知り、当時は悲しんだと察せられたからだ。

 だが、オキがその後ろにいて、空を仰いでいるのを見ると、どうやら律も、その辺りを疑って、幼馴染の行方を捜して、実際に探し出したのだろう。

 それを、自分に黙っていたのが解せないが、その理由も何となく予想はついた。

 そして、優の方の小狡い思惑も。

「まあ、正直に話して、律にも謝罪するんだな。あの子は意外に、怒ると根深いから、覚悟はしておけ」

「み、ミズ兄さま……」

「オレのフォローは、期待するなよ」

した途端、逆に色々恐ろしい事になりそうだ。

 首を竦めて見せながら、すがる顔の女にそう言い切り、呆れたままの凌を見上げた。

「……あの人は?」

「蓮が、引きづって行った」

 そうか、と頷く少年は、僅かに安堵を浮かべた。

 その様子を見守りながら、凌はこれからの予定を口にする。

「……これから、社宅の方に戻る。そこで、夕飯を食いながら、ユウの話を聞くことになった」

「そうか。あいつは、ここでお役御免なのか?」

 目だけで、後ろに立つオキを見た水月の問いに、大男は首を振った。

「まさか。どうやら、ユウの画策に、とんでもない色を付けた奴がいる様でな、その心当たりがありそうなオキにも、説明願おうと思う」

「……説明するほど、企んだわけじゃないが。単にオレが、ユウを争いから、遠ざけたかっただけだ」

 その為には、目を光らせることができる人を、巻き込むのが吉だと、そう思っての企みだと、オキは真顔で答えた。

「特に、あの二つの家の衝突は、深みに嵌まると命とりだ。また、永く眠ることになっては、適わんからな」

「……オキちゃん、時々狙って、ランちゃんの記憶の心情を、口にするわよね。それ、止めてくれる? 本当に、ぐっとくるから」

 男を睨みながら、優は思わず口を手で抑えて、涙ぐむ。

 それを見ながら、オキは目を細めた。

「ぐっとくるだけで、抑えて欲しいもんだな。いつもその後、ぼこぼこと殴るじゃないか。意外に痛いんだぞ」

「だって、仕方ないじゃないっ。悔しいんだものっ」

 いつものように、ぽこぽこと拳で自分の背中を叩く女のされるがままになりながら、オキは空を仰いだ。

「そうか。狙ってやっているのは、ばれていたか」

 顔を軽く爪で掻きながら、一様に呆れ顔になった二人を見た。

「そういう事だから、オレはここでお役御免だ」

「……それだけの理由で、こんな大事にしたのか?」

「これ以上の説明は、あんたがいる社宅とやらに、うまく話せる奴がいるだろう?」

 まだ疑いを解かない凌に、オキはゆっくりと含みのある返しをした。

 眉を寄せた大男より、空を仰いだ水月の方が先に思い当たった。

「旦那の倅も、一枚かんでいるのか?」

 思い当たりはしたが疑問符を付けたのは、オキの傍の優が、探るように男を見上げた為だ。

 その視線は見ない振りで、オキは首を竦めた。

「ここに来る前は、嚙んでなかったし今でもそうだろうが、少なくとも事情は察し始めているはずだ」

 本当は、女の説明を補足して、煙に巻く予定だったが、ここに来て急にそう考えなおし、男はしれっと社宅で留守番している男に、面倒ごとを押し付けた。

 凌は少しだけ、話の流れに違和感を持ったようだが、そのまま流したらしい。

 三人が仲良く去っていく背中を見送り、オキは周囲の気配を手繰った。

「……まあ、あれだけの時間があれば、水月の旦那にかかれば余裕か」

 昔のミヅキを知る者としては、意外な行動なので、こういう展開になっているという予想を聞いた時、珍しく疑ってしまった。

 だから、本当は、優と共に社宅までお邪魔するつもりだったのだが、予想外にも聞いた通りの展開になっていた。

 こちらの始末のその後を探る方が、優のフォローよりも最優先だった。


 エンは、外見と同じで、普段は穏やかで優しい物言いの男だ。

 だが、時々、内心で毒づきたくなることもある。

 社宅の一室で、その三人を迎え入れた時、とある男の思惑を正確に察し、盛大に毒づいてしまったのは、その時々の範囲内だった。

「あの、くそ猫っ。いつもいつも、こういう時だけ……」

「? 今、言葉遣いが、大幅に崩れなかったか?」

 いや、内心で毒づいたつもりが、声に出てしまっていたらしい。

 水月が怪訝な顔をして天井を仰いでいる横で、凌が耳を疑って目を剝き、訊き返した。

 我に返った優男は、慌てて首を振って誤魔化す。

「いえ。聞き違いです、はい」

「そ、そうか? まあ、いいが」

 意外な一面を見せられ、困惑した銀髪の大男の後ろから、優がこっそりと顔を出す。

「エンちゃん、お邪魔するね」

「はい、お久しぶりです」

 珍しくおどおどしている女に、穏やかな笑顔を向けながら、これから始まる詰問の場を、どう乗り切るかを考えている。

 オキと優が再会したことも、実は早い段階で知ってはいたが、意外に親しくしていたようだと、先程知った。

 その辺りの話もぼかしつつ、詰問を早めに終わらせる方法を、頭に並べていく。

 それを、少しだけ楽にすることを言い出したのは、当の詰問する側の凌だった。

「男がたむろすここに泊らせるのも、心ぐるしいから、寿たちの宿に送って行く。その前に、飯ぐらいは食わせてやりたいんだ」

「分かりました」

 つまり、食べて少し落ち着く時間の間だけ、その詰問に耐えればいいだけだ。

 しかも、エンは後片付けも残っているので、尚更それに当てられる時間は短い。

 調理の時間も残しておければよかったのだが、それはもう遅い。

 笑顔であっさりと頷いた弟に、優はすがる目を向けたが、背を向けたエンは構わずテーブルに食事を並べていった。

 幸い、食べている間は全員、大人しい。

 酒と肴とデザートを出してから、世間話のように凌が切り出した。

「何の目的で、あの子たちは囮にされたんだ?」

 それに答えたのは、悩まし気に湯飲みを傾けた優だ。

「囮の件は与り知らなかったけど、あの連中の事は、問題になりつつあったから、それが目的じゃないかしら」

 術師の家では警戒されていたと、女は言った。

「例の、二つの家の争い、か?」

 水月が静かに問うと、眉を寄せたままの優は頷いた。

「林家は、一般人を巻き込むことはしていないけど、北森家の分家やその周囲の取り込まれた家は、その林家を警戒して、力を付けたいと目論んでいるみたい。最近は一般の家でも、力のある子が生まれるでしょ?」

「ああ。最近は、それを不気味がる傾向にはないから、公になりやすいな」

 昔は、異端を隠す傾向があった。

 だから、大抵捨てられるか、死なせることを目的として、軟禁されていた。

 今は、異端すらも個性と、判断される時代となった。

「思議な現象だな。性格の機微は、病気として扱われるのに、そう言う異端は個性と扱われる。どちらも、使いようでは凶器になるというのに」

「その判断に、救われているんじゃないのか? お前は?」

「そうでもない。オレの場合は、病気とは見られていないから、見つかったら犯罪者として扱われるだろう」

 それが、時代の中では当然だった時があった。

 昔の時代ならば、異端と性格異常は同等で、畏怖の対象者だった為、本人も隠すのが通例で、見つかったら即座に死だった。

 見つかるのは大概、同じ人間に害をなす行為を行ったせいで、そうなってしまったからには、対象者本人も納得して死に望む。

 例え押し切られても無罪を主張して足掻き、例え有罪でも無罪を主張する悪党も、中にはいた。

 そして昔も今も変わらず、身分や金を持つは、そんな主張すらせずに、賄賂や権力で無罪を勝ち取れる。

 だが、少なくとも今のように、犯罪を認めつつ病気を言い訳にして、弱者と思わせて、軽罪に持ち込もうなどと考える輩は、見当たらなかった。

 大昔の罪人の末路も知る水月は、こうして世に戻って来た今でも、既にそこそこの悪人だと自覚があり、後ろ盾が無くなって色々と明るみになったら、この国での刑罰を受ける覚悟もある。

「今は、犯罪者未満だろう。女遊びで女を泣かせている程度だ。金をせびっているわけでもないだろう? 昔ならば、女の身分次第では、完全に犯罪者だ」

「幼女を見て、性的な興奮をするわけでもないものね」

「いや、そっちか? オレは、攻撃的な性格の方だと、そう思っての返事なんだが」

 凌の言い分に、優がゆっくり頷くのを見て水月が困惑すると、銀髪の男は呆れたように返した。

「そんなの、オレが棚に上げて、言いだす訳ないだろう。オレは今も昔も、犯罪者であるという事実が変わらないのは、知っているだろう?」

 今回は、優に止められてそうはならなかったが、本当ならば、遺体すら見つけられない殺人事件が、世の中の陰に埋もれる筈だった。

「……それは、よかった。その連中が行方知れずになってしまったら、例の家の者が探しに出てくるでしょう。いずれは、巻き込んだ少年少女とやらの行方に行きつき、世間に話が出てきてしまいます」

 その過程で、拉致を行っていた当の連中が、闇に葬られてしまったと知れてしまうことも、大いにある。

 酒の肴を追加で作りながら、話の端々を聞いていたエンは、静かにそう言った。

「どのタイミングで、松本家が浮上してしまうか、分かりません。身内内での諍いでのものならば、もみ消しも可能でしょうが、他の家の領域内で、下手な真似はしない方が、賢明です」

 折角、堅気としての地位を確立してきているのに、一気に信用を無くしかねない。

 真面目に言われ、凌も神妙に頷くしかない。

「まだ学生の子たちを、囮に使うのはやりすぎだけど、まあ、結果良ければって事かしら。本物でもなかったみたいだし」

「あの場に、堤恵と言う男がいなかったところを見ると、本物の子供たちと一緒に、自宅にいるのかも知れないな」

「……」

 大叔父と姪っ子の会話を聞きながら、無言の水月は再び天井を仰いだ。

 その仕草で、ここに戻って来た時から、この人には気づかれているのだと、エンは内心慄いている。

 他の二人が、深い事情に気付いて、さらに厄介になる前に、話を進める事にした。

「寿さんは、旅行での別行動を知らされていました。だから、お二人が動くか否かは、本当に賭けだったのだと思います」

「それは、誰が仕掛けた賭けだ?」

「それは……」

 目を細めた凌に、エンは穏やかに答えた。

「誰かさんの生存を、あなた方にしっかりと見せてやりたい奴、じゃないでしょうか」

 その目論見を、恵が画策した話に便乗させたのが、この騒ぎだったのだと、男はきっぱりと言い切った。

 思えば、自分がこの旅に同行した理由は、当のこの姉の生存を誤魔化すためだったというのに、完全に無駄骨だった。

 その悔しい思いが、一人の男に全ての罪を着せようという、八つ当たり気味な言動になっている。

 この数日で表情の機微を察するようになっていた少年は、笑顔のまま言い切った男に目を細めながら、確認する。

「カスミの旦那は、無関係だと?」

「手を貸した時点で、無関係ではないですが、恐らくは面白そうだと思った程度かと」

「成程」

 頷いたのは凌で、しんみりと言った。

「もしやその恵という若造、敵を欺くために、怯えて分家の思惑に乗り、自分の従弟を、駒として差し出したふりをしたのか? 経験不足な若者と思って、甘く見るのは危険だな」

「恐らく既に数人、同世代の少年が、被害に遭っていたんでしょう。だから、本当に力があると知れている子を連れて来ると言えば、仲間として見られると見越した」

 偶々、他の子供たちの保護も出来た凌は、エンの言葉に頷く。

「連中は、一種の勧誘のつもりでいた。少なくとも、北森家の連中は。だから、末端に期待外れの少年たちを引き渡そうとしていた。いい迷惑だよな。勝手に目を付けて連れ去って置いて、期待に添わなかったら金づるにする気満々だ」

 北森家は、殆どまっとうな企業に変わっているが、末端は松本家よりもまだ裏に近い。

 元々、関東より西で、裏の稼業を牛耳っていたのだが、ごく最近表社会に出てき始めた。

 新しい企業として、出てきて数年でここまで大きくなったのは、元々傘下にあった家々が、多かったせいだ。

 従えている者が多い背景は、式神として使役している獣の、狂暴性からだろう。

「意外に、術師にはそう言う家が多い。童話やおとぎ話の主人公に憧れて、その登場人物が連れている生き物を、式神にしようと夢見る連中が」

 北森家の初代が憧れたのは、熊と相撲を取って勝利したと言われている、有名な人物だった。

 豪農の生まれだった初代は、憧れだけでは治めなかった。

 北森家の基礎を築いた時、既に二頭の妖化した獣を見つけ、使役に成功していたと言われている。

「少し前に、この国では裏の稼業との癒着を、法律で取り締まるようになっただろう? その頃に、北森家は殆ど、裏稼業と手を切った」

 だが、まだ完全ではない。

 だから、少年たちを、簡単に売り払える場所がまだ存在していた。

「これが公になったら、あの当主はあっさりと切り捨てる。必要悪の匙加減が、まだ微妙だからこそ、残していた場所の一つのはずだ。この機に一掃できる」

「被害に遭った子供たちも、保護できればいいですが」

 顔を曇らせたエンに言葉に、水月も顔を険しくする。

 そんな二人に、優があっさりと言った。

「大丈夫よ。引き取られた時点で、当主には報告が行っているはず」

「?」

「引き取った子たちは、すぐに親元に返して、少しずつ取引現場やあの場所も割り出して、ようやく足取りがしっかり見えてきたから、今夜の捕り物になったのよ」

 まさか、あの場にこの二人が来るとは、優も思わなかった。

「本当にオキちゃんは、酷いわ」

 思い出した女が、頬を膨らませて男に毒づくのを、大叔父と従兄が静かに見つめる。

 それに気づいた優は、その何とも言えない視線に戸惑った。

「な、何?」

「お前が、術の方面に開花するとは、思わなかったんだが……その、北森家とやらとは、いつからの付き合いだ?」

 凌は、元裏社会の家柄だと言っていた。

 昔のそれはどう名乗っているのかは知らないが、それなりに荒くれ者だったのだろうと想像できる。

 そんな家柄と、優は色々と協力する間柄らしい。

「……想像ですけど」

 穏やかな声が、静かに言った。

 その声には、いつもより呆れが滲んでいる。

「初代がお知り合いか、もしくは、あなた本人か、なのでは?」

 実際に手にしているのを見た事はないが、優は斧を武器にしていると聞いていた。

 背に守り用の斧と、護身用の斧を貼り付けた、小柄の美しい女だったと、友人にも聞いたことがある。

 斧と言えば……と、思い当たっての想像だったのだが、当たりだったらしい。

 優は無言で顔を手で覆い、突っ伏してしまった。

「これは、凌叔父様が悪いのっ」

「オレか? 何故だ? 永く生き死にが不明だった間、接点はなかったのにかっ?」

 的外れな責任転嫁に、大男は狼狽えてまくしたてるが、その言い訳を聞いた水月は、爆笑した。

「旦那に倣って、熊と相撲を取りたくてやって見たのか?」

「そうよっ。本当に、殺し合いじゃなくそんな遊びになるのか、気になったのっ」

 あのお伽噺の事は、後付けだった。

 偶々、当時の優の髪型が、出家した尼僧姿だったことも、後付けの色付けとなった。

 いつの間にか、慕ってくる者が出来て、北森と言う姓を付けた家の方は、その者に押し付けたのだが、今でも持ちつ持たれつの間柄だ。

「……ちなみに、御蔵家の方は?」

「もう一家作ったのか?」

 初耳の二人は、ただ話の流れでそう相槌を打ったが、優はそちらまで暴露した腹違いの弟を、恨みがましく睨んだ。

「あの家の式神は、猿と豚と河童でしたよね?」

「……お前、いくらなんでも、昔の話を盗み過ぎじゃないのか?」

「ぬ、盗んでなんかないわっ。単に、そう言う使役がいたら、面白いんじゃないかって思っただけで……でも、河童ちゃんは、うちの後継ぎの子が手掛けたものが初めてよ」

 そう言い切ったものの、その理由は優の方にありそうだ。

 大方、見目のいい河童の姿を想像できなかったから、製作できなかっただけだろうと、優を良く知る男が言っていた。

 エンも、その意見に賛成だ。

最近、よく顔を見せるようになったこの姉の性格が、把握できつつある。

 逆に、長く会わない間に、剛力の女から術使いの女に変貌した姪っ子の扱いに、大叔父は戸惑っているようだ。

 優の従兄に当たる少年の方は戸惑うことなく、只面白がっている。

 揶揄いがいがあると、目が笑っている従兄の顔に気づき、優は慌てて話を戻した。

「きっと、恵ちゃんは、従妹の志桜里ちゃんを攻撃されたのに、よっぽど腹を立てたのね。あの子が式神ごと厄も返したけど、林家の当主はまだ生存している。だから、止めを刺すために、一度家から離れる気なんだわ」

「そこまでやるからには、世に出るほどの打撃をお見舞いする気なんだな」

 眉を寄せた凌は、頷いた甥っ子の娘に、気になる事を訊いた。

「そこまで、自分の生涯をフイにしてもいいと、その子は思っているのか? 何故だ?」

 目を見開いた優の傍で、エンも天井を仰いだ。

 今迄、考えもしなかった疑問だ。

「そう言えば、ちょっと思いつめすぎの気も……」

「思春期の頃から、凝り固まってしまったのなら、年月が過ぎてもそれが全く収まらなかっただけ、だろうが……」

 考え込む男女を見つめ、水月は小さく笑った。

「ん? 何だ?」

「いや。オレなら、可愛い妹分を傷つけられたら、何年先になっても、怒りは収まらん自信がある。その子も、そうなんだろう」

「……ミズ兄さま。私を襲った連中は、もう完全に故人だから。怒りを治めて」

「どうせならば、地獄にいるうちに、そのことを知りたかったな。地の底まで見つけに行ったものを」

 優の顔を引きつらせながらの言葉を、優しい笑顔で受けた少年に、凌は慌てて低い声を出す。

「今からでもそれが出来そうに感じるから、声に出して言うのはやめろ」

「出来はしないが、やれる努力はしたい気分だな」

 努力する分には、本当にやれるわけではないのだから、構わないだろうと笑顔で言う少年は、愛らしい顔立ちなのに、どうしても恐ろしく感じる。

「本当ならば……」

 流石、雅の父親なだけあると、他人事の称賛を心の中で送っていたエンの耳に、やんわりと言う水月の声が入って来る。

「うちの娘を凌辱したあの狐も、あんな場所で、国に裁かれるのを待たせるなど、したくないんだがな。戸籍が作られてしまっては、下手なことができん。律も、考えたものだ」

「ああ、それは、同意見です。どうせならば、同じ経験をさせられる連中の群れに放り込んで、飼い殺しにたいくらいです。何かいい方法はないでしょうか? 脱走させるしか、手はないと思うんですが」

「こらこら」

 穏やかながらも、真面目に響く声音で同調した優男を、言い出した水月が苦笑して窘めた。

「脱走させたら、見つけにくい類の奴だぞ。ああいうやつは、逃げ足が恐ろしく早い。完全に油断させなければ……」

 説教じみた口調になった水月が、急に言葉を切った。

 珍しい言い淀みに、三人が目を見張る中、少年はもう一度天井を一瞥してから、静かにエンを見据えた。

 その目の険しさに怯む男をしばらく見つめ、静かに溜息を吐く。

「……すでに、完全に逃げられない奴の話は、やめるか」

 不自然な話の切り上げだったが、何がそうさせたのかが分からず、当惑する姉弟の傍で、唯一それを指摘できる男は目を細めた。

 含む話があるのは分かるが、その含む部分が曖昧過ぎて、うまい切り出し方が思い浮かばない。

 こういう時は、昔の周囲の関係性が懐かしい。

 それに頼れなくなる程、古い過去になってしまっているのが、歯がゆく思える。

 凌は咳払いして気を取り直した。

「そろそろ、寿のいる宿に向かうか?」

 時間的に、就寝が近い。

「泊まっては、駄目?」

「構わんが、こっちはこっちで、男の会議が繰り広げられる予定だぞ。女は女で、会議した方が楽しいのではないのか?」

 優の上目遣いの申し出に、水月は平然と返す。

 会議、と口の綺麗な言葉を使ったが、実質は下ネタに近い話になる。

 女のそれとはまた違う、男独特の話になると暗に言われ、優は白い目で男たちを見回した。

「……」

 一緒にされたくはないが、ただでさえ肩身が狭いのに、血が繋がってはいても、気心知れない姉と一夜を共にするのは躊躇いがあったエンは、何も言わずに笑顔のまま、凌と共に社宅を後にする女を見送った。

「……おい」

 ほっとしたのもつかの間、後ろで同じように二人を見送っていた少年に、低い声で呼びかけられ、思わず背筋を伸ばす。

 振り返ったエンに笑いかけた水月は、ゆっくりと優しく切り出した。

「二階の連中に、挨拶に行きたいんだが。案内してくれる、よな?」

「は、い」

 ああ、こちらもただではすまなさそうだ。

 一瞬で腹をくくったエンは、慄く内心を綺麗に笑顔で隠して頷き、先に立って二階に続く階段へと歩き出した。


 

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