第4話

 関西の方には、意外に知り合いがいるのだと母は言った。

「その内の一人が、律なんだけど。あの子だけを頼るのは、年嵩の私としてはちょっと、嫌な訳」

 京都での宿は、これから落ち合う女の一人、律に頼ったが、一晩だけの約束だった。

「だからって、篠原家の出張先に使う宿を、私的に使うのはどうなんですか?」

「それは、秘書の親族の特権、って事で」

 それは、違法ではないかと思うのだが、よくよく聞いて見ると、旅費も宿代も実費で、ただ単に予約を優先してもらっただけらしい。

「そんなあくどいことして、うちの旦那を貶めるなんて、するはず無いでしょ」

 口を尖らせる女は、雅と同じ位の背丈で年嵩に見えるが、若々しい母親だった。

 父親に似て美少女だが、色気のいの字も見受けられない雅とは違い、磨き上げられた色気が、むんむんと漂っている。

 今の連れ合いである藤田氏との相性の影響か、雅の父親と一緒の時よりも、狐らしい雰囲気が、駄々洩れだった。

 いつもは、藤田夫人として姿を変え、家庭を守っているのだが、今日は本来の姿に近く、事情を知る娘の前と言う事で、余計な緊張をしていない為、更にその傾向があるようだ。

 隣にいる雅としては、人の目が母の方に向かう為、いつもより気楽なのだが、いい年した女が、その視線を気にせずにいるさまは、何とも複雑な気持ちにさせた。

 知り合いの夫人が、言っていたことがある。

「可愛いとか、天然だとか言われると、物凄く腹が立つんです。馬鹿にされてるように思います」

 だから、自分でそう言う人や、そう装う人が、とても信じられないと言い切った夫人は、昔は少しぼんやりとした、何もないようなところで転ぶような、小柄な娘さんだった。

 誉め言葉としても、揶揄いの言葉としても、雅はその夫人に言ってしまっていたが、傷つけていたのかと反省した。

 セイに対しても、時々可愛いを連発しているが、それは怒らせるのが楽しくなっているのもある。

 何故、そんな事を旅行先の空港に降り立った今、しんみりと思い出しているのか。

 それは、視線を気にしないどころか、その視線の先の男に、やんわりと笑顔を見せる母親、寿を見てなるほどと納得してしまったからに、他ならない。

「……年齢を知っていると、これは痛い」

「何か、言った? 雅?」

「孫もいるのに、孫位の年齢の男に、色目を使う女は、痛いと言ったんです」

 女は、不満げに娘を見た。

「美魔女の方々を、敵に回しちゃ駄目でしょ?」

「その人たちは、自分の健康のためにも、若々しくしてるだけでしょう? 既婚者ならなおさら、その位の壁は作りながら、美容を心掛けているはずです」

 むしろ、既婚者じゃなく、不義でないのならば、男を惑わすのも止める理由にはならない。

「自分の健康のためだけに若々しくしてても、男の方はそう取ってくれないなら、腹をくくった方がいいじゃないの。不義が嫌なら、初めから年相応の見た目を目指すわ」

 胸を張ったその言い分に、雅は何も言えなくなった。

 代わりに、心の中で誓う。

 自分は、地味にしていよう。

 そう決めた後は気を改め、女は空港内を見回した。

 朝一の航空便でここにつき、今は八時を回ったところだ。

 比較的新しいこの空港から、京都の駅までバスで向かう。

 その前に、ここで落ち合うはずの女性を、二人はベンチに腰掛けて待っている所だった。

 朝一の便だったのに、意外に利用者は多く、待合のベンチは半分ほど埋まった。

 それとは別に、どこかの制服姿の団体が、到着口からぞろぞろと出てくるのが見え、雅はつい首を竦めた。

 見た目が若い為、私服の自分が一人、ベンチに寛いでいるのは目立つと思っての仕草だったが、その団体の中の男子生徒と、何故か目が合った。

 目が合った少年は、すぐに目を剝き、悲鳴をかみ殺す。

 中肉中背のその少年は慌てて、前を歩く細身の同級生の背を小突いた。

 眉を寄せて振り返った眼鏡をかけた少年は、指をさして小声で何かを喚く同級生の指の先を目で追い、目を見張る。

 目を泳がせて雅の隣を見、天井を仰いだ。

 そこまで見守った雅は、目を逸らしながら隣に座っている母親に声をかけた。

「あの、母上?」

「駄目よ、永い間目を合わせては。あなたは、変装もしていないんだから、すぐにばれちゃう」

「いえ、篠原さんの所の息子さんは、あなたの本来の姿も、知ってるんじゃあ?」

 先程の態度では、恐らく知っている。

「弥生に知られないなら、誰に知られても構わないわ」

 そう言い切る母親は、開き直っているというよりも、少しだけ軽い口調だった。

 寿が藤田真治の妻に収まった過程は、曖昧に説明されていたが、他の方向から聞いた話によると、どうやら藤田夏生の素行の悪さが事の発端だったらしい。

 酒癖が悪く、ギャンブルにも手を出した本当の弥生の母親は、その為に負った借金を旦那に知られるのを恐れ、娘を連れて家を出、無理心中を図った。

 すぐに助けられた娘は無事だったが、夏生の方は助からず、そんな母親でも慕っていた弥生を悲しませたくないと、真治が頭を悩ませたのを見て、偶々その無理心中の場を見つけ、助け出した寿が友人だった篠原和敏の妻の斎と結託して、新生藤田夏生を作り上げたのだった。

 借金の方は、頭を悩ますような額ではなかったから、どうしてそこまで追いつめていたのか未だに謎なのだが、娘の弥生は入れ替わった母親にも懐き、現在に至っている。

 夏生として生活している寿も、実の子供たちよりも可愛がり、過保護にもなっているようだ。

 秘かに準備していたこの旅行が、娘を見守る為だったのだと、雅は今ようやく知った。

「嫌ね、見守りは、ついでよ。女子会も兼ねた旅行をしたいと思ったのは、本当なんだから、そんなげっそりとした顔、しないの」

「そうですか」

 それに気づかず、緊張と楽しみによる興奮で、昨夜寝不足になってしまった雅は、取り繕った母親の弁を聞き流した。

 聞き流しながら、気を取り直す。

 国際空港であるここに、国外からの到着便を伝えるアナウンスが、聞こえたのだ。

 中華国からのそれに、待ち合わせの女性も乗っているはずだ。

 数分後、手荷物を抱えて姿を見せたのは、親子より遥かに小柄な女だった。

 立ち上がって出迎えた二人を見つけ、顔を輝かせる。

「ミヤちゃん、寿さんっっ。お久しぶりー」

 自分の体が埋まるほどのボストンバックを抱えたまま、女は子栗鼠のように駆け寄って来る。

「シュウレイさん、お元気そうでよかった」

 寿に荷物を持ったまま抱き着き、母親がその重さで目を白黒させるのを横目に、雅は優しく微笑んだ。

 カ・シュウレイは、エンの腹違いの姉だ。

 双子の弟はエン位の長身だが、シュウレイの方はその胸元当たりの背丈しかなく、雅や寿と並ぶと親子か、年の離れた姉妹に見えた。

 もう二人の旅の道連れと並ぶと、女子会らしくなるかもと考えてから、気づいた。

「あれ、優さんと、一緒じゃないんですか?」

 確か、シュウレイの弟、セキレイの頼みで、一番上の姉となる優が、中華国の自宅に迎えに行き、一緒に落ち合う事になっていたはずだ。

 まさか、一人で飛行機に乗ったのかと、失礼な心配をしている雅に、シュウレイは不安げに頷いた。

「急に行けなくなったって、連絡があったんだ。空港には、セキレイが送ってくれて、手続きもしてもらったけど、怖かった」

 おっかなびっくりで、手荷物も探し出し、自分たちの元に辿り着いたらしい。

 美少女めいた女の、庇護欲をそそる顔だったが、雅は無事でよかったと、安堵の溜息を吐いただけだった。

「よしよし、よく頑張ったわね。初めてにしては、偉いわ」

 寿が適当に褒めている間、娘の方はこれからの段取りを頭に並べた。

「ここから交通機関で京都に出て、有名な寺を回るんでしたね?」

「ええ。奈良の方もそうだけど、懐かしい建物が、昔とそう変わらない形で残ってて、見ごたえあるのよ」

「楽しみ!」

 はしゃぐシュウレイに笑いかけ、寿は頷いた。

「ガイドも頼んだから、スムーズに場所を回れるわよ。持つべきは、土地勘のある知り合いよね」

「ガイド?」

 初耳の雅が目を見張ると、母親は笑顔で指をさした。

 携帯機器を見下ろしながら歩いていた男が、顔を上げて立ち止まる。

「少し、遅かったか?」

「遅いわよ。せめて、国際便がつく前に、落ち合えなかった?」

「悪い悪い」

 大柄な男は、その体格に似合わない温和な笑顔で、寿の文句に謝罪を投げた。

 その口調も軽く、随分気安い様だ。

「と言うか、何百年も交流なかったのに、急に旅行の添乗員のようなことをしろとは、相変わらずだな」

「いいじゃないの。どうせ、今は暇なんでしょ?」

 呆れた文句は一蹴され、大男は肩を竦めた。

 そして、観察していた大小の女を見る。

「この二人が、同行者か?」

「ええ。見ての通り、私の娘と、知り合いの娘よ」

 簡単すぎる説明に、大男は呆れながらも、二人に笑顔を向けた。

「話には聞いていたが、会う機会は全くなかったな。優に、妹が出来ているのも、聞いていた。あの旦那の娘は、小さいのが多いな」

「ランは、大きかったじゃない」

「あれを、女に数えてよかったのか? 本人が怒りそうだ」

 気楽に会話した後、取り残されている二人の女に自己紹介した。

「初めまして、珊瑚さんごと言う。仕えていた家が、ほぼなくなった関係で、篠原財閥の子会社に拾われた、下っ端の社員だ」

 軽いその紹介に、慌ててシュウレイも自己紹介を返したが、雅は大男をまじまじと見た後、天井を仰いだ。

「珊瑚、さん? どこかで耳にしたような……」

 初対面なのは本当なのだが、初耳の名前ではない。

 誰かに似ているような気もするのだがと、頭をひねる娘に苦笑し、寿が代わりに紹介した。

「娘の雅よ。名前がある経緯も、一応は知られてるんでしょ?」

「ああ。あんたの弟も、随分とひねくれた上に、しつこい狐だったようだな」

 頭をひねっていた雅が、僅かに顔を顰めた。

 そんなに、その話は有名なのかと、何とも嫌な気分になった娘に、寿は軽く手を振って言った。

「こいつは、元々術師の家にいたから、聞きかじっていただけで、そう有名じゃないわよ。私たち姉弟は、目立たずに生きてたんだから」

「……あれで?」

 珊瑚と名乗った大男が、軽く言い切った女の話に異を唱えた。

「あんたはそう目立っていなかったが、上と下の姉弟は、それこそ警戒の対象だったぞ」

 変な拘りで男を狩り、餌にしていた姉と、姪っ子に執心して、村や家を巻き込んで根絶やしにした弟。

 珊瑚がいた家が目を付けられなかったのは、使役ではない鬼を有していたお蔭だ。

「……それだけが、理由じゃないけどな。実はあの家も、近年までは力を有していたんだ」

 女系でなければ、今でも存続させようと思えば、出来たのだと言われ、雅は唐突に思い出した。

「……堤家」

「ああ、やっぱりご存知か」

 つい呟いた声に反応し、珊瑚は笑顔を濃くした。

「ええ」

 頷いた雅は、優しい笑顔で答える。

「昔、うちの大事な子を、利用しようとした女の家ですね?」

「……」

 大男が、顔を引き攣らせた。

「そ、それは……」

「近年では、教育もせずに放置していた子を、手にかけようとした一族」

 天井を仰ぐ寿と、目を丸くするシュウレイの隣で、雅は首を傾げて見せた。

「そんな家を、何故疑問も抱かずに、見守れたのか不思議だったんですが、お答えいただけますか?」

 笑顔は優しいのに、秋にしては空気が冷たい。

 答え次第では、どうなるか分からないが、珊瑚は苦笑してから静かに答えた。

「命を取られるよりは、家に閉じ込めておいた方が安全と、亡き先代と側近が相談した結果だった」

「……」

 眉を寄せた女に、母親が手を打って切り出す。

「さ、そう言う話は、移動しながらでもいいでしょ。早くしないと、予定が狂っちゃうわ」

 取り繕った話の変更だったが、雅は我に返って溜息を吐く。

「すみません。折角の旅行なのに」

「いや、そちらの事情を知っているこちらとしては、当然の反応だ。車も用意してあるから、移動しよう」

 促した珊瑚に、寿が目を丸くする。

「え。あんた、自動車の免許なんか、持ってるの?」

「いや」

 女の問いに首を振り、少しだけ雅を気にしながら答えた。

「……運転手は、別に手配した。あんた達の事も了承済みの人だから、気負う必要もない」

 歩き出した大男の後を追い、三人の女は空港を出た。

 駐車場で待っていたのは、中年の男だ。

 レンタカーらしきワゴン車から出て来た男は、緊張気味に挨拶した。

「これより四日間、ご一緒させていただくことになりました、堤と申します」

「……」

 気にしないようにしているのに、どうしてこういうセッティングをするんだ?

 つい、いつもの表情を消してしまった雅に、シュウレイが控えめに声をかける。

「この機会に、ミヤちゃんが気にしているお話も、ちゃんと聞いておこうよ? その方が、旅行も気兼ねなく楽しめるよ」

「済まない。すでに、葵たちから堤の今を聞いていると思って、頼んでしまったんだ」

 感情をやり過ごそうとしている女に、珊瑚も控えめに謝った。

 その顔を見やり、思い出す。

 そう言えば、葵の叔父に当たる鬼が、堤にいると聞いていた。

 その鬼に、松本家の元祖、瑪瑙との血の繋がりの疑惑もあると。

 そのつながりで、篠原家の系列会社への就職が、実現できたのだなと何となく察し、雅は気を取り直した。

 そこまで世話されたという事は、この男の所業は悪いものではなかったのだろうから、自分が怒る話ではない。

 ゆっくりと頷き、いつもの優しい笑顔を浮かべる。

「気分を悪くさせる空気にして、申し訳ありません。こういう旅行は初めてなので、案内してくれる人がいるのは、助かります。女所帯で騒がしいでしょうが、よろしくお願いいたします」

「いえ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げた女に、男は慌てて頭を下げ返し、珊瑚と共に女たちの荷物をワゴン車に詰め込んだ。

 女達と大男を乗せた自動車はスムーズに動き出し、女子会兼、修学旅行見守り隊は、行動を開始したのだった。


 関西の国際空港に降り立った篠原和泉は、しみじみ呟いた。

「オレ、意外に箱入り息子だな」

「何を今更」

 高野晴彦が、冷静に返す。

 先程まで、飛行機の浮遊感の気分の悪さに続いた耳の痛みに耐えていたが、空港に降り立って間もなく、その感覚は全て消え去った。

 ほっとしたその時だった。

 観光バスに向かって歩く行列の、後ろの方にいた晴彦が、慌てたように小突いて来たのだ。

 振り向いた先の幼馴染は、顔を引き攣らせていた。

 必死で目を背後に向け、何かを訴えている。

 その目線を辿った和泉は、意外な女を見つけた。

 自分達と変わらない年齢の見知った女が、目を丸くして見ている。

 晴彦が注意を促したのは、その女がいた事だったのだが、和泉が驚いたのはその隣にいた女の存在だった。

 幼馴染たちには、その姿を見せた事がない女が、妖艶な体躯でそこに座っていた。

「……」

 そっぽを向いてこちらを見もしないが、ここにいるのは明らかに自分達が目的だ。

 父親の秘書の、僅かに感情を出したあの出発時の様子を思い出し、こういう事かと納得した。

 恐らく、藤田家の一人娘を、悪い虫を付けないように見守るついでに、和泉も監視するつもりでいるのだ。

 そんなに信用がならないのかと嘆きたくなったが、確かに信用は出来ないと思い直した。

 篠原家の一人息子の和泉は、学校行事以外で県外にすら出た事がなく、飛行機も初めて乗った。

 一通りの勉強はしていたが、実経験は全くない。

 そう思い当たった上での、先の呟きだったが、晴彦の返しは何の感慨もなかった。

 先ほど見てしまった女に、不安を覚えているようだ。

 どちらかと言うと、あの人よりも同行者の方が不安要素なのだが、藤田夏生の正体を知らない幼馴染に、説明するのは難しい。

 父の側近の、家庭内の事情だからだ。

 和泉がそれを知っているのは、あのいざこざの時に居合わせた為で、本来は知らされていなかったはずだ。

 唯一の女の幼馴染だった弥生は、実の母親の手で死にかかった。

 幼かった和泉だったが、弥生と夏生が病院に運ばれたと聞いた時、そう察した。

 親たちには言えなかったが、夏生の態度が、大人を挟んでいる時と、子供だけでいる時とで、大きく違っていたのだ。

 他の二人の幼馴染が遊びに来ている時は、干渉すらしてこなかったからましだったが、大人しかった和泉と娘の前では、明らかに態度が変わった。

 要するに、子供が嫌いなのに、生んでしまった女、だったのだろう。

 藤田真治は子供好きで、そんな男を繋ぎ止めるために、身ごもって産み落としたに過ぎないのではと、今では思う。

 そんな母親でも、娘の弥生はとても好いていた。

 懐こうとして撥ねつけられ、泣いている事もしばしばだった。

 その頃の事を思うと、今の親子関係は本当に良好だ。

 昔を知る者は親世代だけで、幼馴染たちも弥生本人も藤田夫人が別人だと、気づいていない。

 こんな重い事情を、和泉の口から話す気にもなれないが、こういう時は苦しくなる。

 気を取り直しながら列の前方を見ると、もう一人の男の幼馴染が、最近友人となりつつある少年と話ながら、バスに乗り込んでいくのが見えた。

 これから、下りてみるまでもない名所の紹介を受けながら、京都に向かう予定だ。

 その途中に食事休憩もあるから、その時にでもそれとなく、話しておこう。

 幼馴染には注意を促す形で、友人未満の少年には警戒を促す形で。

 そう思っていたのだが……。

 小さな公園の中で、短い食事休憩に入った同級生たちを見回し、和泉は苦い溜息を吐いた。

 班ごとや気心知れた友人たちと、敷物の上で弁当を開いている中、和泉たちの輪の中には、幼馴染二人と古谷志門、藤田弥生とその班になった、仲良しの女子たちが一緒にいた。

 何でと、思わず弥生を見ると、長身の少女は微笑んだ。

「大丈夫、目の保養目的だから」

「?」

 意味不明だが、そう言った弥生と一緒に、女子たちは意味あり気に笑っている。

 無言で何故か、市原凪もしたり顔で、同じように笑っているのだが、何か暗号の様なものなのだろうか。

 困惑しながらも、当たり障りない話題を持ちかける。

 思い思いの雑談が始まった頃、和泉は何気なく声をかけた。

「それにしても、古谷家がお前をよく、旅行に出してくれたよな」

 急に振られた志門は、無言のまま目を見開いて顔を上げた。

 古谷夫人の手作りらしい弁当を、一つ一つ味わって食べている最中だったらしく、周囲の話は完全に聞き流していたようだ。

 口の中の物を飲み込んでから、答える。

「何事も経験と、許可を下さいました」

 父方の家族と、兄弟子の家族も集まり、真剣に吟味しての許可だったのだが、最終決定だけを、端的に述べるだけにとどめた。

 志門本人は、激しく反対する二つの家族の思いに感動していただけなのだが、周りから見ると粘り気のある過保護に感じたらしい。

 最後は、古谷氏が一喝し、賛成に傾いた。

 あまりの過保護っぷりに辟易した古谷氏は、きっぱりと言い放った。

「余計な護衛は、不要です。多少の危険も、この子の身になるのならば、大目に見るべきです」

 釘を刺された二つの家族は、不満に思いながらも、それを了承した。

 どうやら、市原家からの依頼で、一人心強い人が傍につくことが決定していたから、それでよしとしたらしい。

 凪本人は、それを知らされていないが。

「これは、あなた方にも注意を促しておくようにと言う、師匠のお言葉なのですが」

 弁当を完食した志門は、使い捨ての容器をビニール袋に入れながら、言った。

「知らない人に話しかけられたら、まずはじっくり観察しろと」

 その上で、速やかに離れろ。

 場合によっては、問いに答えずに逃げろと言う進言に、まあ、その方がいいよなと納得した和泉だったのだが、真っ先にやらかしてしまった。

 京都に着き、寺社を巡っている途中の事だった。

 大きな鳥居に目を剝き、大きな本堂に歓声を上げ、年相応よりも無邪気に反応しながら、観光を楽しんでいた和泉が同級生から少し遅れて歩いていた時、不意に話しかけられたのだ。

「つかぬ事を訊くが、よろしいか?」

 妙に、丁寧な男の声だ。

 振り返ると、和服姿の男が静かに立っている。

 寺の僧侶かとも思ったが、妙に身軽な装いで、どちらかと言うと侍のような雰囲気だ。

「……? 何ですか?」

「お主たちは、学生とやらだな?」

「ええ。修学旅行で、ここに来てます」

「ほう……」

 頷いた男は、目線を前方に流した。

 そこには、同級生たちと共に、担任の教師の姿もある。

「あれも、学生なのか?」

 あれ? 不審に思いながらも、和泉はきっぱりと答えた。

「? 先生です。うちのクラスの、担任です」

「先生?」

 まじまじと見つめる先の教師が、その視線に気づき振り返り、固まった。

 目を剝いている担任教師を見上げ、凪が不思議そうにその視線を追い、こちらを見る。

 同じように見た晴彦もこちらを見て、眉を寄せた。

 何か言いかける幼馴染より先に、横合いから声がかかった。

「篠原君、早く行きましょうっ」

 珍しく、取り乱したような志門の声が、何よりも和泉を驚かせた。

「ふ、古谷、どうしたん……」

「いいから、列を乱して、迷ってはいけませんからっ」

 血相を変えた同級生に押されるように歩き出した和泉は、取り残された男を振り返った。

 何かを察し間抜けな顔で頷き、頭を掻いた男の呟く様な声が、やけにはっきりと聞こえた。

「ああ、そうだった。私は通常、視えないんだったな」

 その声で、ようやく気付いた。

 その男の体が透け、後ろの寺の本堂が、しっかりと見えている事を。

「……っ」

 声もなく察した和泉を押しながら、志門は切羽詰まった声で言った。

「今のは、あなたの独り言です。そう言う事にして置いて下さいっ」

「い、いや、でも、今の、はっきり……」

 力説する生徒と、青褪めた生徒が歩み寄って来るのを待って、望月千里もちづきちさとがきっぱりと言い切った。

「そう言う事にしておけ。ああいう輩は、視えていると気づかれたら、付いて来る奴もいる」

「……え? あんなに、はっきり視えるものなんですか?」

 腰を抜かしそうな低い姿勢で、和泉が問うと、望月は難しい顔になった。

「日中、日のある時に視えるのも珍しいが、普通に話しかけるのも珍しいな。何を訊かれた?」

「……先生との、間柄?」

「私?」

 怪訝な顔をして男を見返す望月は、長身の女教師だ。

 制服姿の生徒たちと混じっても若く見え、パンツスーツ姿でなければ同級生とみられてもおかしくない。

 どちらかと言うと女子に人気の教師は、見返した男が手を合わせてお辞儀したのを見た。

 その仕草が、謝罪しているように見え、目を瞬いている間に、奇妙な男は姿を消していた。

 生徒の点呼を済ませ、走り出したバスの中に落ち着いた教師は、小さく呟く。

「……おかしな奴だな。この辺りにいるのも、初めて見る」

「地縛霊と言われる類では、ないのですか?」

 服装からして、古い時代の人だと思った志門が、意外そうに尋ねた。

 それを受け、望月は言う。

「最近、ああいう形に固まったと言われれば、納得できる。形だけなら、な」

 形が固まっただけならば、あり得るほどの怨念が凝り固まれる場が、都会を中心に多くあるのだと、望月は言ってから続けた。

「だが、自己を持って話しかける奴は相当古いか、別な何かの干渉があったかの、どちらかだ」

 数年前に高等部の修学旅行で来た時には、間違いなくいなかった男だと言い切られ、晴彦が小さく唸る。

「つまり、何かの干渉があったって事ですか。オレにもはっきり視えるって、相当ですよ」

 曽祖父の代からすると、高野家の家族は力が弱くなっている。

 うっすらと視える事はあっても、幻覚だと言い聞かせる事で、精神的にも平凡になった。

 そんな家系の次男坊にすら、一瞬、おかしな格好の観光案内人に見えた。

「よく見ないと、透けてるって分からないくらいだったし。一体、どう言う干渉でああいう事になったんでしょうか?」

 可愛らしく首を傾げ、消えた男がいた方を見据える凪に、望月は小さく唸った。

「人の干渉か、それ以外の干渉か。どちらにしても、余り付き合いたくない類だ」

 謝罪したあの神妙な姿は、生徒たちに害を与える様には見えなかったが、自分をさして質問したというのが、気になっている。

 自分に直接会いに来るのなら、問題はないんだがと考えながら、望月はバスガイドの話に耳を傾けた。

 何度も聞いている名所の説明だったが、つらつらとした綺麗な声を聞いていると、意外に心も落ち着くのだ。

 今後の予定を頭に並べながら、生徒の個々の性格を思い浮かべ、最悪な事態を想定する。

 出来れば今回も、無事に地元に帰れればいいのだがと、何故か希望的な思いが胸をよぎり、縁起でもないと慌ててそれを否定した。

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