旅立ちリボンとクレマチス 2
正確には、女性が男性に一方的にまくし立てている。
一人は動きやすそうなスーツを身につけた、大柄な男性だ。鷲鼻が特徴的な顔立ちをしていて、全体的に厳めしい。
ただ、今は困惑し途方に暮れているようだ。
もう一人は、まだ少女といっても良い娘だ。若干背が高くワンピースにまっさらなエプロンを身につけ、腕には花が一杯のかごをぶら下げている。
華やかさと愛嬌がある顔は今は剣呑に顰められており、大の男にも怯まず労働者階級特有の発音でまくし立てている。
「あんたどうしてここにいんのさ。まさか無理矢理なんかしたって訳じゃないだろうね」
「いや、俺はだな……」
「あんたはこんなとこに来るような人間じゃねえだろ。サツみてえな雰囲気しやがって……まさか前にあったっていう強盗事件で、ローザを疑ってるとかじゃねえだろうな。もしあの子になんかしたら許さないよ!」
もちろん、ローザは二人を知っていた。
男性はセオドア・グリフィス。
これから住まうテラスハウスの四階の居住者で、今日ローザの引っ越しを手伝いに来てくれた男性だ。
そして女性は……。
「ミーシア! どうしてここに」
ローザが呼びかけると、娘、ミーシアはぱっと振り返った。
その顔に安堵を浮かべて駆け寄ろうとしたが、隣にいるアルヴィンに驚き怯んだように立ち止まる。
アルヴィンはおお、と声を上げた。
「君、以前ローザの家を教えてくれた花売りの子だね」
「ローザの雇い主の変な美人!」
ローザはそのやりとりで、やはり以前アルヴィンにローザの家を教えた花売りはミーシアだと知る。
ミーシアの後ろでセオドアが安堵した顔をした。
「やはり、君の知り合いか。助かった」
「えっえっどういうことだ」
戸惑うミーシアにローザは説明した。
「グリフィスさんは、同じテラスハウスに住んでいる方で、休日なのにわたしの引っ越しを手伝いに来てくださったの」
「そ、そう。……悪かったよ」
若干決まり悪そうに謝罪するミーシアに、セオドアは気にするなと首を横に振ってみせる。
誤解がほどけて良かったと安堵したローザは、すぐに落ち着かない混乱に襲われる。
ローザはずっと、ミーシアに避けられていたと思っていた。
けれど、彼女は以前と変わらずローザの前にいる。だけでなく際ほどセオドアにぶつけていた言葉は、ローザを案じる言葉に聞こえた。
目が合うと、ミーシアは若干決まり悪そうにする。
ローザは勇気を出して、話しかけた。
「最近お忙しそうでしたし、今日もお仕事に行ったと聞いていましたから、会えると思いませんでした。どう、されたのですか」
「あーうん、確かにアタシもそっけなくしちまってたよな。けど、やっと今日手に入れられたからこいつだけ届けに来たんだ」
なにを届けに来たのだろう。
ローザが不思議に思っていると、ミーシアはぱっと花束を差し出した。
それはまっ青に近いクレマチスの花束だ。
一重咲きのそれは簡素な紙に包まれて、つややかな白のリボンで結ばれている。
見栄えがする花束にローザは息を呑んだが、白色のリボンの手触りに覚えがあった。
この滑らかさは、ローザの制服に使われているリボンの手触りと一緒だ。
「選別。あんた、ブルーローズっていう店に勤めてんだろ。贈んなら青い花がいいと思って、今一番綺麗な花を見繕って来たんだ。リボンはまあ……おまけさ」
「ですがこのリボンは、とても……」
ローザがどう答えて良いかわからないまま言葉を濁すと、ミーシアは仕方ないなあと言わんばかりに肩をすくめてみせる。
「アタシは花売りだからさ、今のあんたに相応しいもんなんて、渡せっこねえんだ。けどなんか残るようなもんを渡したかったんだよ。ちょっとばっかり用意するのに時間かかっちまってごめんな」
ミーシアがなんてことなく言うのに、ローザはクレマチスと白いリボンを抱え込んだ。
ローザは知っている。
これほど上等なリボンを買うのに、どれほど花を売らねばならないのかを。
花売りの最中に手芸店の前を通ったとき、ミーシアが店先に美しく飾られたリボンをあこがれの目で見ていたのを覚えている。
それを、ローザに選別にくれたのだ。
ミーシアは柔らかい目で、ローザを見る。
「こうしてアタシとしゃべっても、うつむかなくなった。あんたがすげえ頑張ったのは、アタシが一番よく知ってる。胸張ってここから出て行きな。――じゃあな! アタシは仕事に戻る!」
「待ってくださいっ」
ローザはミーシアを引き留めると、部屋の鍵を開けて中に入る。
そして荷物の一番取り出しやすいところに置いてあった紙包みを持ってきた。
面食らうミーシアにそれを差し出す。
「これを、受け取っていただけませんか」
「別にお返しをもらうために渡したんじゃ……っ!」
ミーシアは面食らいつつも、受け取った包みを開いて目を見開いた。
中に入っていたのは、若緑色のリボンだ。
ちょうどローザがもらったリボンと色違いの品だ。きっとミーシアが買い求めただろう手芸店に置いてあっただろう。
「いつか自分のために欲しい、と言っていましたよね。ミーシアに渡すのなら、きっとこれだと思って……」
「覚えてたんだ」
呆然とするミーシアをローザはじっと見つめる。
ローザがうつむいているあいだも、ミーシアは見放さずに根気強く付き合ってくれた。
彼女の厚意に甘えているあいだ、多くの迷惑をかけた自覚がある。けれどあの時間がなければローザは立ち直れなかった。
報いるとすれば、これしかないと思ったのだ。
「今まで、たくさん助けていただいたお礼です。渡したあとは、どうされてもかまいません。わたしがいただいた物の代わりに、もらっていただけませんか」
「……あんたは、本当に変わったんだね」
ミーシアは、ローザの晴天のような青い瞳をまぶしげに見つめ返した。
そして、するりと若緑色のリボンを手に取ると、自分の結い上げた髪に飾りとして結ぶ。
彼女の明るい茶色の髪に、若緑はよく映えた。
「ん、似合うか?」
「はい。とてもお綺麗です」
「あんたの言葉遣いはいつもこそばゆかったけど、褒められんのは悪かないね」
はにかんだミーシアは、ローザを花束ごとぎゅっと抱きしめた。
突然の行動に驚いたローザだったが、耳元で、すんと鼻をすする音がする。
「もう、ここに戻って来んなよ。元気でな」
「――ミーシアも、元気で」
またね、とは言いがたい。それはお互いによくわかっていた。
ローザから離れたときには、ミーシアはいつもの人好きのする笑顔を浮かべていた。
「じゃあな、アタシは今日も仕事があんだ。店主のにーさん達、ローザをよろしく!」
若緑色のリボンを付けたまま、彼女はからりと手を振って去って行く。
アルヴィンは相変わらず不思議そうにしている。
ただ、セオドアはぽつりと言った。
「良いお嬢さんだな」
「はい、とても。お世話になりました」
ローザはミーシアの後ろ姿が見えなくなるまで見送ったのだった。
荷物をすべて馬車へと積み終えたあと、ローザは最後となる部屋をゆっくりと見渡す。
家具は部屋の備え付けだったから、私物は持ち出してもまだ残っている。
脚が少しがたつくテーブルでは、時々テーブルクロスを引いて、お茶の仕方や食事の仕方を教わった。
うっかり体重をかけると、カップが揺れて危うくこぼしかけたのを母ソフィアと笑った。
台所のレンジはオーブンの火が右に偏って焦げやすいから、調理にコツが必要だった。
窓辺の明るい場所に置いてある椅子は、母の特等席だ。日中はそのまま、夜はサイドテーブルに最低限に絞ったランプを置いて、いつも仕立ての服を縫っていた。
ローザはその近くに座っていつまでも見ていた。
今も母が針を使う姿を思い浮かべられる。
それも、今日が身納めだ。
つんと、鼻の奥が痛くなるのをローザはやり過ごす。
代わりに服の下げていたロケットと、クレマチスの花束を握りしめた。
大丈夫だ。今のローザには、大事な物が残っている。
「さようなら」
そうしてローザは、母の名残がなくなった部屋の扉を閉めた。
旅立ちリボンとクレマチス 了
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