第2話 独りぼっちのにわか雨



 近くの階段に並んで座ると、ローザはミーシアが貰った手紙を読み上げる。


「──『あなたは花と戯れる妖精のように美しい。どうかその瞳に、私を映していただきたい』以上です。恋文ですね」

「あんた、こんな糸がもつれたみてえな文字よく読めんねぇ。貴族のお姫サマでも、紳士のお嬢サマでもねえのにさ」


 ミーシアに感心されたローザは、ほんの少し気持ちが浮上する。


「ご自分で読めるようにお教えしましょうか?」

「いらないよ。男の顔でだいたい内容はわかるし、花売りは文字が読めなくても困んないさ。たまには中身を知っても良いかなと思うけど、どうせ返事なんかしねえもん。一緒になんなら、酒を飲み過ぎねえ働きもんの同じ労働者階級ワーキングクラスが一番さ」


 あっけらかんと断られたローザは、しょうぜんと肩を落とす。世話になっているお礼にと考えたのだが、うまくいかない。

 せめて、とローザはミーシアに向けて深々と頭を下げた。


「申し訳ありません……花の売り方も、教えてくださったのに、うまくいかず……」

「別に良いよ。同じアパートに住んでるよしみさ。仲が良かった母ちゃんが死んで、まだ二カ月じゃん? 前の仕事をクビにもなったのに、あんたはよくやってる」


 母親の話を持ち出されて、ローザの目にじんわりと涙が滲む。

 この二カ月で、ローザの人生は大きく変わってしまった。


 二カ月前に、そうめいで、教養深かった最愛の母親が亡くなった。

 そして一カ月前、長く勤めていた職場を解雇されたのだ。

 労働者階級である自分は、生きるためには毎日働かなければいけない。一日働けないだけで食べるものにすら困ってしまう。


 まだ悲しみが鮮明すぎて胸がじくじくと痛むが、悲嘆に暮れる暇はなかった。

 ほぼ同時期に母だけでなく仕事までなくして消沈するローザを、ミーシアが見るに見かねて、花売りに誘ってくれた。

 この一カ月、本当に根気よく付き合ってくれたミーシアだが、とうとう言いにくそうに切り出した。


「けどさ、自分が花売りには向いていないの、よくわかってんだろ。客相手の商売じゃねえほうが良い。花売りはまともにしゃべれなきゃ無理だ」

「はい……」

「前は洗濯屋に勤めてたんだろ。アタシらと違って言葉は丁寧にしゃべれるし、文字も読めるし、計算もできただろ? そんだけ賢けりゃメイドになれんじゃない」


 確かに、そうだ。メイドの仕事なら、花売りよりはマシに働ける可能性が高い。

 しかし、ローザは首を横に振った。


「メイド、は、住み込みばかりですから。今の家から、離れるのは、嫌なのです……」


 現在住んでいる部屋は、母が居たからこそ家賃にも困らず暮らせていた。ローザ一人では負担が大きい。だが、物心が付いた頃からの母との思い出が詰まった大事な部屋だ。

 良い思い出が残る唯一の形見さえ無くなった今、もうあの部屋しか母をしのべるものはない。

 まだどうしても、離れたくなかった。


「とはいえ、二カ月以上家賃を払えてないんだろ。大家が今度こそあんたを追い出すって息巻いてたよ。今日の売り上げいくらだった?」


 ローザがぎゅうと籠を抱えると、ミーシアがため息をついた。


「これ以上、アタシにできることはねえ。せめて顔を上げて、客の目を見れなきゃだめだ。あきらめんのは早めがいい」





 ミーシアが去って行った後も、ローザはその場に座り込んでいた。

 少し元気がなくなったしろから立ち上る、ふくいくとした甘い香りが鼻孔をくすぐる。普段なら癒やしてくれる香りも、今は惨めな気持ちがいっそう色濃くなるだけだった。


 顔を上げて、人の目を見て話しかける。

 ミーシア達には当たり前にできることが、ローザには途方もなく難しいことだった。


 人の視線が、怖い。自分の存在によって相手を不快にさせていないかひどく不安になって、硬直してしまうのだ。


 ダナの言葉通り、ローザはもう十八歳になるのに十三、四歳にしか見えないほど小柄で、やせ細っている。そのくせ、目はぎょろりと大きく主張していて釣り合いがとれていない。

 髪はすすでもかぶったような艶のない陰気な黒髪で、日曜学校に通っていた時からずっとからかわれていじめられていた。

 せめて目を隠すために前髪を伸ばして視線を避けていたら、いつの間にかうつむいて過ごすのが癖になっていた。


 それでも洗濯屋の仕事は、良く続いていたと思う。厳しい職場だったが、解雇されるまでは、黙々とした働きぶりを褒められたこともあった。


 はっと、我に返ると、あたりはすでに暗くなり始めている。

 足早に通り過ぎる人々の間に、ローザのような花かごを抱えた娘達がいた。

 彼女達が持っているのは、日持ちのしそうなラベンダーなどのドライフラワーで、身につけているスカーフも妙に華やかだ。


 春も売る花売り娘なのだと悟り、ローザは怯む。


 ローザの近くにいた花売り娘が男性に声をかけられていた。二言三言言葉を交わすと、花売り娘は男性の腕に抱きつくように腕を絡めて去って行く。


 ああして、客をとるのだ。


 身がすくんだローザだったが、震える足をしっして、立ちあがった。

 ミーシアの言う通り、ローザには後がない。

 花売りの収入は微微たるもので、籠の花が売れなければ、今夜も食事ぬきになってしまう。


 だが、ローザの決意をくじくように、どんよりとした空からぽつぽつと雨が落ち、たちまち本降りになる。ルーフェン名物のにわか雨だ。

 雨宿りの場所を探してローザは周囲を見渡したが、足早に移動する人々に押されて転んでしまう。籠に入れていた白薔薇が地面に散らばった。

 あ、と思う間もなく、通行人に踏みにじられる。

 もう、売り物にはならないだろう。


 雨が冷たい。濡れて帰ると、いつも母は温かいスープを用意して待ってくれていた。

 けれどもう家に帰っても母はいない。

 形見すらない今は、母を感じられるのはあの部屋しかローザには残っていないのだ。

 母との思い出を手放したくないだけなのに、もう、諦めるしかないのだろうか。


 白薔薇を拾い集めていたローザは、目尻に滲んだ涙を拭った。


「醜いブラウニーでも、必要としてくれる方が、いるかも、しれませんし」


 ──そんな人、居るわけがない。


 すでに心が諦めに染まっていることには気付かないふりをして、ローザは最後の白薔薇に手を伸ばす。


 だが、白薔薇は骨張った男の手に拾われた。


 面食らったローザは顔を上げて、ぽかんとする。

 白薔薇を拾ったのは、まるでおとぎばなしの妖精のように美しい青年だった。


 二十代半ばだとは思うが、あまりに美しいせいで、周囲から浮き上がってすら見える。


 まず目が吸い寄せられたのは、銀細工のように繊細で艶やかな髪だ。

 男性としては長めの髪はうなじで束ねられており、彼が動くたびにガス灯の光できらきらと輝いている。

 銀の髪に彩られているのは、彫りの深い面立ちだ。一見女性にも思えるほど整っているが、首筋に男らしさを感じさせる。夢のように美しいが、切れ長の灰の瞳には、一瞬ぞくりとするような艶がある。


 フロックコートにウエストコート、首元にしゃれた風にタイを締めて、足にぴったりと沿ったズボンを穿いているから、男性だ。

 しかし、性別を超越した人を引きつける美しさがある人だった。


 傘を差しているため雨に濡れた様子はなく、現実味のなさがいっそう際立っている。

 ローザがぼうぜんと見上げると、青年もまたローザを見つめている。


 切れ長の銀灰色の瞳が、なぜか強い興味に染まった。

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