愛しき君への最期の手向け

「少し出かけてくる」


碧がそう言って家を開けた時、僕は1人になる。いつもはテレビを見たり本を読んだりして暇を潰すのだが、今日はどれもやる気にならない。そこで僕は、家の中を掃除しようと思ったのだ。もちろんいつもは碧が掃除していてホコリひとつない綺麗な家だが、探せばどこかしら汚れくらいあるはずだ。だがリビング、キッチン、廊下、トイレどれもピカピカで塵ひとつない。まぁ散々僕の部屋を小汚いと言うくらいだから綺麗好きなんだろうと思っていたが。だがあと一つだけ、見ていない部屋がある。碧の部屋だ。人の部屋を勝手に見るなんていくらなんでもプライバシーの侵害だろう。でも、人はダメと言われれば余計に気になってしまうものだ。


「少しだけ覗いてすぐ戻るから…」


手汗がジワリと滲んだ手を服の裾に擦りつけて拭うと、碧の部屋のドアノブに手をかけてゆっくり回した。カチリと音がして静かに開いた扉の先は、他の部屋と同じく酷く殺風景だった。ベッド、机と椅子しか置いてない。


「まぁ、そんなもんだよなぁ」


ちょっとした落胆と共に部屋を見回すと、机の上にノートが1冊置いてあった。表紙は綺麗なのでおろしたてのようだ。僕は糸に引かれるようにそのノートを手に取り、開いてしまった。人のものだとかそんなことはなぜか頭に浮かばなくて、花に惹かれる蜂のように吸い寄せられてしまったのだ。


窓からさす光が、白い紙に反射して眩しい。そこには細く整った文字が綴られていた。日付は僕が碧の家に来た日から始まっていて、思わず息を飲んだ。僕に対しての文句でも書かれているのだろうか?続きを読むのがこわい。ノートを閉じてしまおうと考えたが、ここまで来て読まずに戻るなんて出来ない。僕はゆっくりと文字を辿り始めた。


──────────────


〇月〇日


今日、僕の家に碧を連れてきた。ずっとこの時を望んでいた。傷だらけの翔はすごく(ここからは文字がぐしゃぐしゃになっていた。)


〇月〇日


今日は翔を殴ってしまった。随分と泣きわめくものだから、うるさくてついつい。気をつけなければ。


──────────


おかしい。僕は碧の家に来てから殴られたことなんてない。全身に嫌な汗がじっとりと滲む。違和感を感じながらパラパラと読み進めていくと、日記には僕に暴力を振るった、食事を与えなかったなど虐待をしているようなことが書かれていた。


そんなわけない。体の傷は自分で付けてしまったものだし、食事だって碧は用意してくれたのに食べなかったのは僕だ。なんなんだこの嘘だらけの日記は?分からない、おかしい、こわい!


「あーあ、勝手に部屋に入るなんて酷いじゃないか」


喉がヒュっと鳴った。日記に集中しすぎて、時間を忘れてしまい碧が帰ってきたのに気が付かなかったのだ。止まっていた心臓がいきなり動き出したかのようにドクドク動き出した。体がカタカタと震える。


振り向きたくない。この日記はなんなのか、どうしてこんな嘘を書いているのか、たくさん聞きたいことがあるのに、僕の体は、口は動かない。


「それ、読んじゃったんだね」


碧の声からは感情がうかがえない。いつも通りの声すぎて、逆に不気味だ。


「別に怒ってないよ。…見られちゃったからには話さなくちゃねぇ」


諦めたように、碧はそう言った。僕はそれを聞いた瞬間、無性に碧の顔が見たくなった。振り向こうとした僕の頭を碧はグッと、でも痛くない力で押さえた。そしてその体勢のまま、そっと話し始めた。


「僕はね、自分のことが嫌いだったんだ。この世の何よりも、誰よりも。幼い頃からずっと死んでしまいたい、消えてしまいたいって思ってた。」


急に何故そんな話を?でも知らなかった、小さい頃から一緒にいたけど碧は頭も容姿も良くて、自己嫌悪なんてものとは縁がなさそうなのに。僕は息を詰めて話に耳を傾けた。


「そんなとき、翔に出会ったんだ。口下手で、いつも独りで寂しそうだった君に。僕は運命だと思ったんだ!だから何度も君に話しかけて、一緒にいようとした。」


碧はそこで言葉を切ると、細く震えた息を吐いた。僕と碧の呼吸音しか響かない部屋に、小石をひとつ落とすように碧の言葉が落ちる。


「だって、そうすれば僕は自分のことを愛せると思ったから。」


自分のことを愛せる…?どういうことなんだ?僕の頭の中は疑問符でいっぱいになった。碧の自己嫌悪と僕、なんの関係があるというのだろう?


「君の寂しさを埋められれば、僕はいい人になれると思ったんだ。そしたら、僕は僕を愛せるんじゃないかって。」


何を言っているんだ?脳が情報を上手く処理出来なくてショートしそうになる。当時の僕は碧と出会うまでずっとひとりぼっちだった。幼い僕は寂しかったが、碧に出会ってそれは確かに埋められていた。憎まれ口を叩いてしまうが、僕はずっと碧に感謝していた。でもそれが、打算のあるものだったということなのか…?碧の声はどんどん熱を帯びるように感情的になってきた。


「でも、段々足りなくなっていったんだ。最初はいい気分になれたけど、段々これだけじゃ僕はいい人になりきれない、もっとって。そんなある日、君が転んで怪我をしたんだ。覚えてるかな?道に急に飛び出してきた蛙に驚いて転んだこと。結構酷く擦りむいて、大泣きしてたね。それを僕が手当した。その時僕は今までになかったくらい、とっても満たされたんだ。これだと思ったんだ!その日から、僕は君に暴力を振るって手当をするようになったんだ。」


体が震えて息が苦しい。そんな理由で僕は暴力を振るわれていたのか。痛くても苦しくても、僕はずっと我慢してきた。幼い頃から碧しか僕にはいなかったし、抵抗して碧が離れていってしまうのが怖かった。


碧の右手が、僕の頭から首へ、首から肩、腕と撫でるように滑り降りて、僕の手を握る。


「今だってそう。君を僕の家に連れてきて世話をすることで、僕の欲を満たしてる。」


痛いくらいに手を握られて、思わず身動ぎをした。


僕のほとんどは碧から出来ているから、今まで積み上げてきた思い出、碧への気持ちと一緒に僕という存在まで崩れてしまいそうだ。怖い、僕はこの話を聞いてどうなってしまうんだろう。今までのように碧と一緒にいられるのだろうか?依存しきってしまっている僕には、碧がいない未来が浮かばなかった。


「でも、また、あの時と同じなんだ。足りない、もっと欲しいんだ。」


何だか碧の様子がおかしい。僕の手を握る碧の手から震えが伝わってくる。我慢しているような、苦しげな声でそう言うと、急に僕の手を離した。僕が混乱していると、後ろから何かを取り出すような音がした。


「僕は僕の欲求を満たしたいんだ。ごめんね、必要なものは全部用意しておいたから」


ひたりと、僕の肩に包丁が添えられた。肩を切って腕を使えなくさせるつもりなのだろうか?包丁には碧の顔が反射して写っている。悲しげに微笑んだ碧は綺麗だったが、僕はその顔を見て激しい怒りが湧いた。僕はずっと利用されていたんだ!!!碧は自分の欲を満たすためだけに、こんなに長い間僕の気持ちを弄んだんだ。


恐怖を怒りが塗り替えて、僕はもう止まれなかった。包丁をもった碧の手を掴んで押しやると、碧から離れようとめちゃくちゃに体をよじって暴れた。油断していたのか、その瞬間碧の手から包丁が滑り落ちた。頭に血が上っていた僕は、その包丁を引っつかみ勢いのままそれを碧の胸に突き刺した。肉を突き抜け骨を掠める手応えが伝わってくる。柔らかいような硬いような、ブチブチゴリッとした感触。生暖かいものが体に飛んできた。そしてあの事故を見た日と同じ、生臭い鉄の香りがブワリと部屋に広がる。アドレナリンがドバドバと出て、興奮と血の臭いで頭がクラクラする。気分がいいようで、今にも吐きそうなくらい気持ちが悪い。倒れている碧の体からは包丁が生えていて、なんだか可笑しかった。


「あは、ははは…」


思わず笑いが出た。僕の体には何も刺さっていないのに胸と腹が掻き回されてるみたいな感覚になる。笑うと同時に吐いてしまいそうだ。


僕が笑っても、碧は動かない。血溜まりがどんどん広がって、碧の体が赤く染まっていく。僕はビチャリと音を立てて碧の横にふらりと座り込んで顔を覗き込んだ。碧は生きていた。弱く呼吸をしていて、胸が少し動いている。今にも閉じてしまいそうな目が、僕を見ていた。碧はなぜか少し微笑んでいて、幸せそうだ。碧の手がゆっくり上がり、あの時のように僕の頬に飛んだ血を拭うように撫でたが自身の血で汚れた手ではその赤色が広がるだけだ。その時にはもう僕の頭は冷えきっていて、その手を振り払う気持ちなど微塵も無かった。僕の頬を撫でていた手が軽い音を立てて床に落ちる。目は軽く閉じられていて、まるで眠っているようだ。


碧が死んだ。


僕はやってしまったと思った。怒りに突き動かされて、他のことは何も考えられなかった。たとえそれが打算でも、碧は僕を救ってくれた。ひとりぼっちだった僕に、心を病んで生きていけなくなった僕に手を伸ばしてくれたのはどう足掻いても碧で。自分の手でその人を殺してしまった。


僕も一緒に死んでしまおうか?いや駄目だ、人殺しをしてしまった僕は罰を受けなくてはいけない。楽になろうなんて思ってはいけないのだ。


僕は警察に連絡した。


「もしもし、突然すみません。…あの、僕人殺しをしてしまいました」


今いる場所、状況を伝えて電話を切った。

ゆっくり深呼吸をすると、血生臭さが肺いっぱいに広がって思わずむせた。


僕は警察が来るまで、碧の横から動かずにずっと座り込んでいた。


涙は出なかった。

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