血なまぐさい救いの手

あれから僕は引きこもっていた。外に出て人に会うのが怖いのだ。あの人もこの人もその人も、中身にはあのグロテスクなブヨブヨとしたナニカが詰まっているんだと考えると吐きそうになる。さっきまで僕と同じように息をして、考えて、動いていた人が潰れたトマトみたいになるあの光景が忘れられない。


だがそろそろ限界のようだ。ここ数日、まともに食事も喉を通らなくて水しか腹に入れていない上に、悪夢のせいでまともに眠ることすら出来なかった。悪夢を見て飛び起きると、パニックになってしまい体を壁などに叩きつけたり、引っ掻いたりしてしまって体もボロボロで見るに堪えない。夏なのに窓も開けず締め切った部屋の中は、じっとりとした暑さで僕をなぶってくる。


このままでは死ぬだろう。


ドロドロに溶けて使い物にならないこの頭でも分かる。そして、そんな頭からある言葉がこぼれ落ちてくるのだ。


死んでもいいかもしれない。


自分を産んでくれた親とは仲が悪いし、碧以外に僕に構う人はいない。碧は僕が死んでも飄々としていそうだし、僕がこのまま死んでも困る人なんていないだろう。


あぁ、そう言えば碧はどうしてるんだろう。きっとあいつは僕みたいにトラウマになんてならずに図太く生きてるんだろうな。あの日、僕は初めて碧のことを本気で怖いと思った。どんなに殴られても蹴られても、今まで碧のことを本気で怖いなんて思ったことがなかった。碧のせいだから当たり前と言えば当たり前だが、怪我をすれば1つも見逃すことがなく丁寧に手当をしてくれる。僕がどんなに子供じみた「お前なんて嫌い」などのツンケンな言葉を放っても、無視して「今日はいい天気だなぁ」なんてまったく関係ないことを気にしてるようなどこかズレたところが一緒にいて気楽で、心のどこかでは好きで。でも、あれはいくらなんでも異常だ。あの場にいた人誰もが焦り震えていたのに、碧だけが普通で、まるでそこら辺で虫が1匹死んでたってくらいに気にも止めてなくて。


あれ?おかしいな。僕はそれが、それがすごく───。


そこまで考えた瞬間、ピンポーンと呑気なインターホンの音が鳴った。続いてドアを開けようとする音が聞こえたけど、今はしっかり鍵を掛けているので開くわけが無い。心臓がパンクしそうなくらいドクドクしていて、吐きそうだ。


「あれ、今日は鍵かけてるのか」


くぐもってて小さいけど、確かに聞こえた。扉の先にいるのは碧だ。これが僕のいつもの日常だった。学校終わりや休日に碧が家に訪ねてきて、中身のないてきとうな話をしたり、時には殴られたりして手当されてたり。今思えばちょっとどこかおかしいけど、僕の日常だったのに。それはきっともう帰ってこない。碧がこわい、今顔を合わせたら僕はどんなことをしてしまうか分からない。もしかしたら碧を見た瞬間吐いてしまうかもしれない。嫌だ、出たくない。会いたくない。でも体はゆっくり、足を引きずるようにしてドアの近くへ歩いていく。


「ねぇ、いるんだろう?開けてくれよ」


インターホンと一緒に、ドアノブがガチャガチャと動いているのが見える。思わずひっと声が出た。嫌な汗が出てきて、呼吸が苦しい。1歩1歩が重くて、今にも倒れそうだ。それでも、ドアの真ん前にたどり着いてしまう。


「酷いな、無視するなんて。しばらく学校にも来てないし、これでも僕寂しかったんだぞ?」


いつも通りだ。いつもとなんら違いのない碧の声。もしかしたら、今までのように普通に接することが出来るかもしれない。ほんの少しの希望と共に、僕の手はゆっくりと腕が上がり鍵を開ける。


聞きなれた悲鳴を上げてドアは開いた。数日ぶりの日光が目を焼いて、思わず呻き声が漏れた。


「やぁ、なんですぐ開けてくれないのさ」


そう言われて頭を軽く叩かれた。碧はいつもと変わらない笑顔でそこに立っていた。僕はそれがほっとするようで、でも訳が分からなくて不安になった。


「碧…なんでここに…」


「ん?なんでって、友達のところに遊びに来るのに理由がいるのかい?」


いつも通りの光景だ。碧のことは見てもあの肉塊が頭に浮かぶことなく、いつもの碧のままだった。むしろ救いの手が差し伸べられたような安心感すらあった。胸が苦しくて、なにかが溢れだしそうな気持ちになる。年甲斐もなく涙が零れてしゃくりあげてしまった。


「碧、あお、僕…ずっと怖くて…」


今まで碧に助けを求めたことなんてなかった。なんなら逆に碧から逃げようとしていた。でも恐怖と疲労とが重なって上手く働かない今の頭では、もう僕には碧しかいないように思ってしまった。


「うんうん、それで?翔は僕にどうして欲しいの?」


その質問に、思わず体がビクリとした。どうして欲しいかなんて、いきなり聞かれても分からない。思わず伏せていた顔を上げて碧を見ると、口は笑っているのに目は笑っていなかった。その目はまるで、僕に言って欲しいことがあるかのように見えた。これでいいのかは分からない。でも僕は、僕が言いたいことを碧に伝えたい。泣きすぎてしゃくりあげてしまう喉を無理やり使い、たった4文字の言葉を吐く。


「助けて」


碧の目がすぅっと細められ、待ってましたと言わんばかりに嬉しそうに笑う。


「いいよ。ほらおいで」


あの時と同じように、僕は碧の手に引き上げられた。

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