異常への第1歩

あれから数日、僕は平和な日常を謳歌していた、今この瞬間までは。


あいつはいつものように僕の部屋に押しかけるなり、笑顔でただ一言。


「アイス買いに行くぞ!」


こんな暑い中、わざわざ外へ出るのもだるい。インドアな僕ではなおさらだ。


「えー…」


渋っていると、碧はその笑顔を崩さないまま拳を振り上げた。断れば殴るぞという脅しだろうか?本気なのか冗談なのかはわかったものではない。


「しょーがないな…行くからその手おろせよ」


決して殴られるのが怖かったからではない断ったら後が面倒くさそうだからだ、なんて自分に言い訳をしながら僕は財布を持って立ち上がるのだった。


蝉がうるさく鳴いている。






あいつはバニラ、僕はイチゴの棒付きアイスを買った。別に碧も僕もおしゃべりなタイプではないので、帰り道はお互い黙ってアイスを食べていた。沈黙が流れているが気まずくはなく、碧は機嫌良さげにアイスを舐めている。白いアイスに這わせられている赤い舌がなんとも生々しくて、なんとも言えない気分になった僕はそっと目を逸らした。


その時だった。


激しい衝突音がした。

蝉の鳴き声、暑さで歪む景色、排気ガスの匂い。そんな日常の中に異物が1つ。何かが転がってきて、目の前にはどす黒い赤が飛び散り広がる。グシャリとアニメや映画でしか聞かないような、何かがひしゃげて潰れような音が1度だけ響いた。鼻を突く生臭くて鉄っぽい匂いの中に、ほんの少し柔軟剤のような甘い匂いがした気がする。


「え」


誰かの絹を割くような悲鳴が聞こえたが、まるで薄い膜を挟んでいるように遠くのように感じた。


これはなんだろう。手のようなものがある、足のようなものがある、頭がある。これは人間だろうか?でもおかしい。人間の手足はこんなによじれて変な方向は向いていないし、頭からこんな真っ赤な液体とぶよぶよした何かは出ていない。なんだ、なんなんだこれは?分からない分からない。体が震えて息が苦しい。頬を嫌な汗が流れる。それを拭おうとアイスを持っていない方の手で擦ると、べっとりと汗じゃない赤いものがついていた。


「あーあ、こんな汚れてしまって」


横から白いハンカチが僕の頬を撫でた。ハッとなって目を向けると、碧がしょーがないなとでも言いたげな顔で僕の頬をハンカチで拭っていた。


そんな場合じゃないだろ。目の前で人が死んだのに、なんでそんな平然としてるんだ?驚くなり焦るなりあるだろ。僕の頬を拭ってる暇があるなら、警察や救急車に連絡するとかあるだろ。なんでなんでなんで、気持ち悪い気持ち悪い。こわいこわい。この目の前の死体が、身近に起きた死が。


そしてなにより、それに目もくれずに平然と僕に付いた血を気にしている碧がこわい。


そう思った瞬間、一気に吐き気が込み上げてきた。その場にうずくまって胃の中のものを全部吐き出す。生臭い匂い血の中に、吐いたせいで酸っぱい匂いが混ざってまた気持ち悪さが増してくる。


吐き終わって顔を上げると、目の前の死体が見えた。血で濡れて重たく見える長い髪、赤く染っても見覚えのある女子制服。同じ高校の人だ。


遠くで救急車のサイレンの音が聞こえてきた。誰かが呼んだのだろう。


「えいっ」


鈍い音が鳴って、脳天が痛くなる。碧に叩かれたようだが、容赦がない。だがその痛みのおかげで、呆然としていた思考が現実に戻ってくる。


「行こう、ここは暑いからな。」


僕を引き上げた碧の手は、まるで死体みたいにひんやり冷たい。持っていたアイスは溶けて地面に落ちてグズグズになり潰れていた。


蝉がうるさく泣いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る