11. 旅立ち
トールは、呆然としていた。完全な記憶があたまのなかにあった。それは、ふいに、そこに置かれたような無造作さで舞いもどってきていた。
――ぼくは、ペケに餌をやりに行くとちゅうで
――トラックにはねられて
――次の瞬間、いたんだ。鶴見駅のロータリーのところに
――飛んだんだ
――なのに……
目の前にトラックが迫っていた。ゆらぎながら、それでも、さらに速度をあげてぐんぐん近づいてくる。
エミが無言でトールにしがみつく。
トールは顔に風を感じた。たしかな圧迫感だ。そして、運転席の男の顔を見た。
驚きと恐怖に完全に弛緩している。
その双眸は、たしかにトールを、自転車に乗っているトールを見ていた。
口をひらいた。叫んでいる。
トールは、自転車を横に倒した。
しがみついているエミごと、雨に濡れたアスファルトに叩きつけられる。
トラックは、トールたちが乗っていた自転車をバンパーにぶつけ、そのまま弾きとばした。
そして、轟音とともに走りぬけていく。
「逃げるわ!」
すばやくからだを起こしたエミは、走りさるトラックの車体を食いいるように見つめている。と、その表情が驚きにたちまち変化する。
「あ……」
トラックが、靄のなかに呑みこまれるようにかき消えたのだ。
しのびよる気配さえ見せないで、いつの間にか靄があたりに立ちこめていたのだ。
だが、道の先のほうには、透が向かっていた小学校の建物が見える。そちらのほうは靄に閉ざされてはいない。
雨はしとしと降りつづいている。
「わたしたち……この<世界>に入ったんだわ……」
エミがつぶやく。
トールは先に立ちあがっていた。
透を見ていた。
少年は、路肩に寝そべっていた。道の両方とも工場の敷地で、高い塀がつづいている。お盆期間だからか、工場は稼動しておらず、あたりはひっそりとしている。
透は仰向けに倒れており、手足が奇妙な方向に投げだされていた。
くちから泡のような血がでているようだ。血はほかのところからも出ている。路面の水たまりに赤いインクが混ざっていくようだ。
――どうして、ここに死体があるんだ。
――ぼくはここにいるのに。
――なぜ
トールは、おずおずと透に近づいた。
エミもそばにいる。
透はまぶたをとじていた。
トールと同じ顔だ。陽にもよく焼けている。なぜならば、一週間前に、千葉の海水浴場で遊んだからだ。友達と何度かプールにも行っている。すくなくとも、トールのときはそうだった。透もきっと同じだろう。
でも――すべてが同じなわけではない。
「……ここは、ぼくの<世界>じゃない」
つとめて平静にトールは言った。ほんとうは叫びだしたい。その衝動をなんとか押さえつけていた。
「ここで、ぼくが死んでいたら、ぼくはここにはいないよ。幽霊じゃないかぎりは、だけど。でも、ぼくは覚えているんだ。はねられた瞬間、まわり光につつまれて、あのトラックが見えた。急停車して、トラックから運転手が降りて、あちこち見まわしていた。ぼくがいなくなったのを不思議がっていたんだ――たぶん」
エミがうなずく。
「似ているけど、べつの世界なんだ。ペケに餌をやりにいくとちゅうではねられたのは一緒だけど、ぼくは異世界にはね飛ばされ、そしてこの子は……」
透はびくりともしない。トールはぞっとした。自分が死んでいる。目の前でトラックにはねられて。
――そうだ
トールのあたまのなかに、その考えがうかんだ。
――この子の死体を靄のなかに投げこんでしまえば
――ぼくがこの世界での透になってしまえば
――だれにもわからないはずだ。だって、ぼくも透なんだから
――そうしたら、またもどれる。うちにもどれる。
――おかあさん、おとうさん……
エミと目があった。エミはおびえたような表情をうかべていた。トールは、じぶんの顔が引きつっていたことをようやく自覚した。
「ぼくは……」
トールはその考えをくちにしかけた。エミは反対するだろうか。でも、透がこのまま死んでしまったら、この世界のおかあさんを泣かせることになってしまうじゃないか。元気な顔を見せてあげたら、どんなによろこんでくれるだろう……
「う……」
声がきこえた。
弾かれたようにトールは足もとを見た。すでにエミは膝をついて、のぞきこんでいる。
少年のからだが痙攣して、こまかな血の泡をさらに吐きだした。
「しっかり! しっかりして!」
エミは、透の耳元で叫んでいた。瀕死の重傷であっても、聴覚だけは機能していることが多い、ということはトールも保健の時間に習ったことがあったように思う。
透も、エミの声に反応した。
かすかにだが、まぶたをひらいた。目は、しかし、焦点をむすんでいないようだ。
「生きてるわ!」
エミがトールを振りあおいだ。
その顔にトールは愕然とした。
老婆の顔が脳裏にうかんだ。
エミの顔が変形したような気がした。老婆がそうであったように、エミの顔も、くちがとがり、頬のあたりにトゲが浮いてきたような――
衝動がつきあげる。エミを押しのけ、瀕死の透につかみかかる。
なにをするの!?
やめて!
トールくん、いけない!
エミが金切り声をあげている。その声も、スローモーションがかかり、いびつにゆがんでいく。まるで海獣のおめきのようだ。
死にかけの透は、かるく持ちあげて落とすだけでいい。後頭部をアスファルトに打ちつけて、折れた肋骨が肺にさらに深く突きささって――もしかしたら心臓を傷つけてくれるかもしれない――そしたら死ぬだろう。
透が死ねば、トールが身代わりになるしかない。それしか、たったひとりの子供をうしなうことなるおかあさんを助ける道はないのだ。おとうさんの将来の楽しみ――成長した息子と晩酌をともにする――をかなえてあげる道はないのだ。
それしか――
「おねがい……たすけてあげて……」
おかあさんが泣いている。涙があふれて、頬をつたっている。
気がつくと、トールは両の拳を握りしめて立ちすくんでいた。
エミがトールの膝あたりにすがるようにしている。透の血か、エミのニットセーターの袖口には赤いしみがついていた。
エミの顔は怪物のようではなかった。むしろ、おかあさんの顔に似ていた。
「公衆電話は、学校のそばにある」
トールは言った。
そして、その時には走りだしていた。
――方法はある。透が助かればいい。そうすれば、この<世界>のおかあさんは息子を失わずにすむ。
学校の裏手にちいさな酒屋がある。お盆休み中の貼り紙が貼ってある。その店の前に公衆電話があった。119番はボタンを押せばかけられる。
トールは口早に事故の場所をつげた。自分のことを訊かれたが、同じ小学校の生徒であるとこたえた。まったくの嘘ではない。
そして、つぎに110番にかけた。ひき逃げ犯をすぐに手配してもらわなければならない。
追いかけてきたエミが、トラックのナンバーを覚えていた。多少あやふやな数字はあったが、自転車をバンパーにぶつけた跡などもあるはずだから、手がかりとしては十分だろう。
「エミ、十円持ってる?」
矢継ぎ早の電話で、やや安堵したトールは、エミに無心をした。ちょっとおどろいた様子のエミだったが、すぐに察したのか、ちいさな小銭入れを取りだして、十円玉を数枚トールに渡そうとした。
「一枚でいいよ。市内通話だから」
トールは一枚だけを取り、電話機に投入した。
押しなれた番号をプッシュする。
呼び出し音が何度か鳴り、その声が聞こえた。
「はい、深沢です」
「……あの、透くんのおかあさんですか?」
「ええ、そうですけど……」
「あの、透くんが、学校のちかくで事故に遭ったんです。トラックにはねられて」
「えっ」
受話器のむこうの声が緊張した。
「でっ、でも、助かると思います。救急車とかも呼んだから」
「あなた、透ね」
声が変化した。すべてを見透かしたかのような、それでいて憤りを秘めた声音になる。
「たちの悪いいたずらはやめなさい。ほんとに、心臓がとまるかと思ったじゃない」
トールはさらに説明をしようとして――やめた。
「……ごめんなさい」
あやまった。熱いものがこみあげてくる。
「ごめんなさい、おかあさん」
「いいのよ。はやくペケにごはんをあげて、もどってきなさい。冷や麦をつくって待っているから」
「うん……帰る」
視界が涙でくもる。嗚咽が衝きあげそうになった。
エミが手を握ってくれていた。強く。あたたかく。それが、いまのトールにとって、唯一たしかなものだった。
「じゃ、元気で、おかあさん」
「なによ、いったい……へんな子ねえ」
なおもあきれつづけている声を途中で断ち切って、受話器をおいた。
「さよなら……さよなら、おかあさん……」
その言葉が押しだされるとともに、涙があふれだした。
エミが抱いてくれている。その胸にとりすがって、トールは泣いた。
靄の壁の前に立ち、トールはわずかに緊張した。
このむこうがに国道十五号線ぞいの<世界>がある保証はない。
まったく道の世界かもしれない。いや、その可能性のほうが高い。
背後に近づいてくる救急車のサイレンを聞きながら、トールはエミの手をしっかりと握りしめた。
「行こう」
「うん」
トールは<靄>のなかに一歩、踏みこんだ。
行く手には真夏の国道十五号線が広がっているだろうか?
インラインスケートで疾走する仲間たちの姿があるだろうか?
それとも――
それでも、握ったこの手を離すまい――そう、トールは思った。
THE END
次元漂流ROUTE-15 琴鳴 @kotonarix
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