10. 異界



「たいへんだよ、トール!」


 サトシは興奮していた。狂騒状態といっていい。


 エミがいっしょにいることにも気がつかないらしい。みじかい腕を振りまわしていた。


「なっ、なんだよっ、もうっ」


 心臓が体内を暴れくるい、視界が猛烈にせまくなる。サトシのあわてふためいた表情が異常に大きく見えた。


「いきなりはいるなよ。びっくりするだろ」


 トールはベッドの上にすわり、背後にエミを隠すようにしながら訊いた。


 サトシの声は裏返っていた。


「かっ、<狩り場>が現われたんだ!」


「<狩り>か……わかったよ、おれも行くよ」


 体調は、ほぼもどっている。<狩り>となると人手がいる。いつまでも病人の顔をしているわけにもいかないだろう。とにかく今は、背後のエミが気になる。早く、サトシを部屋の外に出してしまわねば……


「すぐ行くよ。下で待っててくれよ」


「ちがうんだよ! そこらじゅうが<狩り場>になっちゃったんだ!」


 サトシは腕をおおきくひろげた。


「あっちも、こっちも、店だけじゃなくて、道路も、部屋も――ここも、ほらっ!」


 部屋の中を指差しながらさけぶ。トールは、サトシの精神になにかしらの異常が起きたのではないかとひやりとした。


 エミが息をのむ音が聞こえた。


 それにつられてトールも、サトシの指差す方向を見た。


「あっ!?」


 かすかに影がうごめいているのが見えた。


 黒い人影――水に映った影のようにゆらめいている。


 よく見ると、顔だちもわかる。トールより年嵩の少年だ。


 部屋の内装も、ゆらめいている。本棚にはコミックスや文庫本が乱雑につめられ、壁にはレーシングカーのポスターが貼られている。ルノワールの絵だけが静止しているが、ほかのものは、まるで水面にうつる影のようにたよりない。


少年は、机のうえに置いてあった本を手にとると、トールのほうを見た。その視線は、トールをつきぬけている。


 ベッドにむかって一歩ふみだす。その足がカーペットにつく前に、少年の姿はかき消えた。


「いったい……」


「べつの世界と重なりあっているんだわ」


 茫然とするトールの脇でエミが言った。いつのまにか、着衣の乱れを直して、ベッドの横に立っている。目許には緊張した雰囲気がみなぎっている。


「べつの世界?」


「この宇宙は、ページがかさなりあった本のようなものだって言ったでしょ。たぶん、いま、わたしたちのいる世界は、そのとなりあったたくさんの世界の狭間を通り抜けていっているんだわ」


「なぜ、そんなことが……」


 エミにはわかるのか?


「ここだけじゃないんだ。町中こんな感じなんだ。それで、みんな大騒ぎしてるよ」


 サトシの顔は興奮でひきつっていた。エミの冷静な分析も、サトシの耳には入らなかったのだろう。入っていたとしても、理解はできなかったろうが。


「トール……」


エミがトールの手をまさぐり、握りしめた。


「トールくんの家……近くなんでしょ?」


 エミの眼は真剣だ。


「でも……ぼくの家は、靄にのまれていて……」


「学校は? よく行っていた公園は?」


「学校はあるけど……」


「いってみましょう」


 有無をいわせぬ勢いだ。トールの手首をつかんで、引っ張る。


「ど、どうして」


 ためらうトールの耳元にエミは唇をよせて、ささやいた。


 ――あなたは、じぶんの世界にもどれるかもしれない。


 トールは言葉をうしなった。サトシを見やる。どうやら、ほかのメンバーにも伝えに行くべく、部屋を出ようとしている。エミの言葉を聞きつけた様子はない。


「急ぎましょう。チャンスはそんなにないわ」


 ためらうトールをうながすように、エミは言った。


 トールの足はふらついた。まるで夢のなかのできごとのように、自分の肉体さえもとらえどころがない。


 前を急ぐ、エミだけが現実的だ。


 まわりの光景が絶えずゆがんでいる。人影がみえる。このマンションで生活していた人々。ひとつの家族ではないようだ。時間が、空間が、多重的に存在しているのだ。似ているけれども、すこしずつちがう家族。みんな、おぼろな幻影のように、うごめいている。


 この世界に住みついている<子供たち>はあちこちで奇声をはなっていた。暴れまわっている。


「あの子たちは、この世界にきてかなり時間が経っているから……彼らの世界が偶然現れる確率はとても低いわ」


 エミがあわれみを含ませた声でつぶやく。


「じゃあ、ぼくが……まえにいた世界と、みんなの世界はちがうの?」


 それを照合しようにも、トール以外の子供たちは、以前いた世界の記憶を持っていない。


「そう」


 エミはうなずく。


「同じのように思えても、微妙にどこかがちがっている世界かもしれないわ。もしかして、まったく同じ世界でも、時代がちがっていれば、別世界も同然よ」


 エレベータで一階におりる。


 ドアが開いたとき、大きな荷物を持った大学生ふうの男にぶつかりそうになって、トールはからだをひねった。むろん、当たるはずはない。


「すごいわ」


 エミは笑った。興奮している。


「こんなにいろいろな世界に接触するなんて。この世界のかたちが、ジクソーパズルのかけらみたいだからかしら」


 駐輪場に自転車は一台だけしか残っていなかった。みんな、思い思いの場所に遊びに行ったのだろう。あるいは、突発的な<狩り>がはじまったのかもしれない。


 トールはエミを後ろにのせて、ペダルを踏んだ。


 国道の様相もかわっていた。


 陽炎のようにゆらめきながら、車が走っている。


 渋滞している車の列を踏みしだくように、大型のトレーラーが走りぬける。


 錯綜した光景だ。複数の光景が同時に重なっている。夏だったり、夕方だったり、雨だったりする。季節も時間も天気もバラバラだ。


「学校は?」


 背中に密着したあたたかいからだが訊いてくる。


「鶴見川のこっちがわ。このへんから、通学路だったんだ」


 トールは答えて、そして、その交差点を見て、記憶が灼熱するのを――


 ――まあ、第一京浜はいいわ。歩道もしっかりあるし。横道のほうがあぶないのよ。トラックが、ぬけ道だと思って飛ばすから――


 すぐ耳元でなつかしい声が聞こえた。


「おかあさん……」


「なに?」


 びっくりしたのか、エミが訊いてくる。


「あ……あ……」


 トールは見ていた。


 とおるを見ていた。


 透という名の小学生の姿を見ていた。


「トールくんがいる……」


 エミもつぶやいた。


 白いTシャツを着た少年だ。右手に透明なビニール傘、左手にコンビニ袋を持っている。走っている足もとに水しぶきがたっている。雨なのだ。


「ペケのところに行くんだ。当番だから。ペケが待っているから……」


 トールはつぶやいていた。


「あの子を追って!」


 エミが叱咤した。トールの胴を強く抱く。


「はやく!」


「ああ……」


 せかされてトールはペダルを踏む足に力を入れた。


 だが、なにかしら、夢をみているような気がする。無人の国道十五号線に漂流して、強盗まがいのことをするという悪い夢――をみているような気がする。


 ほんとうのじぶんは、ペケにえさをやりに行くところじゃないのか……


 透は、コンビニエンスストアの袋が手に食いこむ痛みを感じながら、走っていた。中身はドッグフードのたぐい――缶入りのものと、犬用チューイングガム、そして牛乳――ペケの好物ばかりだ。


 気が急いていた。ほんとうなら、朝に行っておくべきだった。ふだんのペケの食事時間は始業前なのだ。それが、夏休み中の怠惰な生活がたたって、家を出るのが昼ちかくになってしまった。きっと、おなかをすかしている、と思った。


 だから、ふだんはつかわない横道に入った。国道添いに行くよりも、いくぶん距離がみじかい。渋滞で停まっている車の列をしりめに、透は車線もひかれていないせまい道にはいった。


 半年前に買ってもらったスポーツシューズに水がしむ。そろそろ買い替えてもらおうか、とも思った。気に入ってはいるが、なにぶんきゅうくつになりかけている。


 バシャッ。


 バシャッ。


 水をはねる。


 冷たいが、蒸し暑いなかを雨に適度に濡れるのは快かった。


 もうすぐ学校の裏手が見えてくるはずだ。


 トールは四つ角の直前で顔をあげた。


 トラックの顔が見えた。


 顔。目がふたつあって、口があって、そして叫んでいる。


 ブレーキ音。


 衝撃。


 そして。


 視界だけが、自転車で走っているトールにもどった。


「きゃあっ!」


 エミが悲鳴をあげた。トールの肩越しにあれを見たのだ。


 トラックが少年を跳ねとばした光景。そして、物体のように少年の肉体が路面にころがるさまを。


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