9. 潮流


 けっきょく、トールは脳震盪、ヒロは前歯を四本とも失って顔面血まみれでのたうっていたそうだ。エミの知らせで駆けつけたジュンや年少組の子供たちが手分けをして部屋まで運んでくれたらしい。


 じきにトールは意識を回復した。だが、ヒロの歯はすべて永久歯になっていたから、抜けた歯を屋根に放りなげて生えかわりを祈ることはできなかった。


 ジャニーズ系だったヒロの容貌は、前歯がなくなったおかげでかなり印象のちがうものになってしまった。もう、気取った笑みを浮かべることもしない。


 トールはといえば、しばらく頭痛になやまされた。医者のいないこの世界では、重いケガや病気は死に直結する。しばらく安静にして様子をみることになった。


 その間、トールの世話を一手に引きうけてくれたのはエミだった。自分で志願したのだ。


 年少組の子供たちは、それをエミのやさしさのあらわれだと漠然と理解した。彼らには、エミがヒロに<性的に>襲われているところをトールが助けた、という経緯はふせられていた。このせまい共同体のなかでの今後のヒロの立場を考えると、そういった込みいった話はあらわにはしづらいものであることを、当事者たちと、それ以外に事実を察しえた唯一の人間であるジュンは理解していたのだ。


 トールの部屋は、3LDKのうちの六畳間だ。ベッドはパイプ製で、どっしりしている。机もあり、おおきな本棚とタンスがある。


 部屋の雰囲気が、トールがかつて家族と住んでいたところと似ているから、そこをねぐらと決めたのだ。ほかの空いている部屋を、年少組の子供たちが遊び場にしていても、トールは気にしなかった。むしろ、マンションの近くの児童公園の、にぎやかな雰囲気を思いだすようで好きだった。


 トールは、ベッドのなかで文庫本を読んでいた。そんなに読書をするほうではなかったが、とにかくじっとしていなければいけないので、時間つぶしにはそれくらいしか方策がなかった。


 と、ドアがノックされる。


「ごはん、つくったわ」


 お盆をもって、エミが部屋にはいってくる。身に着けているのは白のニットセーターに紺のミニスカート。ハイソックスが膝小僧を隠している。暖房がはいっているので室温は高めだが、寒がりなのか淡いパープルのカーディガンをはおっている。


 お盆には、湯気をたてている土鍋、湯飲み、調味料の小瓶などが載っている。


「鍋焼きうどんをつくってみたの。インスタント麺ばかりだと飽きちゃうでしょ」


 にっこりとする。笑うと、すこしたれ目ぎみなのがわかる。


 トールはその顔を直視できなくて、目をふせた。エミが明るくふるまうのをうれしく思う反面、そこになにか無理を感じてしまうからだ。


「熱いうちに食べるとおいしいよ」


 エミは、お盆を持ったまま、ベッドをのぞきこむようにする。


「ありがとう」


 トールはあわてて上体を起こした。


「こぼさないでね。やけどするから」


 そっと、トールの腿のあたりにお盆をおく。土鍋は重量感がたっぷりとあるので、安定はいい。トールは箸をとった。


 うどんは好物だった。母親が関西出身だったからか、家庭でうどんが食卓にのぼることが比較的多かった。そのことを、エミに話したことがあっただろうか――その記憶はないから、たぶん偶然だろう。


 トールが食べているあいだ、エミはだまって部屋のなかを見まわしていた。初めて入った部屋ではないから、そんなに見るべきところはないはずなのだが。


「ルノワールが好きなの?」


 振りかえったエミがさっきまで見入っていたのは、壁にかかった複製画だった。


 豊満な裸婦像だ。あまり子供部屋にふさわしいものではない。


 エミは、複製画の入った額のガラス部分に指でふれた。


「アイドルのポスターじゃなくて、ルノワールというところがトールくんらしいのかな」


 エミは、トールたちを「くん」づけで呼ぶようになっていた。これは、べつにトールだけのことではなく、みんなに対してもそうだ。


「その絵は、最初からここにあったんだ。だから……」


 うどんの熱さを食道に感じながら、トールは言った。


「外したら、もともとの持ちぬしに悪いような気がして……」


 などと根拠の薄弱な言いわけを口にはしてみたが、実際のところトール自身、この絵に思い出があって、外せないでいるのだった。というのは、父方の田舎――群馬の旧家なのだが――に、これと同じ絵があって、小学校低学年だったトールは奇妙に胸のときめきを感じたことがあった。そのせいか、この絵をみると、田舎の家の匂いや、祖父や祖母の面影が思い出されてくるのだ。


「すごい胸よね……」


 エミは、裸婦像の白い胸に感嘆のため息をもらした。


 と、いきなりトールを振りかえる。


「トールくん、女の子の裸に興味ある?」


「えっ」


 トールは、レンゲがわりのスプーンでつゆをすすろうとして、吹きだしかけた。


「男の子だから、考えたことあるでしょ?」


 エミは、ふだんには似ない、意地悪な口調でトールをからかった。


「やめろよ」


 トールはスプーンを土鍋にもどした。エミを直視できない。トールの位置からエミを見ると、エミの姿と裸婦像がまるで二重写しのように見えてしまう。<時間>をスライドさせた多重露光というものが存在するとしたら、その光景はまさに、現在のエミと未来のエミとを同時に捉えているかのようだった。


 ふっ、とエミが顔をふせた。


「ごめんね。へんなこと言って。でも、ヒロくんのことを考えると、なんだかわるくて」


 ヒロのことが?


 トールはエミの横顔を凝視した。


「たしかにあの時は驚いたし、いやだったけれども……ああいうふうになったのは、わたしのせいかもしれない」


 エミはつぶやくように言った。


「ヒロくんと親しくなれてうれしかった。ヒロくんは親切で、女の子のことを理解しようとしていたもの」


 ヒロはたしかに当初からエミを意識していた。ジュンやトールが、女の子であるエミにたいして、明確な態度をとりきれなかったのとは違っていた。


「でも、自分のからだのことをヒロくんに相談したのは行きすぎだったわ。親身になって心配してくれている、と思って、つい……」


 それが生理用品の一件だったのだろう。たしかに、トールが同じ相談を受けていたら、ただうろたえるだけで、ヒロのようには行動できなかったにちがいない。ジュンだってあやしいものだ。からだは一年ぶんくらいトールやヒロよりも大きいが、純情なことでは、トール自身、ジュンにはかなわないと思っているくらいだったから。


「だから、屋上でのことも、半分は自分がまねいたことだったのかもしれない」


「そう……」


 トールは、すこし面白くない。必死で助けた自分が、なんとなく道化じみて感じられる。トールは食事を中断し、半分のこった鍋焼きうどんが乗っているお盆をベッドサイドのテーブルに置いた。


 と、エミは不意に話題をかえた。


「トールくんは、この世界でどれくらいの時間をすごしてる?」


「わからないよ。カレンダーも役にたたないし。一、二年じゃないかな」


「ヒロくんやジュンくんは?」


「たぶん、もっと長いよ。でも、どれくらいだろ?」


 トールは首をひねった。


「わたしもよ」


 と、エミが言う。


「この状態が、ずっと続いているの」


 みずからのからだに手をあてる。ふくらみかけた胸。張り出しつつあるが、まだまだ未成熟な腰。脂肪がのりきらない下肢。


「あのね……いちおう生理だってあるの。でも、とても不規則なの。体感時間で何ヵ月も――何年も――なかったかと思うと、突然くることもあるの。そういうの、つらいの。とても」


 エミは唇をかみしめていた。


「子供でいられれば、それはそれでいいの。大人になれというのなら、なってみせる。でも、どちらかに常に揺れているのは、気持ちが悪いわ。それが、ずっと続いているの。あのとき、ヒロくんがのしかかってきたとき、このままいっそ、と思った瞬間もあったわ。そうしたら、いまのどっちつかずの状態が突き破られるかもしれないと思ったから」


 上気した顔をエミはあげて、トールを見つめた。羞恥に耐えている懸命な表情だ。


「それをしたからといって、止まったからだの時計が動くかどうかはわからない。でも、ヒロくんも、大人でもない、子供でもない、でも、どっちにもなりきれない自分のからだをなんとかしたいと思っていたんだわ。なぜって? 人間のからだは、子供をつくるための器官を持たされているからよ。それは、わたしたちくらいの年齢になると、ほとんど大人と同じ機能を持つようになる。もちろん、成熟はしていないけれども。昔の人は結婚が早かったでしょ。日本でも、わたしたちくらいで結婚することがめずらしくなかった。教科書で読んでいるだけだと現実味がなかったけど、いまならよくわかるわ。だから、ヒロくんのしようとしたことをわたしは責められないし、理解もできる――」


 ふっと、エミの口調から力がぬけた。体からもそうだ。硬さがとれている。


「でもね、うれしかったの。トールくんがたすけてくれたとき。ほかの人じゃなくて、トールくんが――だって、わたしをこの世界に引き揚げてくれた人だから。二度、トールくんはわたしをたすけてくれた。そして、それが、いまのわたしのいる場所を決めたの。いま、ヒロくんの部屋じゃなくて、ここにいるのも、そう。わたしのからだの時間は止まったままだけど、でも、トールくんになら……」


 エミの両目がうるんでいる。


 彼女は、なにを伝えようとしているのか。トールにはわからないし、知らないままでいられたら楽なことのひとつのような気がした。


 だけど――


 エミは壁を砕こうとしているんだ――


 ぼくとの間にある壁を――


 給水塔の陰でおびえていた自分を思い出した。あのとき、一生懸命トールは自分を守る壁をつくろうとしていたのではなかったのか。


 いやなことから自分をへだてる壁を。


 同じことをぼくはしようとしている――


「ごめん、へんなことを言っちゃった。忘れて」


 エミが顔をそむける。


 トールのなかの子供の心は、それを緊張解除のサインに受けとった。よかった。むずかしい時間はすぎた。また、いつもの感じにもどれる。


 しかし、トールは、ベッドから床におりていた。エミがいるところまでの一メートルあまりの空気がやけに重かった。まるで、なにかがふさいでいるかのような。


 でも、エミのそばに来ていた。


 エミの顔は、トールの顔の高さより少しだけ高かった。


 その肩を抱きしめた。背伸びをするほどではない。でも、ちょっと恥ずかしかった。力づよく抱きしめることができなくて。それに、まるでフォークダンスのようじゃないか――


 でも、それにつづく行為はとても自然だった。彼女のたりない部分をうめてあげようとする気持ち。自分のたりないところに彼女が満ちていくのを受け入れる感じ。


 おたがいのからだを抱きしめる。そして、見つめあう。まるで、たがいの瞳のなかに、最後のとびらをひらく秘密の呪文が書きこまれているかのように。


 ふたりはベッドに横たわって、<儀式>をどのようにはじめるかについて、視線を交わしあった。エミはトールにゆだねた。トールはうなずいた。


 トールのなかにいる子供がおびえている。ボタンにかかる指がふるえた。


 そのとき。


 いきなりドアがひらいて、サトシが飛び込んできた!


  


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