8. 記憶



 なぜ隠れてしまったのか。


 トールは後悔した。


 ふつうにふるまえば何事もなかったのだ。なまじ身をひそめたので、出て行きにくくなってしまった。


 罪悪感にさいなまれつつも、トールは耳をそばだてた。


 エミの声が聞こえてくる。


「へんね、だれもいないわ」


 トールは、給水塔から顔を半分のぞかせた。


 階段脇の常夜燈がエミのうしろ姿が見える。エミはタートルネックセーターとプリーツスカートを身に着けている。その服は、トールたちの襲撃チームが手に入れたものだ。


「もしかして、どこかに隠れているのかな?」


 エミが振りかえった。トールはあわてて顔を引っこめる。常夜燈の光はトールのいるところまでは届いていないので、エミにはわからなかったはずだ。たぶん。


 エミは目を大きく見ひらいて、屋上の様子を確認している様子だ。


「やっぱり、だれもいないわ。おちびさんたちも、ジュンたちも」


 エミの声がやや遠くなった。つまり、ヒロの方を振りかえったのだろう。


「屋上でパーティをするのって、ほんとうなの? こんなに寒いし、暗いのに……」


 言葉がとぎれた。


 音がした。やわらかいもの同士がぶつかるような音だ。


「きゃっ」


 かんだかく、みじかい悲鳴が聞こえた。


 それから、なにかが倒れたようなやや重い音。


 トールは給水塔の裏で息をのんだ。


 息づかいが聞こえた。荒い。ヒロの。


 なにかがもがいているような、それを封じようとするような、一連の攻防を想像させる物音が続いている。ときおり、エミのものらしい声がまざる。


 トールは、給水塔の裏で立ちすくんでいた。


 見えるものは、燐光を発しながらうごめく靄の壁だけ。


 あのむこうに消えてしまいたい――とトールは思った。からだが小刻みに震えているのをようやく自覚した。


 こわい。


 給水塔のむこうでおこなわれていることを見るのがこわいのだ。


 獣がいる。せわしなく、ヒュウヒュウ息をはいている獣が。


 あらそうような物音は消えていた。いまは、なにかを食べているか飲んでいるかしているような音が断続的に聞こえている。


 濡れた舌がたてる音。トールはむかし学校で飼っていた白い犬のことを思い出していた。一学期の後半に学校に迷いこんできた雑種の牡犬。体毛は白というより灰色に近いほど汚れていた。あまつさえ、胴体にマジックで卑猥な落書きがされていた。名前はペケ。ばかばかしくも投票で、三票集めて決まった名前だ。そのペケが、洗面器に入れた水を長い舌ですくうようにして呑んでいた。その音に似ている。


 夏休みのあいだは、クラスのみんなが交替で学校に行って世話をすることになっていたはずだ。


 記憶が曖昧になる。自分はちゃんと役目を果たしたのか――?


 走っている。学校につづく道。車に気をつけなさいと言われていた。母親の顔。怒っている顔ばかり。


(どうしておとなしくできないの、あんたは。ほんとに、いつもよそ見をしているんだから)


 父親はビールにだらしなく酔っている。横浜ベイスターズの大ファンでアンチジャイアンツだった。寝ころんでナイター中継を観るのを無上の喜びにしていた――


 その姿が、あの犬に重なる。


 授業中であることがわかるのか、チャイムが鳴るまで教室の隅で寝そべっているペケ。あくびをするペケ。つられてあくびをして怒られたことがあったっけ。


(このへんはトラックが多いから、気をつけるのよ)


 放課後、だれもいない校庭で、ペケが鳴いている。かんだかい声で鳴いている。また明日ね、また、あした。待ってて、ペケ。


(はやく引っ越したいわね。おおきな公園のある郊外にでも。そりゃあ、通勤はたいへんだろうけど、透のためにはいい環境が必要よ)


 夏休み、ペケはひとりぼっちなんだ。ボール遊びにつきあってくれるやつもいないんだ。だから、行かなきゃ。行かなきゃ。


(走って行っちゃだめよ。車が多いんだから)


 その声が耳をついてはなれない。それと、ペケの悲鳴のような声。


 悲鳴? タイヤ? バンパーが鈍く光って――


「いやあ……やめてよぉ……」


 泣き声だ。


 トールは我にかえった。


 嗚咽。かぼそい声。知っているだれかの声。


 なにかが弾けて、トールは給水塔の裏から飛びだした。


 冷静に状況を見て、それから行動を起こしたわけではない。


 そもそも、どうして自分が屋上にいて、なぜ給水塔の裏にいたのか、その記憶さえ脈絡が飛んでいた。


 網膜に、一瞬にして図像が焼きついた。


 エミが倒れている。そのおなかのあたりにヒロがのしかかっている。エミのセーターは鎖骨のところまでめくりあげられていて、白い肌がさらされている。


 青白いエミの泣き顔。紅潮したヒロの顔。


 トールは、のどが張りさけるような高い声を発していた。


ゆっくりと、実にゆっくりと、ヒロは顔をあげた。表情はかわらない。


 と、その口許に変化があらわれた。端のほうにめだたないほどのしわがより、そして、それはみっつ数える間にくっきりとしたひきつれになった。それにしたがって唇がめくれあがり、白い門歯があらわれた。


 その光景を、もう一人のトールは奇妙に醒めた感情で見つめていた。


 が、いずれにせよ、客観的な時間では二秒か三秒のあいだのことにすぎない。


かたく握りしめたトールの拳は、空を切っていた。


 しかし、それよりも確実な打撃をトールはヒロに加えていた。


 頭突きだ。それも、突進した勢いそのままの強烈なやつだ。


 石と石がぶつかった時のような大きな音がして、ヒロは後方に吹っ飛んだ。


 反作用で、トールもよろける。やわらかいものを足の裏に感じて、さらにバランスを崩す。もしかしたら、エミの腕かどこかを踏みつけたのかもしれない。背中から転んで、勢いあまって後頭部をぶつけた。目の奥でフラッシュが焚かれる。


 気がとおくなる。


「トール!」


 声が耳元にとどく。誰の声だかわからない。クラスメートに、そんなに仲のいい女子なんかいないのだ。強いていえば一人だけ。名字の最初の一字がおなじせいで、日直を一緒にやることが多い――


「しっかりして、トール!」


 誰かがトールの肩をゆさぶっている。記憶が刺激される。いつだったかも、こんなふうに倒れたことがある――ぬれたアスファルト。やけたゴムと鉄錆の匂い。


 こまかい粒の水の粒子が頬に当たっては流れる。


 流れる。しずくが。


 このしずくはあたたかい。


 ぽつん、とまた当たる。


 目をひらいた。


 すぐそばにエミの泣き顔があった。


 しずくはエミのふたつのまぶたから湧きでていた。透明なしずく。まざりけのない、純粋な――


 今度こそ、完璧に意識が闇に沈んでいくのがわかった。



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