7. 戦果

 


 あらい息をしながら、トールは道路に転がった。


「あっ、もどってきた」


 サトシの声だ。


 空を見あげている格好のトールの視界に、サトシやツトム、ほかの年少組の連中の笑顔が入ってきた。年少組がこれだけいるということは、ほかのチームはもう帰還しているのだろう。


「どうしたんだ。ばあさんに捕まったって本当か?」


 笑いを含んだ声で、ジュンが訊いてきた。


 すぐにはトールは返事ができなかった。呼吸が苦しい。鼓動は今もっておさまってはいない。


 ジュンは、トールが手にしているスティックに目をとめた。


 その顔がくもる。


「殺ったのか?」


 スティックのフェイス部分には赤いものがこびりついている。


「ばあさんだったんだろ? かわいそうに。まあ、しょうがないけどな」


 ジュンがかるく肩をすくめる。


 トールは、ちがう、と言いそうになった。ちがう、あれはおばあさんなんかじゃなかった。ばけものだ。


 ――言葉にはしなかった。トール自身、じぶんが見た<あれ>がなんなのか理解できていなかったからだ。もしかしたら、幻覚だったのかもしれない。捕まりそうになった恐怖から、老婆のことを怪物のように錯覚したのかも――


 だが、トールの目はたしかに見たのだ。人間ならざる、<あれ>を。


 トールは肩を上下させつつ、道路にすわり直した。


「ジュン、食料品店はどうだった? なにか……かわったことは?」


「かわったこと? うーん、どうも、年代が古いようだったな。レトルト食品があんまりなかった。だから、インスタントラーメンをできるだけ集めてきたぜ。パッケージが変わっているんだ、見るか?」


 ジュンは、近くにいた年少組の持っていた袋から、ラーメンの袋を取りだしてみせた。<ちび六>というネーミングの、細長いパッケージだった。


「な、へんだろ。ちっちゃいラーメンが六つ入っているんだ。食べたいぶんだけ、作ればいいらしいぜ」


 ほかにも、めずらしいラーメンやインスタント食品を見せようとするジュンの表情からして、襲撃はまったく順調に進んだらしい。


 と、ようやくトールは、ヒロの姿がないことに気づいた。ヒロと一緒に行った年少組もいない。まだ、もどってきていないのだ。


 時計をみると、もう十五分ちかく経過している。


「ヒロは?」


「そろそろもどってくるだろ。十五分過ぎたら、いちおう、様子を見にいくつもりだけどな」


 ヒロの話がでたとたん、ジュンはやや苦い顔をした。


 トールも、ボーリング場でのヒロの態度を思い出して、気がふさぐのを感じた。


 と同時に、ばけものに変化した老婆の姿が脳裏にうかぶ。もしかしたら、薬局でも……


 だが、それは杞憂だったようだ。


 うすい靄のヴェールに人影が三つ浮かびあがり、ヒロたちがもどってきたのだ。


「おれたちが最後だったようだな。けど、それだけの収穫はあったぜ」


 ヒロが顔を紅潮させて言った。興奮して汗をかいたためか、顔面の隈取りと上半身のペインティングが流れてしまっている。特に赤の色が、しずくのように全身から垂れている。


「薬局で、なんでそんなに時間がかかったんだ?」


 ジュンがやや硬い口調で質問した。


「まあ、いいじゃねえか。ほしい薬やら何やらを棚から出してもらうのに時間がかかったんだよ」


 ヒロはぞんざいに言った。以前なら、ジュンにはもっと遠慮した感じでしゃべっていたはずだ。肉体的におよそ一年分の開きがあるからだ。それが、なんとなくヒロのほうが年上のような口のききかたをしている。


「さあ、もどろうぜ」


 ヒロが肩にホッケースティックをかついだ。その拍子にあたりに血糊がとんだ。


 かなりの量だ。見ると、スティックにはべっとりと血がついている。トールのそれとは比較にならない。


 年少組はと見れば、顔色が真っ青で、小刻みにからだをふるわせている。


「どうしたんだ、ユウキ、ケンスケ」


 ジュンがいぶかしげに声をかける。


 七歳くらいの少年が袋を投げだし、上体をくの字に折った。ケンスケという名前の少年だ。胃のなかのものを路上にもどしはじめる。


 よく見ると、ユウキもケンスケも、からだに赤いものが付着している。


 それが、どうやら血らしいことに気づいたとき、トールは薬局でおこなわれたことをおぼろに理解した。ヒロのからだの赤いしずくは、むろん、返り血だったのだ。


 ジュンも察したらしい。不機嫌そうに唇をゆがめた。


「トールといい、ヒロといい、今回はどうしたっていうんだ? まあ、ヒロが暴れるのはめずらしいことじゃないが……」


 その視線が、地面に落ちて止まった。ケンスケが落とした袋から、戦利品の一部がこぼれ出ている。


「おい、それはなんだ?」


 見とがめて、ジュンが声をはなつ。


 ヒロは、袋のところに近づき、こぼれたものを拾いあげた。


「なにって、いわゆる生理用品さ。エミにたのまれてね」


 大半の子供たちにとっては意味のない用語だった。それを理解したのはジュンとトールだけだったろう。たいていは小学五年生くらいにその手の知識がオープンになるからだ。


「それは――まあ、しょうがないな。でも、それだけじゃない。さっきポケットに入れたもの、それはなんだ」


 ジュンはヒロを睨みつけるようにして言った。


 ヒロは肩をすくめた。落ちたものをなにげなく拾うふりをして、なにかをジーンズのポケットにしのばせたのをジュンに見破られたのだ。


「まだ、おまえさんらにゃあ関係のないもんさ」


 ヒロは悪戯っぽく笑いながら、その箱をポケットから出して、手のなかでひらひらと動かした。


「コンドーさん、というやつだな」


 ジュンの表情がこわばる。トールはといえば、逆に弛緩していた。


 その用具がなにに使われるものかということは、平成八年の日本で小学五年生だったトールは知っていた。


 その用途について思いをめぐらせることが、こわかった。だから、思考停止してしまったのだ。


「恋愛の自由は保護してもらわないとな」


 ジャニーズ系とさえいえる整った容貌を、ヒロはゆがませた。この表情だ。ボーリング場で見せた、大人びた感じ。子供を別種の存在として切りはなしているかのような。


「だから、いっただろ……」


 ジュンは小声でつぶやいた。そのつぶやきは、たしかにトールに向けられていた。


  


 ふだんなら、<狩り>のあとはパーティになる。


 だが、トールはそんな気分にはなれなかった。ジュンも同様だったらしい。ヒロも、パーティなどには興味がない様子で、エミの部屋に遊びに行ってしまった。


 年長組がこんなぐあいだから、年少組だけで騒ぐわけにもいかず、パーティは自然にお流れになってしまった。


 トールは、しばらく自分の部屋にいた。トールの部屋は、3LDKのファミリータイプで、その一室を寝室にしていた。ほかの部屋にはサトシや年少組の子供が思い思いに荷物を持ちこんで使っていた。年少組は、<お泊まり>と称して年長組の部屋を泊まりあるいて楽しんでいるのだ。ジュンは年下の子供の面倒見がいいので、<お泊まり>の一番人気だった――すくなくともエミが来るまでは。トールも、わりと人気があって、たいていは誰かが泊まりにくる。


 その日も、パーティがないためにやや不機嫌な年少組がリビングを占領して騒ぎはじめた。いっしょに騒ぐ気になれないトールは部屋を出て、エレベーターに乗った。


 最上階まで昇り、それから、階段をつかって屋上へ出た。もともとは締め切りだったはずだが、今では子供たちの手によって防護扉のカギは壊されてしまっていて、まったく出入り自由だ。


 ここは、風が冷たくなる前は格好の夕涼みの場所だった。エミとも何度か来たことがある。エミとヒロが仲よくなるまでは、だ。


 トールは手すりによりかかって、夜景を見た。


 夜景。


 本来の世界だったら、常夜燈をともした日本石油のコンビナート施設が、まるでライトアップされた難破船のような無気味な美しさを見せていたはずだ。そして、横浜方面に目をやれば、ベイブリッジはもちろんのこと、ランドマークタワーや、インターコンチネンタルホテルの三角帆のようなシルエットなども景観の一部として目に入ったはずである。


 だが、ここでは、そんなものは見えなかった。明かりが灯っているのは、生麦交差点のこのマンションだけだ。国道十五号線は闇に沈下し、動くものはまったくない。さらに、海の方角には靄の壁がそそりたち、視界をさえぎっている。


 そのかわり、と言っていいのか、靄の壁が暗闇のなかで薄紫色の光をはなちながら、生き物のようにのたうっているのを見物することができた。それは、雲の動きに似ているかもしれない。夏の海の入道雲のようにダイナミックに沸きおこったかと思うと、不意に風にちぎれとんで勢力を減衰させることもある。そして、色も、その時々で微妙にかわる。


 時に、血の色のように見えることもある。


 トールは、老婆の割れた額をそめていた赤を靄の光にかさねていた。


 ――殺してしまったのかもしれない……


 一瞬ふりかえっただけだが、身動きもせず、うつろな目を見ひらいていた姿は、まさに死人のそれだった。


 ばけものになったように見えたのは、やっぱり錯覚だったのだろう。ジュンが襲った食料品店では母娘で店番をしていたそうだが、ジュンの恫喝におとなしくしていたそうだ。ヒロが暴れた薬局では中年の男の薬剤師がいたそうだが、ヒロを子供と見くびってとっちめようとしたところを逆にのされてしまったのだという。いずれにしろ、相手がばけものじみた姿になった、という話はなかった。


 あの老婆もほんとうは無力な年よりだったのだろう。それをトールは無残にも殴りつけたのだ。


 ――人殺しになってしまった。


 その認識がじわりじわりと心のなかに腫瘍をひろげていく。


 ――こんなところにいるからだ。こんな……


 発光する靄の断崖が、海のあるべき場所にそそり立っている。遠近感をもたらさない、奇妙な光景だ。それが、どうかすると、光をあびてきらめく水面のようにも見える。そうなると、海とかわらない。


 ――靄の海に浮かんだ細長い島。


 国道十五号線と、その周辺の土地だけの、<世界>。


 まるでベルトのような頼りない土地が、とらえどころのない靄につつまれていずことも知れず漂流している。


 以前、ここと同じ場所でエミと交わした会話のことを思いだした。


 最初、エミは、ここに来る前のことを覚えていないと言っていた。だが、それは真実ではなかった。親しくなるにつれ、ぽつりぽつりとだが、過去のことを話してくれた。たとえば、こんなふうな話だ。


「ここに来る前――いろいろな世界にいたわ」


「いろいろな世界? 初めて会ったときにも言っていたけど……それって?」


「この世界は、ひとつじゃないのよ。それは、わかっていると思うけど……。トールがもともといた世界と、ここと、そのふたつだけでもないの。まるで本がたくさんの紙でつづられているように、宇宙も折り重なっているのよ。もしも、ページとページのあいだに穴があいていれば、べつのページの中身を見ることも、そのページに移動してしまうこともありうるの……」


 そういう世界観をパラレルワールドというのだ、とエミは教えてくれた。その言葉には聞き覚えはなかったが、実体験にもとづく推論はできた。


「つまり、その穴にあたるのが<靄>なんだ」


「たぶん――」


 と、つぶやくエミの横顔にトールは目をうばわれた。鼻のかたち、あごのかたち、とてもきれいな造作だ。ふとっているわけではないのに、ふっくらとしたやわらかさを感じる。それが女の子というものなのかもしれない、と思った。


 トールの視線に気づいていないらしいエミは話を続けていた。


「――だから、わたし、長いあいだ、靄のなかをさまよっていたの。いくつもの世界を靄のむこうに見たわ。人間がまったくいない世界もあったし、つねに戦争が起こっている世界もあった……昆虫が人間のようなかたちになって、巨大な蟻塚のような都市を築いている世界さえ……それこそ無数にあったのよ。何十年? いえ、何百年かしら……わたしはいまのこの姿のまま、靄の海を漂流していたの。ごくまれに、世界のひとつに流れついたとしても、そこはわたしの世界じゃない。だから、靄のなかにもどったわ。そして、おなじことをくりかえすの」


「ふうん……」


 そのときのトールは、どちらかというとエミの横顔に気をとられていた。だから、とくに考えるでもなく、こう訊いた。


「じゃあ、ここにいるのはなぜ?」


 エミがトールのほうを見た。非難するような表情を目許にうかべている。だが、それはすぐに、いつものどことなく弱々しい感じの笑みにまぎれる。


「そうね……なぜかしら」


 エミは、また、光をはなつ靄の海に視線を転じる。


 もう、なにも言わない。


 トールも、かける言葉をうしなった。


 ふたり、黙りこくって靄を見ていた。


 ――あのとき、ヒロだったら、どうしていたんだろう……


 最近のヒロとエミのむつまじい様子を思った。


 胸にいやな感じがする。


 すぐに思いだすのは、ヒロの表情だ。支配的な、傲岸な、大人のような……


 コンドーム――避妊具――セックス。


 いやな連想だ。


 トールは自分の胸元をさわってみる。乳首がしこっている。もう何年もこんな感じだ。でも、ヒゲなどは生えないし、むろんほかの場所に毛が生えるということもない。ずっと、中途半端な感じのままなのだ。


 ジュンもそうなのだろうか。そして、ヒロは――


「だから、こっちに来ればいいんだよ」


 ヒロの声だ。トールは心臓が跳ねあがるのを感じた。そしてさらに――


「でも、ここは……」


 エミの声。トールは、思わず給水塔の裏に走りこんでいた。べつに、なにを意図したわけでもない。思い悩んでいた対象がとつぜん現われたので、驚いてしまっただけだ。


 金属製の階段をのぼるふたつの足音が、少しずつ大きくなる。


「きゃっ」


 足音がみだれた。エミがつまずいたらしい。


「はは、ドジだな」


「ごめんなさい、階段、暗いから……」


 エミがくぐもった笑い声をもらしつつ、言う。


「でも、ほんとうに……屋上でするの?」


 

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