5. 兆し
エミには、空き部屋のひとつを与えた。ワンルームタイプの部屋だ。その部屋に食料や飲み物を運びこむ仕事は、トールとヒロがおこなった。
エミは二日ほどふせっていたが、じきに体力を取りもどした。
起きだすと、エミはせっせとマンション内のほかの部屋の掃除をやりはじめた。べつに誰に命じられたわけでもないのだが、単純にきれい好きな性格らしい。なにしろ、まわりはやんちゃ盛りの男の子ばかりだから、ちらかす一方で片づけなどしない。今までは、あまりに汚くなりすぎて住みにくくなると、別のマンションに引っ越す、なんてことを平気でしていたのだ。なにしろ、住むところはいっぱいあるのだから。だが、エミはそんな子供たちに言い聞かせるのだった。だめよ、おうちはきれいにしておかなくっちゃ、と。
ジュンはますます不機嫌になっていった。といって、べつにエミのことが気に入らないわけでもないらしく、エミが話しかけると、ふつうに対応している。だが、なにかしら気になる様子で、じっとエミの後ろ姿をにらんでいたりすることがある。
年少組の子供たちのエミに対する評判はすこぶるよかった。彼らにしてみればエミはお姉さんのようなものだ。いわば、あまえる対象ができたのだ。
エミが行くところ、つねに子ガモがついてまわった。そして、一緒になってゴミひろいなどをするものだから、あっと言う間にマンションはチリひとつない環境になってしまった。住みやすいこと、この上ない。
また、子供たちの遊びかたも少しずつ変わっていった。それまでは、際限なくテレビゲームをやっていたかと思うと、外で暴れたり物を壊したり――たとえば近くのビルのガラスをすべて叩き割ったりなど――といった、脈絡のない遊びだった。それが、エミが読書好きであったため、<本を読む時間>ができてしまったのだ。<領域>のなかに鶴見図書館があったので、読む本には事欠かなかった。
ゴミが散乱していた部屋がいつの間にか片づき、机の上には図書館から借りてきた本が置かれている。まったく、急激な変化だった。
エミの行くところについてまわったのは小さな子供たちだけではない。ヒロもそうだった。図書館にもついて行った。しかし、本を読む趣味だけは身につけなかったようだ。
ヒロは、自分で髪の毛を切りそろえ、こざっぱりとしたシャツを着るようになった。そればかりではなく、どこから手に入れたのかコロンまでつけだした。たしかに、美少年といってもいい顔だちだったから、その格好でエミと並んで歩くと、それなりの雰囲気ではあった。
エミも、なにくれとなく世話をやいてくれるヒロが気に入ったようで、よく二人だけで談笑にふけっていた。ヒロといるときのエミは、つねに微笑みをたたえ、鈴がころがるような笑い声をよくたてていた。
一方で、トールはといえば、<狩り場>の監視に余念がなかった。関係のない他人を襲うことにためらいが消えたわけではなかったが、エミという仲間が一人加わり、生き物の宿命として彼女も食事をする以上、<狩り>の必要性をよりいっそう感じるようになったからだ。
そろそろ、たくわえていた食料も底をつきはじめていた。また、気候も激変していた。しばらく続いていた夏が突然過ぎさり、三日に一度は雪がちらつくような寒さが襲っていた。
子供たちにとって、衣料は悩みの種だった。<領域>内の空き家の箪笥に入っていた子供用の衣服はとうに着古しており、<狩り>によって新しい服を得るのもまれだ。したがって、寒くなると着るものにとたんに困るのだ。
トールも、<狩り場>を探すのに、大人用のオーバーコート――それもたいした年代物――にくるまって、インラインスケートで寒風を切り裂いて行かねばならなかった。
それでも、スケートですべっているうちにからだが暖まり、じきに汗ばんでくる。これがスケートのいいところだ。自転車だと運動量が少ないので、からだが暖まるところまでもいかないだろう。
すべっているうちに、すぐそばに同じスケート音がせまってきた。
目をやると、ジュンがいた。ジュンは、古ぼけたスタジアムジャンパーを着ている。たぶん、その下は素肌だ。ジュンは比較的暑がりなので、からだが暖まるとジャンパーのファスナーをおろして素肌に寒風を受けて走るのだ。
「どこか、動きはあったか!?」
前方を見つめながら、ジュンが訊いてくる。ローラーがアスファルトを噛む音と、風のせいで、怒鳴らなければ声は聞こえない。
「今のところ、ないよ!」
トールも叫ばざるをえない。
二人は横浜方面に向かっていた。ちょうど、新子安の駅前を過ぎたあたりだ。左手にマクドナルドが見えてくる。以前、あそこを襲ったのはいつのことだったろう。あの時は、一週間もハンバーガーやポテトばかりで、いいかげん嫌になったことを覚えている。だが、年少組には刺激的な食生活だったらしく、またその店が<狩り場>にならないかなあ、と期待している者も多い。
「エミはどうしている!?」
ジュンの視線は前に向けられたままだ。
「なんて言ったの!?」
やや声が小さかったため、よく聞こえなかったトールは声をあげた。
「エミのことだよ! ヒロがつきまとっているだろ!?」
「……きょうはボーリング場に行くって言ってたよ。みんな一緒じゃないの?」
ボーリング場は、どういうわけか機能が停まっていない。どういうしくみでそうなっているのかはわからないが、朝十時になると機械が動きはじめるのだ。ここにはゲームセンターもあるので、子供たちには人気のあるスポットだ。もっとも、景品クレーンマシンなどはとっくにガラスが壊されて、からっぽになってしまっているが。
「気にならないのか!?」
「なにが?」
トールは聞きかえす。どうも、最近のジュンはへんだ。なにかしら悩んでいる感じがする。
「そうか、トールはまだなんだな……」
つぶやくように言ったので、半分もトールには聞きとれなかった。
「なあ、トール、エミっていい子だよなあ」
「えっ」
聞きまちがいかと思って、トールはジュンの顔をまじまじと見た。
だが、ジュンは、ひたすらに前を見ている。冷たい風のなかで、眠っているいるようにさえ見えるほど、静かな横顔だった。
「女の子っていうのは、みんなあんな感じなのかなあ……それともあの子だけがそうなのかなあ……」
つぶやくように言っている。もはや、トールに伝える、という目的は持っていないようだ。
トールは、ジュンの横顔を見ていた。と、その横顔ごしに――
ゆらいだ。
道路に面した商店の何軒かぶんの像が、たしかに揺れたのだ。
兆候だ。
「ジュン! あれ!」
トールは急ブレーキをかけながら、商店を指差した。
ジュンも正気に返って、スピードを殺しにかかる。
「スーパーとかなら手間がはぶけてよかったんだがな」
それでも、食料がとぼしくなっている現状で、<狩り>は必須だった。
商店は、いずれも小規模な個人経営のものだった。
薬局、花屋、食料雑貨店、衣料品店、という並びだった。むろん、現状では、店の容れ物だけがあって、なかはがらんどうだ。
だが、建物全体が燐光を発し、その輪郭も陽炎のようにゆらめいている。目をこらしてよく見れば、棚に品物が並んでいるようにも、買い物客がそれを覗きこんでいるように見えなくはない。まるで暗がりのなかで影絵を見ているような頼りなさだったけれども。
このぶんでは、この世界との接点があらわれるのも間近のようだ。最近、エミにみんなくっついているから、巡回が甘かったらしい。
「すぐにみんなを呼びあつめてくれ。おれはここで見張っている。おれの武器もたのむぜ」
ジュンがいつもの落ち着きを取りもどして言った。トールはうなずく。やはり、こういう状況では、肉体面で一歳ほど年かさのジュンは頼りがいがある。
トールは、走りはじめた。
行き先は鶴見川ぞいにあるボーリング場だ。みんな、そこにいるはずだった。
鶴見川は、第一京浜国道と直角に交差してから、いったん西に大きくカーブし、逆S字を形作って東京湾に注いでいる――ただし、この世界では、靄の彼方に消えているが。
ボーリング場は、ひとつめのカーブのつけね、すなわち逆S字のまんなかの部分のあたりにあった。
外観はかなり古ぼけている。実際、造られたのはかなり昔のことなのだろう。
トールは上体を低くしずめて、風の抵抗を減らしながら、鋭角的にコースをかえて、ボーリング場の駐車場に侵入した。
入口付近に子供たちの自転車がとめられている。以前はバラバラに地面に投げ出していたが、いまはきちんとスタンドで立てられている。だれが取るというのか、鍵すらかけられている自転車もあった。これもエミの教育のたまものかと思うと、トールはすこしだけ複雑な気分になる。
依然として生きている自動ドアをぬけてなかに入ると、暖房がよく効いているのを感じた。実際、効きすぎて暑いほどだ。
赤いカーペットの敷かれたエントランスの左手にはボーリングのレーンとゲームコーナー、右奥は半地下になっていて、卓球場と売店がある。
子供たちの姿の見えた左手にトールは迷わず進んでいった。
きっちり十人、年少組はそろっていた。彼らにはボーリングの玉は重すぎるので、もっぱらゲームコーナーで遊んでいたようだ。エミが持たせたのだろう、みんな水筒をさげていて、なんだか遠足のような感じだ。もっとも、身に着けているのはサイズもバラバラ、つぎはぎだらけのシャツやセーターで、あまり小奇麗とはいえなかったけれど。
「みんな、<狩り>だぞ! すぐに準備しろ!」
トールはすぐさま号令をかけた。場所を告げ、担当の仕事にただちに就くように命じた。むろん、現場にジュンの装備を届けるように言うのも忘れない。
子供たちの目がかがやく。どんな遊びよりも<狩り>のほうが刺激的なのだ。それに、食料や雑貨など、ほしいものを手に入れるチャンスでもある。襲撃役の役得が獲物のうちの一番いいものを手に入れることだとしたら、戦利品回収役の役得とはこっそりほしいものをポケットにねじこむことなのだ。
黄色い歓声をあげながら、出口に走りだす年少組の一人をつかまえて、トールは訊いた。
「おい、ヒロは? それから、エミはいないのか?」
「エミねえちゃんなら、ヒロにいちゃんと地下に行ったよ。ふたりだけで遊ぶんだって」
屈託のない口調で答える。そして、仲間に遅れまいとして走りだす。
トールはすぐさまエントランスへもどり、奥の地下につづく階段にむかった。
とにかく、アタッカーの一員であるヒロに招集をかけなければならない。ことは一刻をあらそうのだ。
階段までもカーペットは赤だった。よほど、ここのオーナーは赤が好きなのだろう。
地下は薄暗かった。壁の上のほうに、明かりとりの窓があるので、真っ暗というわけではなかったが、かなり足もとが悪い。
卓球をやっているわけではないらしい。いったいなんの遊びを、と思ったときに、トールの視界にそれがとびこんできた。
暗がりのなかの人影がふたつ。ひどく接近している。
声が聞こえる。ヒロの声だ。
「だからさ、おれにまかせておけばいいんだよ。なんでも取ってきてやるって。だから、言えよ。ほしいものをさ」
猫撫で声とでもいうのか。妙に間延びした口調で話しかけている。
「服がいいか? それともアクセサリーか? 化粧品を持ってきてやろうか。音楽CD? ぬいぐるみが好きならUFOキャッチャーごと持ってきてやるぜ?」
「そんなのはいらないわ。でも……要るものはあるの」
エミの声は、はにかみをふくんでいるようだった。
「だれに相談したらいいか、ほんとうにこまっていたんだ」
「ふーん。それって、なんだろうな?」
ちょっと意地悪な感じの声をヒロは出した。
「それは……」
エミがくちごもるところに、ヒロが顔を寄せていく。
「……だろ?」
なにかしら品名を言ったらしい。とたんにエミの態度がかわった。うつむいて黙ってしまった。
「だいじょうぶだって。秘密にしておくよ。だから……な?」
ヒロはささやき声を出した。エミの手を握っているようだ。
エミはいやがる様子もなく、こくり、とうなずいたようだ。
いやな味がトールの口のなかにひろがった。それがなんなのかはわからない。
その場を立ち去ろうとした。だが、できなかった。足音が奥にまで届いたようだ。それに、あかるいエントランスから入ってきたので、暗いほうからは、その姿もシルエットとしてよく見えただろう。
「な、なんだよ、トール。おまえも来たのか」
奥から、ヒロの慌てたような声が聞こえてきた。
「<狩り>がはじまるんだ。それを知らせにきた」
トールは声が硬くなるのを自覚した。この場でどうふるまっていいのかがよくわからない。だから、自然と身体も声も固まってしまう。
「<狩り>か……こいつぁいいや、ちょうどウズウズしていたところだ。存分に暴れてやるぜ」
ヒロはエミのそばから離れ、わざとらしく指の関節を鳴らしながら、トールのほうに近づいてきた。
「エミも見物にこいよ。おれの活躍を見せてやるぜ」
奥にむかって声をかける。なれなれしい言いかただ。
「わたしは、部屋にもどっているわ。<狩り>の役にはたてないもの」
エミの声が暗がりから聞こえてきた。くぐもったような、妙な声だった。
声もへんだし、そもそもどうしてこっちに出てこないのか、トールは不安な気分だった。
「じゃあ、あとで部屋に行くぜ、いいよな」
ヒロは言い、歩きだした。ぼうっと突っ立っているトールの肩をドンとつつく。
「どうした、行こうぜ」
「でも、エミは?」
「ほっとけ。あとから自分ひとりで帰るさ。ガキじゃないんだからな」
トールは、そう言ったヒロの顔を見た。
見なれぬ表情がそこにはあった。
他を見くだすような、自信に満ちた目つき。
それに似たものをトールはおぼろな記憶のなかに見出した。
教師。
学校の教師。
おとな。
おとなの男。
ガキのくせに――と吐きすてるときの、顔。
それだった。
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