4. 少女
困ったことに、見つかったのは少年ではなかった。
顔を横にして、うつぶせになっているが、髪型で性別がわかった。肩くらいまで髪をのばした少女だった。
腰から向こうが靄に包まれている。白いブラウスの半袖からのびている腕が青白く見えた。すごく華奢な感じがする。まるで子供服用のマネキンが倒れているようにみえる。
トールは困惑しながらも、放置はできなかった。靄とこの世界との境界は一定ではない。靄に飲みこまれたら、またどこかわけのわからない世界に飛ばされてしまうかもしれない。そこが人間のいる世界である保証はないのだ。
用心のために橋の途中でインラインスケートを脱いだ。すべりすぎて靄のなかに突っこんでしまっては元も子もないからだ。
焼けたアスファルトに裸足はつらかったが、この際しょうがない。それに、境界のあたりは日射が不安定なせいか、とびあがるほどの熱さではなかった。
一歩ずつ、境界にむかっていく。
背後ではサトシが固唾をのんで見守っている。トールは振りかえって、かるく手を振ってみせた。この世界に長く居着いている子供ほど、境界に対して恐怖を感じるらしい。トールにとっては、こちらの世界のほうが異界だが、サトシたちにとってはそうではないのだろう。
うつぶせになっている少女の横むきの顔が見える位置まで来た。
閉じたまぶたの長いまつげが見てとれる。全体的にこぢんまりとした目鼻だちだ。顎が細い、全体的に面長な感じだ。かつてのクラスメートに似た子がいたかどうか、ふと考えてみたが、思いあたらない。それはそうだ。こんなところに知りあいが流れつくなどという偶然は――
ふと気づくと、少女のまぶたが痙攣するようにふるえていた。ちいさな唇がかすかに動く。
「……」
なにか言葉をつぶやいた。
トールは、少女のそばに膝をついた。肩に手をやる。
「きみ……」
それ以上、なんと声をかけたらいいのか、わからない。硬直していた。
少女は首をねじるようにして、視線を上にむけていた。なかばひらいた目は、こげ茶色というにはやや明るすぎる虹彩を持っていた。その中央の瞳の部分に、トールの姿が映っているのだろう。その像を、どのように少女が理解しているのかは、トールにはむろんわからない。
少女のくちびるがまた動いた。こんどは言葉になっていた。
「……せんせ……にげ……」
「しっかりしろ、おい」
乱暴にゆすっていいのかわからず、トールは肩にあてた手にわずかに力を入れた。
しばらくのあいだ、少女はトールの顔を見つめていた。と、その瞳に理性の色がもどっていく。
「ここは……?」
少女は意識をはっきりと覚醒させたようだ。しっかりとした口調で訊いてきた。
「ぼくは、トール。ここは――新鶴見橋の上だよ。たぶん、きみが知っている鶴見じゃないと思うけど……」
説明はむずかしい。もっとも、少女もその目で見れば、この世界がどのような場所かはすぐに理解するだろう。なにしろさしわたし五、六キロしかないのだ。全世界を見てまわることも容易だ。とはいえ、理解できたとしても適応できるかまではわからない。
「トール! あぶないよっ!」
するどい子供の声がした。
橋のたもとまでサトシが来ている。全身が緊張しているのが遠目に見えた。
「靄の壁が――上のほうで動いているよ!」
トールは頭上をふり仰いだ。
靄は空まで――はたして、その先がどうなっているのかは誰にもわからないだろうが――壁のように屹立している。その表面は、あちこち盛りあがったりへこんだりしている。すなわち、雲がそうであるように、定型ではないのだ。
そして、少女とトールの頭上の壁に、こぶのように山ができあがり、それは、みるみる大きさを増しながら下降をはじめていた。このままだと、トールたちがいる場所は靄に呑みこまれてしまうだろう。
靄のなかに入っても、みじかい時間ならば、この世界への復帰は可能かもしれない。だが、ほんとうにそうなるという保証はどこにもないのだ。もしかしたら、永久に靄のなかに取り残されるかもしれない。
「いそいで!」
金切り声をサトシがあげている。
「立てる?」
トールは少女を抱き起こそうとしながら訊く。
「ちょっと待って……」
少女は手をついて、からだを持ちあげようとする。とくにケガをしているようではない。
と。
少女が悲鳴をあげた。
突然、少女のからだが靄の壁のほうに移動したのだ。まるで、靄のなかにだれかがいて、少女をひきずりこもうとしているかのように。
「流れが、かわったんだ!」
トールは全身の血が冷える思いで、少女のブラウスの肩のあたりをつかんだ。
この靄の性質は、時として突然にかわる。本物の靄のように手ごたえがないかと思えば、粘液のように重たくなる時もある。そして、潮流のような複雑な流れをもつこともあるのだ。
トールは、横から少女のからだを引っ張っていた。少女も、懸命に手で前に進もうとしている。
頭上の空気がかわった。靄がせまっている。匂いがする。ちょっと酸っぱいような、冷たい感覚。
トールは上を見て、顔が引きつるのを感じた。白い靄が、まるで固体のような重量感をもって迫ってくる。
いっそ、少女を離して飛びのけば――
少女は、靄に下半身を引きずられることに気をとられ、頭上のありさまには気づいていない。今なら――
「ごめん!」
トールは叫び、少女のブラウスから手を離した。
ふぅっ、と少女のからだが宙に浮く。ぽかんとした表情をうかべたまま、靄の壁に引きこまれていく。
その、浮いた胴の下にトールは手を差し入れ、抱きとった。
渾身の力で、靄の壁から少女のからだを引きぬく。
そのまま路面で一回転する。不意をつかれた少女の頭がアスファルトにあたり、小犬がはたかれた時のような悲鳴がもれる。
冷たい感触が肌をおおった。あたりは真っ白だ。靄に呑まれたのだ。
トールは叫んだ。
「サトシっ! どっちだ!」
靄のなかでは方向がつかめない。
「こっちだよっ! こっち!」
靄のベールを通じて、かすかに高い声が聞こえる。よく通る声で助かった。
トールは声のほうにむかって、ダッシュした。少女の胴を抱いたままだ。少女もふらつきながら、トールについて駆けだしている。
靄は薄かった。すぐに光のなかに復帰できた。橋のたもとが目と鼻の先にあった。サトシの姿も見える。
ふりかえると、靄の壁は最初よりも五メートル近く前進していた。境界はこのように日に何度も移動するのだ。
「たすかった……」
息をついて、そしてようやく腕をまきつけている柔らかいものを思い出した。
少女もせわしなく息をしていた。
「ケガはない?」
「頭をちょっとぶつけたけど……へいき」
同じ年くらいだから身長もほとんどかわらない。ちょっと少女のほうが背がたかいかもしれない。だから、間近に顔があった。
緊張がとけたためか、はにかんだように笑っている。目尻がややさがりぎみで、笑うとそれが強調される。その表情に、トールはなにか懐かしいものを感じた。
仲間には、女の子はいない。だからかもしれない。それとも――
少女が着ているものはごく普通のブラウスにスカートだ。白いブラウスの衿と袖口にはレースの飾りがついているが、さほど華美なものではない。スカートはブラウン地に臙脂色のチェックが入ったもの。靴下は白、靴はありふれたスポーツシューズ。いずれにしろ、地味な感じがする。
それにくらべて、自分の姿はどうだろう。さすがに顔へのペインティングはしていないが、上半身は裸で、下は膝のぬけたジーンズだ。髪はボサボサで、輪ゴムで適当に束ねてあるだけだ。トールは、少女が今までいた世界と、この世界との距離を猛烈に感じていた。
気がつくと、少女のからだは小刻みにふるえていた。無理をしているが、だいぶん弱っているらしい。
「とにかく、仲間のいるところへ行こう。そこでなら、食べ物もあるし、休めるよ」
トールは少女のからだにまきつけていた腕を離し、肩を支えるようにした。
少女はよろけた。どうやら足に力が入らないらしい。
これではいくらも歩けないだろう。
「サトシ、先にもどって、みんなに知らせてきてくれ。自転車と、あと水とか食べ物とかも持ってきてくれるといいな」
トールは、少女を橋のたもとに座らせると、サトシにたのんだ。トールのインラインスケートは靄に呑まれてしまったから、ここはサトシにたのむしかない。
「いいよ、待ってて」
サトシは興奮した面持ちでうなずくと、勢いよくアスファルトを蹴って飛び出していった。
ふと、二人だけになってみると、特にすることがない。靄の壁も、さしあたっては動きがないようだ。
近くの建物の日陰に移動して、あらためて自己紹介となった。
少女は自分の名をエミ、と告げた。だが、いままでどこにいたのかは覚えていなかった。
ただ、このあたりの町並みに見覚えはある、という言いかたをした。ということは、もうひとつの世界でも彼女は鶴見周辺に住んでいたということだろう。
「おぼえてないんだ……」
なんとなくトールは寂しかった。自分が抱いている記憶をだれかと分かちあいたいという気持ちがあったのかもしれない。
「いろいろなところに居たことがあるような気がするの。いろいろなところに……」
少女――エミの口調も哀しげだった。かなり衰弱しているらしいのは、もしかしたら靄のなかをずっと放浪していたためだろうか。
「トールさんは、おぼえてるの?」
トールは、鶴見川のほうを見ながら、うなずいた。
「ぼくの家は、この川上にあったんだ。ベランダから、この川の流れが見えた。川の水はきれいじゃなかったけど、あそこまで真っ黒じゃなかったな」
トールは、おおまかにこの世界のことをエミに説明したが、意外にも、エミは冷静に状況をうけとめたようだ。以前の記憶をほとんど持っていないということと、すでに靄の洗礼をうけたあとだったからかもしれない。
ただ、<狩り>のくだりでは、眉をくもらせた。他人を襲って、食料を得ているということに、嫌悪感を持ったのだろうか。
「生きるためにはしかたがないのかもしれない。でも、ほかに方法はないのかしら。たとえば、ここで畑をつくるとか……」
「ぼくもそれは考えたけど、ここでは季節もめちゃくちゃなんだ。いまは夏だけど、つぎが秋だとはかぎらない。それに、ここには畑なんかないし、耕せるようなまともな空き地もないんだ」
エミは顔をふせた。
「ごめんなさい。あなたたちのやり方を批判するようなまねをしちゃって……だれだって、好きで人を傷つけたりするはずがないのに……」
トールは、ヒロやジュンの顔を思い浮かべた。そして、ほかの年少組の子供たちのことを。彼らは、どう見ても<狩り>を楽しんでいるような気がする。
「いいんだよ、べつに。きみのように感じるのがあたりまえだと思う。でも、ここはあたりまえの場所じゃない、それだけなんだ」
トールの言葉に、エミも弱々しい笑顔をみせた。トールが気を悪くしていないことに安堵したらしい。ふと、遠くをみるような目つきをして言った。
「わたしね、靄のなかで、いろいろな世界を見たような気がするの。こことはちがう場所。たぶん、そこでは、もっと乱暴なことがあたりまえだったような気がするの。夢かもしれないけど、しばらくそこで暮らしていたことがあるような感じも……」
トールは、エミが倒れていたときに口にした言葉をふと思いだした。もしかしたら、それは……いや、それは考えまい。自分には関係のないことだからだ。
その時だ。硬いものがアスファルトに当たる音がいくつも聞こえてきた。それは地響きのような震えをすら帯びていた。
トールは口をひらいたまま、かたまった。
インラインスケートをはいた少年たち、そして、自転車軍団。
サトシは、結局、全員を連れてきてしまったのだ。考えてみれば、退屈にあえいでいる子供たちだ。漂流者が流れついた、というニュースにすっかり興奮してしまったらしい。
そういえば、自分が漂着したときも、しばらく騒ぎがおさまらなかったっけ、と回想するが、もうあとの祭だ。
「女だ……」
「うわー」
「スカートはいているぞ」
めずらしい動物を見物しているような反応を子供たちはした。少女とトールとを遠巻きにして、なかなか近づいてこない。
その中から、ジュンとヒロが歩み寄ってきた。サトシも、発見者の一人という立場で、ついて来ている。
苦虫をかみつぶしたようなジュンの表情がトールには気になった。そして、傍らのヒロのゆがんだ笑みも無気味だった。
「そいつは、どこから来たんだ?」
ジュンが訊いてきた。
「おぼえていないんだって。名前はエミ。わかるのはそれだけ」
トールが説明すると、ジュンはさらに苦い顔をした。
「勝手に拾ってくるなよな。人数がふえたら、それなりにたいへんなんだぞ」
ジュンの思わぬ言葉に、トールはエミのほうを振りかえった。エミは無表情だ。人形のような顔をしている。
「でも、ジュンは、ぼくを仲間に入れてくれたじゃないか」
「おまえはいいさ。男だし。狩りにも参加できるくらいに大きいしな。でも、女は役にたたないだろ」
ジュンは辛辣な言葉を投げつけつつ、エミのほうは強いて見ないようにしているらしい。
「そんなことはないぜ、ジュン」
助け船をだしたのは、意外にもヒロだった。
「いいじゃないか、一人くらい女がいたって。それに、女だったら、料理とか、裁縫とか、できるかもしれないぜ。コンビニじゃあ、子供服なんて置いていないし、スーパーが狩り場になっても、食い物が優先で、なかなか新しい服までは手がまわらないからな」
「ヒロ、おまえは……」
ジュンがにらみつける。だが、ヒロはヘラヘラ笑いながら、ジュンの非難めいた視線も意に介していない。
「とにかく、かなりまいっているみたいなんだ。やすませてあげようよ。使っていない部屋はたくさんあるんだから、べつにいいだろ?」
トールの言葉に、ジュンも不承不承うなずいた。ただ、捨てぜりふめいた言葉を残しはしたが。
厄介なことにならなければいいけどな――と。
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