3. 漂流


 ジュン、ヒロ、トールの三人をリーダー格に、総勢十三名の子供たちが、そこで暮らしていた。


 神奈川県横浜市鶴見区生麦。かつて、薩摩藩の大名行列の前を横切ろうとしたイギリス人が無礼討ちにされた事件が起こったところだ。現在は、キリンビールの横浜工場をはじめ、大企業の工場が林立する京浜コンビナートの一部分である。


 地図上では、横浜まで六キロ。川崎までは五キロそこそこだ。


 だが、子供たちは、横浜にも川崎にも行ったことがない。


 彼らがいる世界には、横浜も川崎も存在しないからだ。


 正確には、国道十五号線を中軸にした左右さしわたし百メートルの帯状の領域が、鶴見川から神奈川警察署までの約七キロの間に広がっているだけなのだ。その外は、白い靄につつまれて、なにがあるのかはまったくわからない。


 帯状の領域のなかにおいては、人間は彼らのほか一人もいない。ペットになるような動物もいない。植物はあるし、虫もいる。食べ物も腐るので微生物は存在しているらしい。だが、人はいないのだ。


 建物は徹底的に無人だ。この地域には、ふつうの一軒家は少なくて、マンションが多いのだが、すべて空室だ。家具などは、ほぼそろっている。しかし、箪笥のなかみはたいていはカラだ。


 また、電気やガス、水道はふつうに供給されているのに、電話は通じない――すくなくとも、意図したところにつながることはまったくない。テレビやラジオは、時々気まぐれに受信できることがある。だが、昭和三十年代の白黒放送だったり、要領をえない言語が聞こえたりするので、実用性はまるでない。


 子供たちは、ふだん、好き勝手に過ごしている。むろん、勉強などするはずがない。


 だが、月に何度かの<狩り>のときには全員分担して事にあたる。電気や水は、どこからか供給されるのだが、食料や雑貨はそういうわけにいかない。狩りができるときに入手しなければ干上がってしまう。


 狩り場の兆し――は、たいてい外で遊んでいる子供たちが見つけてくる。


 兆しは無人のコンビニやスーパーの像がぶれたり、色が虹色にかわったりすることであらわれる。声がきこえたり、まぼろしのような人影がうごめいて見えたりすることもある。


 そんな兆候がみつかると、見張り役を交代でつける。狩りができる時間はかぎられている。見逃すことはできない。


 いよいよ、となったら全員をよびあつめ、襲撃役と運搬役に分担をふりわける。たいてい襲撃役は年長の三人が担当する。この数は多すぎても、せまい店内では十分な効果を期待できないので、三人程度がちょうどいいようだ。むろん、大きなスーパーをねらうときは、運搬役も武装することがあるし、逆に小さな個人商店が対象の場合は、襲撃役一人、運搬役二、三人ということもある。


 いずれにしろ、その場をうまく切りぬけられれば、むこうからこちらを追ってくることはできないのだ。警察も役にはたたない。


狩り場はどこに現れるかわからない。だから、子供たちは遊びがてら、第一京浜、すなわち国道十五号線を巡回して、兆しを見逃さないようにつとめていた。


 トールは、自動車もバイクも通らない、共同溝の工事もおこなわれていない、まっさらな国道十五号線を疾走しながら考えていた。


 いつから、こんなことをしているのだろう。


 そして、いつまで、続けなければならないのだろう。


 ――と。


 トールは、何年か前まで、自分が過ごしていたはずの生活を思い出していた。


 トールの家は、JR鶴見駅から徒歩で十五分ほどの場所の賃貸アパートにあった。


 父親は中堅どころの電機メーカーに勤めており、母親は近くのスーパーでパートタイマーをしていた。マイホームの資金づくりのために、両親ともいっしょうけんめい働いていた。一人っ子のトールはカギっ子だったわけだ。


 共働きはべつにめずらしい家庭環境ではないから、トールもべつに生活に不満はなかった。


 それが、なぜこんなところにいるのか。


 明確な記憶はない。


 ある朝、気がつくとJR鶴見駅前のロータリーに立っていた。あたりは白い靄につつまれていた。早朝のせいか、ロータリーは無人だった。


 家に帰ろうとしたが、ある程度以上すすむと、行く手が靄につつまれて、こわくて一歩も歩けなくなるのだった。


 途方にくれていたとき、ジュンに会った。


 ジュンは名前をきいてきた。トールは自分の名前を言った。そして、住所を。


 ――名字はいらない。名前だけでいいよ、ここではな。ま、とりあえず、こいよ。


 と、ジュンに言われて、生麦のマンションまでついて行ったのだ。むろん、そこで暮らすようになった。ほかに行くべき場所もなかったし、もともと、この<世界>はそんなに広いものではなかった。どうしたって、かたまって生きていくしかないのだった。


 それが一年だか二年だか前のことだ。


 時期がはっきりしないのは、この世界には季節がないからだった。今日は夏だが、明日は雪が降るかもしれない。一日さえでたらめだ。だいたいは、朝、昼、晩のリズムを持っているようだが、安心はできない。何十時間も昼が続くことだってある。


 そんな日々のなかでは、暦はまったく用をなさない。だから、ここへ来てどれくらいたったのか、トール本人にもよくわからないのだ。


 時間の混乱の要因のひとつとして、成長もとまっている、ということもあるだろう。トールは、ここへ来てからずいぶん経つのに、服のサイズがきつくなるということがない。ジュンやヒロも同様のようで、ずっと同じ体形でいるらしい。もう何十年もここにいるのかもしれないのに、だ。


 ジュンやヒロ、ほかの子供たちにしろ、自分がどこから来て、どのくらいここにいるのか、明確に答えられる者はいないらしい。それどころか、自分がかつてどういう生活を送っていたのかさえ、まったく覚えていない者も多い。両親の記憶があるトールなどはごくめずらしいケースなのだ。ここへ来てからの期間の長さが、もしかしたら記憶の有無に関係しているのかもしれない。トールは小学校高学年にあたる体格をしていたから年長組――いわば幹部クラスになっていたが、ここで暮らしている期間からすれば一番の新参者なのだから。


 どうやら、からだの成長がとまるのとともに、知能のほうも据えおきらしく、いくら古株でも小学校低学年の者は、小学校高学年だったトールに力でも知恵でもかなわないのだ。それに、彼らのほうも、年長組であるトールにさからう気はさらさらないようだった。子供らしい打算で、面倒な仕事をトールたちにおしつけて、楽をしているつもりなのかもしれない。


 生きるためにやむをえないこととはいえ、店を襲撃するのは、トールには気重なことだった。ジュンによれば、何度か死人も出たことがあるという。こちらが襲って、相手を死なせたこともあったし、仲間がつかまってしまい、置き去りにするしかなかったこともあったという。この世界に帰ってくることができなかった者は<死んだ>ということなのだ。


 トールは想像してみることがある。狩りのときに、あえてその世界にとどまってみたらどうなるのだろう、と。


 だが、そこが彼の住んでいた世界であるとはかぎらない。誰も自分を知る者がいない世界で年をとっていかねばならないのは恐怖だ。それに、本当に居残れるという保証もない。もしかしたら、靄につつまれたまま遭難してしまうかもしれない。


「ねえ、トール、どうしたの?」


 サトシの声で、トールは思考の袋小路から現実に復帰した。


 七歳くらいの幼い少年がトールを見あげている。サトシは、仲間うちでも最年少のひとりだ。小学校一年ないしは二年生といったところだろう。ギョロ目で、ちょっとみそっ歯ぎみだが、愛敬のある顔だちだ。


 いちおうインラインスケートを履いているが、どうもよちよち歩きっぽい。彼の実年齢、というか、この世界に来てからの期間はトール以上にあるはずなのだが、心身の成長が停滞していると、スケートのような身体で覚える技術もはかばかしくは進歩しないようだ。


 トールとサトシは、連れだって第一京浜をインラインスケートで疾走していた。まあ、遊びもかねた偵察である。あらたな<狩り場>の兆候はないか、調べつつ、走るのだ。サトシは年長組のなかでも年下の者に親切なトールのことが好きらしく、なにかというとくっついて行動したがった。きょうも、一人ですべろうとしていたトールにむりやりついて来たのだ。


 スピードに乗ると、なにもかも忘れそうになる。トールは無人の国道を走るのが好きだった。かつては、絶対にできなかったことだった、という記憶があるぶん、ほかの子供たちよりも痛快さが大きかったのかもしれない。トールは、しかし、いまはサトシに遠慮して、徐行しなければならなかった。


 ここのところずっと続いている夏の日差しが、トールとサトシの前にひろがるアスファルトをホットプレートのように熱していた。


 じきに国道が切れる。鶴見川がみえてくる。


 新鶴見橋が、この世の果てだ。橋の中程から、白い靄につつまれてしまっている。


「引き返さなきゃ、な」


 トールはつぶやくように言った。狩り場の兆候はみられなかった。もっとも、この前の狩りの成果物がまだたっぷり残っていたし、当面は食べるものに不自由はしないはずだ。


「待って、トール。なんかあるよ」


 Uターンしかけたトールをサトシが呼びとめた。サトシの自慢は、その視力だ。


「なにかって?」


「ほら、橋のところ。靄に半分かくれているけど」


 トールも目をこらした。


 鶴見川の流れは暗く、重たげだ。ただの水ではきっとないのだろう。靄から流れでて、靄にきえる。きっと、水以外の、なにかいやなものだ。


 その流れの上にさしかかる橋の上にも靄が這いのぼっていた。


 そして、人形のようなものが橋の車道部分に転がっていて、そのものにも白い靄の触手がまとわりついている。


 人形――?


 いや、ちがう。


「ひとだ」


 トールは信じられないものを見たかのようにつぶやいた。

 



 

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