ホワイトノイズ

鍵崎佐吉

0.

 結婚式なんて金がかかるばかりで無駄な儀式だと思っていた。だけどそんな斜に構えた考えは一瞬で打ち砕かれることになった。

 姉さんのことを美人だと思ったことは一度もない。ブスというほどでもないが、どこにでもいる平凡な女だ。そのはずだった。

 白いウェディングドレスをまとった姉さんは美しかった。幸福と、希望と、愛に満ちた表情でゆっくりとバージンロードを歩く彼女は、気圧されるほどの美しさをまとっていた。姉さんが今、人生で最も満ち足りた時間を過ごしているのだという事は、疑う余地がなかった。

 俺は最高に幸せな彼女に向けて、拍手を送り続けた。手のひらが腫れ上がるほどに拍手をし続けた。俺の心に沸き上がったものを表現する手段はそれしかなかったからだ。けれど姉さんと目が合うことはなかった。


 最初に結婚の話を聞いたのはちょうど一年ほど前のことだ。別にたいして驚きはなかった。姉さんはもう二十六だし、交際相手がいるという事も知っていた。俺が知る限りでは三人目の彼氏である今の彼と結婚できなければ、このまま独身で居続ける可能性は高い。だけど真面目で夢見がちな彼女が結婚という選択を諦めるとは思えなかった。そして案の定姉さんは彼と結婚することを選んだ。予定調和とでも言うべき、ごく自然な流れだった。

 両親は素直にその報告を喜んでいたし、俺も反対する理由なんてどこにもなかった。そもそも唯一の姉弟とは言え、俺が反対したところでどうこうなるわけでもない。俺にとって姉さんは姉さんでしかないのだ。その所属や将来について意見する権利など、弟には与えられていない。

 今時は結婚式をしないこともままあるが、本人たちの意向でやはりちゃんと挙式することになった。そうなれば当然、花嫁の弟である俺も出席することになるだろう。正直面倒だと思うところも無いわけではないが、欠席する口実があるわけでもない。それに俺自身、まったく誰かと結婚する未来が見えていない以上、人生最初で最後の結婚式になる可能性だって無くは無い。俺の結婚式に対するモチベーションというのはその程度でしかなかった。


 ホテルの一角にある小さなチャペルの最前列で、俺は姉さんの愛の誓いを見届けた。姉さんの彼氏だった男は少しぎこちなく姉さんにキスをした。隣にいた母はハンカチで目元を抑えていた。まごうことなき幸福がそこにあった。

 讃美歌を背に二人が退場した後、俺たちもその後を追うようにゆっくりとチャペルを後にする。姉さんの友人たちが上ずった声で何かを話しているのが聞こえた。父も母も泣いていた。その場にいた誰もが等しく満たされていた。

 それでいいんだ。そうあるべきなんだ。今日は祝福すべき素晴らしい日なのだから。


 姉さんはよく泣く人だった。映画やドラマはもちろんだし、何か学校でいざこざがあったりすると、泣きながら帰ってくることもあった。そういう時はいつも母が優しく姉さんの話を聞いてあげていた。俺はただその様子を遠巻きに眺めていた。自分の感情を隠そうとしない彼女が苦手であり、同時にうらやましくもあった。内面的には俺たちは正反対の姉弟だった。

 そんな彼女の存在が俺の人格形成に大きな影響を与えているというのは、ほとんど間違いのない事実だと俺は考えている。彼女は俺が生まれたその瞬間からずっとそこにいた。俺にとって最初の友であり、最初の師であり、最初の敵であった。だが三歳年上の彼女には俺は勝つことはできなかった。大人になった今でもそれは変わらない。気分屋な彼女は時に俺を虐げ、時に甘やかした。約束された敗北と気まぐれに与えられる愛情は、俺の姉さんに対する思いを歪ませるには充分だった。

 俺は姉さんが嫌いだ。だけど確かに愛していた。


 披露宴ではまず最初に二人のプロフィールムービーが流れた。長女として生まれ、チャレンジ精神旺盛で、高校ではバレー部の部長を務め、海外への留学経験もある。こうして改めて経歴だけを聞くと、まるで素晴らしい才女のように思えるから不思議だ。他県の大学に行った姉さんが向こうでどんな生活をしていたのかはあまりよく知らない。写真の中の姉さんは俺の知らない人間たちと楽しそうに笑っていた。今日ここにいる参加者も多くは姉さんの大学時代の友人たちだ。明るくて社交的な姉さんは昔から友人は多かった。

 姉さんの望む世界の中に、俺は入っているのだろうか。ふとそんな考えが頭の中をよぎった。

 メインディッシュの肉料理が運ばれてきたころに、姉さんの友人たちによる余興が始まった。姉さんにまつわるクイズが出題され、参加者がそれに答えるというものだった。俺は姉さんのことはあまり知らない。あえて深く知ろうとはしてこなかった。そのツケがまさかこんな形で回ってくるとは。会場は和やかな雰囲気に包まれている。

「それでは三問目! 美和さんの誕生日は六月……ですが、美和さんの弟さんの誕生日は何月でしょうか?」

 姉さんがこちらを見て小さく手を振っているのが見えた。


 あれは俺が大学一年の時のある夏の日だった。帰省中で特にすることもなく暇を持て余していた俺と、同じく帰省中ではあるが何やら忙しく方々を出歩いていた姉さんが、奇跡的に実家で二人きりになるタイミングがあった。お互い実家を出て大学に通っているから会うのは随分と久しぶりだし、相手のことを深く知っているわけでもない。だけどそんなものは一瞬で飛び越えてしまえるのが姉弟の距離感というやつだ。特にこれといった脈絡もなく姉さんは俺に話しかけた。

「彼女できた?」

「いや」

「サークルとかは入ってるんでしょ」

「まあ一応」

「女の子いるの?」

「まあ一応」

「声かけた?」

「普通に話はしたけど」

「ふーん」

「そっちはどうなの?」

 姉さんが二人目の彼氏と別れた、というのはなんとなく母から聞いていた。昔と同じで姉さんは辛いことがあるとそれを周りには黙っておけない質の人だ。これはそんな彼女に対する当てつけのつもりだった。俺は姉さんを愛していたけど、決して好いているわけではないのだ。俺と姉さんは永遠に切り離せない関係にあり、だからこそ俺は彼女にとって最も忌まわしい存在であろうとした。

 だが姉さんから返って来た言葉は予想外のものだった。

「うーん、少し良い感じになった人はいたけど」

「けど?」

「もう別れた。ていうか付き合ってすらないかな」

「ふーん」

「なんかもう、本当に体だけって感じ」

 そう言って姉さんは苦々しく笑った。その表情は生まれて初めて見るものだった。愛に飢えた女の顔、姉が弟に対して絶対に見せてはいけない表情だった。

 これだから俺は姉さんが嫌いなんだ。節操も分別もない、感情のままに他人を振り回す横暴な女。耐え難いほどに苛立たしく、どうしようもないくらいに愛おしかった。

 俺はゆっくりと立ち上がって姉さんに歩み寄り、そのまま強引にキスをした。突然の奇行に姉さんは驚いたようだったが、俺のことを拒みはしなかった。本当は受け入れて欲しくなかった。烈火のように怒り俺のことを殴りつけて欲しかった。そうでなければ俺たちは姉弟ではいられない。そんなこと、姉さんだってわかっているはずなのに。媚びるような目でこちらを見つめる姉さんに俺は言った。

「すぐに良い人が見つかるよ」

 そうして、その後は何もしなかった。俺たちは何事もなかったかのように日常に戻り、そして彼女の就職が決まった後、新しい三人目の彼氏ができたことを知った。


 式が終わった後も姉さんや両親は色々とすることがあるらしく、俺は両親の荷物と花束を託されたまま、ホテルのロビーで一人ぼんやりとしていた。結婚式というのは当人たちとその親のための儀式であって、新婦の弟なんてのはただのおまけに過ぎない。礼装に花束を抱えて誰かを待っている俺の姿は他人の目にはどう映っているのだろうか。そんな妄想をしながらただ時間が過ぎるのを待った。

 吹き抜けになったロビーからふと上を見上げると、姉さんとその旦那がこちらを背にして写真を撮っていた。表情は見えずとも二人の幸せそうな笑い声が聞こえてくるようだった。俺はスマホを取り出して二人の後ろ姿を写真に収めた。きっと誰にも見せることはないだろう。ドレスを着た姉さんはやっぱり美しかった。


 俺は二人の幸福を静かに祈った。

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