受信者・僕:名無しの世界より

千羽はる

受信者・僕:名無しの世界より

 昨日、久々に本屋に訪れた。


 最近はネットで本を買うことが多くなってしまったから、こういう立ち読みは久しぶりだ。


 以前は電車通勤だったけれど、最近は在宅で仕事をするので、こういうところに寄るというほんの少しの贅沢さえ、できなくなってしまった。


 僕の地元にある唯一の本屋。何の変哲もない駅ビルの中に入る、これまた何の特徴もないチェーン店としての本屋。


 在庫はちょっと少なく、新刊はあるけど、長いシリーズものの文庫などは一巻と最新巻があって、途中がない。


 単行本は本屋大賞などで話題の本しか置かず、いち本好きとしては大いに不満だ。


 全体的にやる気が微妙に感じられないが、本を紹介するポップは熱意に満ちていて、その紹介文に目を留めると、あれよあれよと紹介されている本に手が伸びてしまう。


 立ち読みをする人は雑誌に引き寄せられ、漫画の最新号を求める学生たちは固まりになって、各々の雑談(漫画論戦ともいう)を繰り広げながら、本棚の間にある狭い廊下を占拠する。


 資格系の本が並ぶ場所には、新社会人と思しき人が、難しい顔で目指す資格の本と向き合っている。しかし、そういう人も一日に一人いるか否か。たいていは、誰もいない。


 僕は文庫の並ぶ棚が好きだ。この本屋の中でも一番多くを占めている。


 大概の文庫には、背表紙だけではあるが目を通している。




 本屋のレパートリーは相変わらずだった。




 古いもの、興味がわかないもの、最新のもの、絵が漫画みたいなものが多くなったなぁと、本の背表紙と対面しつつ思う。




 そして、不思議なことが起こる。何の変哲もないチェーン店の本屋で。


 ぱら、と音を立てて背表紙の文字が落ちた。文字だけだ。本自体はそこにあり、文字の入っていない抜け殻となっている。


 背表紙に鎮座していたはずの文字は、もはや慣れてしまって驚かない僕の「脳」に飛び込んでくる。


 雨のような音がかすかに聞こえ、今日は、文字たちが僕の「脳」に殺到しているのが分かった。


 きっと久々に来たせいだな。文字たちも、僕のことを待ち構えていたに違いなかった。


 入ってくる情報の多さのせいで、もう、目は見えない。


 しかし、今の僕を誰かが見たら、ぼーっと文庫の背表紙を眺める一人の客にしか見えないはずだ。今まで誰かに注意されたこともないから、今日も問題ないだろう。


 目は、別の光景を細切れに映し出す。映画のようにカラフルに。


 一瞬、勝気な表情をして敵を見つめる荒野の戦士が見えた。


 一瞬、星を周囲に侍らせて歩く少女の姿が見え、彼女はこちらを見てちらりとほほ笑む。


 一瞬、謎を待つ老紳士が自らの膝に置いた本を読みながら、憂鬱そうに安楽椅子に座り時間をつぶす姿が見える。


 本屋に流れる、昨今話題の音楽はもう聞こえない。


 文字が落ちてくる雨に似た音が、遠い彼方から響くさざ波のような音に変わり、僕の耳朶に優しい朗読のように響いている。


 眼前を流れる光景も、物語が訴える音楽も、量が多すぎてすべて捉えきれない。


 どんな場所であっても、本たちはこんな風に僕を迎える。


 こだわりのある個人の本屋でも、地元の図書館でも、こういう本屋でも、毎回それは変わらない。


 誰もいない図書館で、本と対話するのがかつての僕の日課だった。


 リニューアルされた明るく過ごしやすい図書館にいる本たちは、もう僕に語り掛けない。


 たぶん、本以外に熱中する学生や、なぜか眠りに来ている一般人の気配に恐縮してしまったんだろうと、僕は仮説を立てている。


 物語たちは、堪り兼ねたように訴えてくる。




【まだ、これで終わらない】【まだ、生まれていない】




 どうやら、本たちにも言いたいことが、かなりあるらしい。


 僕はそれを受け取れる稀有(?)な人間で、本たちはこうやって、僕にそれを訴えてくる。


 今日、僕は本を買わなかった。


 そのかわり、本たちが僕の内側に流し込んできた情景が、僕を通じて世界に顔を出そうと、たくさんたくさん訴えてくる。


 この情景たちが、いつ、どういう形で現れるのか、受信しただけの僕はまだ、わからない。

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受信者・僕:名無しの世界より 千羽はる @capella92

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