第5話ー② 母
「ああ。それが――ママが退院することになったよって伝えたくて」
父の言葉に喉がきゅっと閉まる。何かに喉元を掴まれるような苦しさがあった。
「ママ、が」
なんとかかすれた声で返すもも。しかし、掴まれているような感覚は消えない。
「そうだ。それで、ママがももに会いたいって言っていてね。だから――近々こっちに顔を出さないか?」
ママが私に会いたがっている――?
かつての母の笑顔がももの脳裏をかすめた。
『ももはココアでよかったよね?』
『一緒に考えよっか!』
しかし、
『気持ち悪い! 二度と私の前でそんな姿を見せないで!』
その怒鳴り声と共に母の笑顔が黒く塗りつぶされていく。
今のママが私に笑顔を向けることなんて――
「マ、ママがっ! 私に会いたいなんて、言うはず、ない……」
だってママは、私のせいでおかしくなった。そんな私に会いたいなんて思うはずないんだから。
ももは悲しげな顔をして、耳にあてているスマートフォンを強く握る。
母の顔を塗りつぶしていた黒い何かが、ももの周りに漂い始める。
暗く、重い正体の分からない黒い何か――それは振り払っても濃さを増すばかりだった。
「本当だよ。ママはももに会いたいって言ってた。ちゃんと話したいって」
いまさら何を話すというのだろう。お前は人とはちがう気持ち悪い生き物だというつもりなんじゃないか。お前なんて娘じゃないとそう言うつもりなんじゃないか。
裕行君のお母さんのように――
漂っていた黒い何かに心が塗りつぶされていくような思いだった。『
このままじゃ、良くないことになる――
「もも?」
「ご、ごめんね。来年受験だし、ちょっと忙しくなりそうだから……落ち着いたらまた連絡する。だから、またね。よいお年を」
ももはまくしたてるように言って、一方的に電話を切った。
「はあ……これで、よかったんだよ。会わない方がママのためなんだから」
あのまま話していたら私は。だから、仕方ないんだ――ももは自分にそう言い聞かせる。
ため息を吐きながらスマートフォンの画面に目を遣ると、着信履歴がちらりと見え、その中に『蟻屋裕行』の名前を見つけた。
ももはその名前を躊躇いなく選択し、着信ボタンを押す。
「もしもし?」
裕行は不思議そうな声で電話に応じていた。まさか年末に誰かから連絡があると思っていなかったのだろうと察する。
「あ、裕行君! おはよー」
ももはいかにも快活そうに言った。黒く塗りつぶされてしまいそうな自分を悟られないように。
「おはようって……もうお昼だよ? 急にどうしたの?」
「裕行君、今どうしてるかなって思って」
「え、今!? えっと……今は、寮の部屋にいるけど」
上ずった声で答える裕行に可笑しく思いながらも、ももはどこかホッとしていた。
そして自分の身体を覆っていた黒い何かが、いつの間にか消滅していることに気付く。
きっと彼の声を聞いて落ち着いたんだろうな――電話の向こうにいる裕行の顔を思い浮かべて、ももは微笑んだ。
「そうかそうか。裕行君、今は寮にいるんだね。それはつまり、暇を持て余しているってわけだ」
「ももちゃん?」
「じゃあ、今からお出かけしよう!」
「お、お出かけ!? 二人で!?」
「うん。だって、他の子はみんな帰省しちゃっていないでしょう? 寮に残ってるの、私と裕行君くらいだよ」
そう。他の子たちは家族と一緒に楽しいお正月を過ごすに違いない。私達と違って。
そしてももは胸に手を当てて、眉間に皺を寄せる。
一人でいて、またさっきみたいなことがあったら怖いしね――
「わ、わかった。えっと、じゃあ女子寮の前まで行くね。着いたら連絡するからももちゃんは部屋で待っててよ」
「大丈夫、外で待つよ。私、すぐ出られるから」
「ダ、ダメだよ! 寒い中、ももちゃんを待たせるわけにはいかないからね。だから僕が連絡するまで待ってること! 僕もすぐに行くから! じゃあ、また」
通話が切れ、ももはスマートフォンの画面を見つめる。
「いっちょ前の男になってきたじゃない。ちょっとだけ、きゅんとしちゃったよ」
そう呟きながら、ももは微笑んだ。
「でも――」
暗い表情をして、ももは俯く。
私、ちょっとずるいよね。裕行君に慰めてもらおうなんてさ――
「結局、私は自分から逃げてるだけなのかな」
それから数分後に裕行から「着いたよ」とメッセージが届くと、ももは部屋を出て裕行の元へと向かった。
「ごめんね、待った?」
とエントランスから出ると、鼻の頭と頬を赤くした裕行がいた。
「ううん、大丈夫だよ」
それにしても。裕行君の私服なんて今まで見たことなかったなあ。
ももはまじまじと裕行の全身を観察する。
グレーのダウンジャケットと黒いマフラーと手袋。その完全防備を見て、ももは目を見張った。
もしかして寒いの苦手だったのかな――
少し申し訳ない気持ちになり、ももは暗い表情をする。
「なんかごめんね、急に呼び出しちゃって」
「いいよ、いいよ。ももちゃんと一緒ならいつでもどこまででも。じゃあ、いこっか!」
裕行はそう言って優しく微笑む。
いつもと変わらない彼の優しさが、この日はいつにも増して優しく感じられた。
きっと私の心が弱っているせいなのかもしれないね――
「うん、行こう」
そしてももは裕行と共に駅前にあるショッピングモールへと向かったのだった。
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