第5話ー③ 母

「結局何も買わなかったね」


 裕行はそう言って、隣で両手を上げて背伸びをしながら歩くももを見ながら笑う。


「まあね。気分転換だもの」


 少しは気持ちが楽になったかな――


 両手を降ろした時、左の肩に裕行の腕がこつんとあたり、「ごめん」と言って裕行の方を見た。


 あれ、こんなに裕行君って背が高かったっけ。昔は私と変わらなかったのにな。


「どうしたの?」


 首を傾げる裕行を見て、ももは目を逸らす。


「何でもない」


「そう?」


「うん」


 しばらく無言で歩き、誰もいない児童公園の前に差し掛かると、


「ちょっと休憩しよっか」


 裕行は公園のベンチを一瞥しながら言った。


「うん」


 ああいうベンチ、裕行君は嫌がりそうなのに。そう思いながらも、ももはベンチまで歩き、裕行と並んで座った。


「座れるんだ」


「え?」


「いや。潔癖の裕行君がこういう公共の物を利用するなんてって思っただけ」


 お世辞にも綺麗とは言い難く、青いペンキがところどころ剥がれている木製のベンチ。潔癖症の人なら、見るだけでも震えあがりそうなのにとももは思う。


「ああ、そうだね。うん。前の僕ならそうだったかも」


「前?」


「うん。今はもう気にならなくなったんだ。たぶん、夜明学園に来たからだと思う。僕のことをみんな嫌がらないし、受け入れてくれるから。僕は僕でいいのかもって思ってね」


「そうなんだ」


 裕行君は夜明学園に来てから変わったってことだよね。すごいなあ。

 ももは苦い顔をして俯く。


「でも――ももちゃんがずっと近くにいてくれたことが、僕の中では一番重要だったと思う」


「私……?」


 きょとんとした顔でももは裕行を見つめた。


「うん。同じような境遇で、それでも笑顔で頑張るももちゃんを見て、僕も頑張らなくちゃって思ったんだよ。だから、ありがとねももちゃん」


 ももは悲しげな表情でかぶりを振る。


「私は何もしてないよ。何もしてこなかったんだよ。だから私は――」


 またママから逃げようとしてる。何も変われていない私は、前に進めていないのだ。


「今日、何かあったの?」


 ハッとした顔でももは裕行を見つめた。


「わざわざ電話を掛けてきたのは、何か話したいことがあったんじゃないのかなって。それに、気分転換ってさっきも言ってたでしょう」


「意外とするどいなあ、裕行君は」


「ももちゃんのことは、誰よりも分かっていたいって思ってるからね」


 自慢げに言う裕行。


 その発言は、少し誤解を生むのでは? と苦笑してから、ももは口を開く。


「私のお家のこと、どこまで知っていたっけ」


「えっと――事件以降、お母さんの様子がおかしくなってしまったってところまでかな」


「そう。お母さん、私のせいで病気になって入院していたんだけど、今度退院することになったんだって」


「へえ、よかったじゃない。大好きなお母さんだったんでしょう?」


「――うん。大好き、だった」


 本音を言えば、ママに会いたい。けれど――


 自分の顔を見た母が、再び壊れてしまいそうでももは怖かったのだ。このまま会わずにいることが、母のためになるとすら思っていた。


「でも。会うつもりは、ない」


「なんで?」


「好き、じゃない、から」


「本当に?」


「――本当に」


 口をついて出た嘘に、ももは胸が締め付けられそうになる。

 好きじゃないはずがない。私は今でもママのことが大好きなのに。


 しかし。自分が能力者である限り、母に会えないことは分かっていた。

 それは母のためであり、自分のためなのだから――と。


「――会えばいいのに」


 裕行はぽつりと呟いた。ももはハッとして裕行の顔を見遣る。


「僕のお母さんは、僕に会いたいとは言ってくれない。でも、ももちゃんのお母さんは会いたいって言ってくれているんでしょ。だったら、意地なんて張ってないで会えばいいじゃないか。そんな嘘までついて、僕には理解できないよ」


「で、でも――あったらまた、ママはおかしくなっちゃうかもしれないんだよ。私のせいで、ママがまた辛い思いをしなくちゃいけないんだよ。そんなの、そんなの嫌だよ……」


 顔をまっすぐに向けたまま、ももは裕行に訴える。


「傷つくかどうかはももちゃんのお母さんが決めることだ。ももちゃんは、お母さんを言い訳にして、自分が傷つくことを恐れているだけなんじゃないの」


 それは今までで一番きつい言葉だった。自然と視界がぼやけて、頬に温かいものが流れ出す。


「あ、ご、ごめん……泣かすつもりじゃ――」


 ももは服の袖で流れる涙を拭う。


 ダサいな、私。裕行君の言う通りだ。結局、自分が傷つきたくないから、ママから逃げてるだけ。ママは私と会うって言ってくれた。向き合おうとしてくれたのに――


 ももは声を上げながら、涙を流し続けた。


 大晦日で誰も公園の前を通らなかったことが幸いし、騒ぎになることもなく時間が過ぎていく。


 時折、頭を撫でたり背中を擦ったりする裕行に恥ずかしく思いつつも、ももはその温かな手に心が包まれるような感じがしていた。


「うっ……うっ……ごめん、困るよね」


「そんなことないよ。僕こそ、ごめんね。きついこと言った」


「ううん。言ってくれたおかげて気が付けた。私が目を背けていたことに。だから、ありがとう」


 ももはそう言って精一杯の笑顔を裕行に向けた。


「わっ。可愛い……」


 裕行はぽつりとそう言ってから、


「って、ごめん。あはは……」


 頬を染めながら、頭を掻く。


「何、照れてるのっ」


 ももは小突きながら、裕行に言った。


「なんでだろう。あはは」


 それからももは寮の前まで送ってもらい、「良いお年を」と伝えてから裕行と別れた。


 部屋に戻るまでの階段をゆっくりと登りながら、ももは物思いにふける。


 ママの決意と裕行君からの激励。もう逃げたくない、よね――


「年が明けたら、ママに会いに行こう。それでちゃんと話し合うんだ」


 そしてももは逃げていた弱い自分を前年に残し、新たな年を迎えたのだった。

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