第5話ー① 母
夜明学園に入学して四年半。ももは創設五年目の二学期を迎えていた――。
残暑の熱に項垂れながら、ももは校舎に向かってゆっくりと歩を進めている。
「うぅ、暑い……もう少し、日影があればなあ」
白いアスファルトに反射した光に目を細め、ももは顔を上げた。
視線の先には校舎へ向かって植えられている桜の木があり、そこに九月に入ってもまだまだ元気に鳴く蝉たちの姿を認める。
「まだまだ夏だね……」ももは呟きながら大きなため息を吐いた。
楽しそうな笑い声がグラウンドの方から聞こえると、今度はそちらに目を転じる。
始業前のグラウンドでは、サッカー部の生徒たちが一つのボールを追いかけていたり、陸上部の生徒たちが集団で走りながら爽やかな汗をかいていた。
「暑いのに、みんな精が出ますねえ」
ももは周りを見回し、たくさんの生徒たちが自分の周りを楽しそうに歩いている姿が目に入ると小さく微笑んだ。
「ずいぶん生徒も増えたよね。入学当初は大丈夫かななんて思っていたのにさ」
今年度の入学者は過去最高人数だったこともあり、校内で以前よりも多くの生徒たちの姿を見るようになったなあと、ももは嬉しく思っていた。
入学希望者が増えたのは、暁の教え子でS級施設出身である
「在学中にアイドルデビューしている子、とかいるんだったよね。すごいなあ」
今期は生徒数もクラス数が多いから、学園側も大変だよね――
そんなことを思いながら、ももは学園長室の机で書類に埋もれていそうな暁の姿を思い浮かべていた。
私たちは一クラスしかない時の入学でよかったなあ、と安堵の表情を浮かべながらももは思う。
夜明学園の方針で、教師は各期ごとを担当することになっており、一クラスしかない第一期はクラス替えや担任替えの必要がないからだった。
残暑を逃れ、教室についたももはスクールバッグを降ろし、その中から筆記用具と昨日の始業式あとに長瀬川から渡された一枚の紙を取り出す。それから椅子にかけると、取り出した紙とにらめっこを始めた。
「うーん」
「おはよう……ってどうしたの? 難しい顔して」
隣の席に座りながら、裕行は首を傾げて尋ねる。
「おはよー。これだよ、これ」
見つめていた紙をつまむと、ももは裕行へ見せるように顔の前でひらひらと揺らした。
「ああ、進路希望調査票か」
「そう……どうしよっかなって思って」
紙を机の上に戻し、ももは頬杖をつく。
「まだ時間もあるし、就職か進学か決めるくらいでいいんじゃない? 一年もあれば、何がしたいのかわかるかもしれないし」
「裕行君はどうするの?」ももは目だけを裕行に向ける。
「実は僕、理系の大学に進学しようかなって思ってるんだ」
照れ臭そうに裕行は答え、ももはそんな裕行に目を丸くした。
「やりたいこととか、あったの?」
「まあね。昔から生物学には興味があって、そっち方面を学びたいなって思ってたんだ」
「へえ、生物学」
生き物の研究とか、そういうことだよね。そう思いながらももは小さく頷く。
「うん。能力者になって、なおのこと学びたいって思うようになったんだ」
「そう、なんだ」
裕行君は私よりもずっといろんなことを考えてきたんだな――
ももは自分の胸に何かが刺さるような痛みを抱く。
暁や優香だけではなく、裕行も自分の未来を考えていたことを知り、何とも言えない思いになっていたからだった。
「私だけ、何も変わらないんだ。あの頃から、ずっと……」
「ももちゃん?」
「ママから逃げるためにこの学園に来て、いろんなものに蓋をしたまま。私だけ成長してない。せっかくここへ来て、暁先生や裕行君に再会できたのに」
ももは俯き、両手の拳をぎゅっと握る。
せっかくこの学園に入ったのに、私は今まで何をしていたのだろう。本当にただ逃げただけだったのかな――
「ももちゃ――」
裕行が何かを言おうとしたタイミングで始業ベルが鳴る。それからすぐに長瀬川が教室にやってきて、その日の授業が始まったのだった。
裕行君はなんて言おうとしたのだろう――
ももはそう思いながら、隣の席の裕行を見つめる。しかし、彼の言葉が分かるはずもなく、ももは裕行から視線を外した。
それからももは、進路希望調査票に『就職希望』と書き込み、その日のうちに長瀬川へ提出した。
やりたい仕事はなかったが、家には帰りたくないと思い、家から離れた場所で就職すればいいと思ったからだった。
数か月後、十二月末。
ももは寮のベッドの上で漫画を読んでいた。すると、机に放置していたスマートフォンが急に振動し始める。
「こんな年の瀬に誰?」
身体を起こして、机に向かう。そしてスマートフォンを手に取り、表示された名前を見て、ももは苦笑した。
――着信 パパ
「お盆休みには帰ったのに……正月にも帰ってこいってことなのかな――もしもし」
「ああ、もも。元気にしているかい」
「私は相変わらずだよ。パパはどう?」
「ああ、パパも変わりないよ」
「そっか」
「それにしても、今日は寒いな。雪が降るかもしれない」
「風邪ひかないように、温かくしてね」
「ああ」
そんな話をするために電話を掛けてきたわけじゃないんでしょう、となかなか要件を離さない父にももは苛立った。
「ねえ、パパ。何か用事があってかけてきたんだよね?」
ももは苛立ちを声に出さないよう、淡々と尋ねる。
「ああ。それが――ママが退院することになったよって伝えたくて」
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