第2話ー⑥ 事件前後

 ももが待合室に着くと、四人の受験生がいた。その全員が見知らぬ顔とわかると、ももは少し残念な気持ちになる。


 もしかしたら、裕行君にも会えるかななんて少し期待していたんだけどな――。


 この面接は終わった人から順番に帰宅することとなっていたため、もう彼は終わって帰っているかまだ来ていない可能性もあるだろうと、ももはひそかに思うことにしたのだった。


 それからももは部屋の右端にある机に着き、自分の名前が呼ばれるのを待つ。

 部屋にいる他の受験生たちの方へ目をやると、両手を胸の前で組んでいる子やぼうっと天井を見つめている子、緊張で表情が固まっている子など様々だった。


「え?」


 低学年くらいの子もいるんだ――ももは自分とは反対側の端の席に座る少女が視界に入り、目を丸くする。


 この子たちはどんな想いでここにいるんだろう。どうして暁先生の学校を受けようと思ったのだろう。


 ももは受験生たちから視線をそらして、目の前の机を見つめながら思った。


 親が行けっていったのかな。それとも何か学びたいと本気で思ったのかもしれないね。きっと、ももとは違う理由。あの家から逃げ出したかったももとは違うんだ――

 太ももの上に乗せていた両手をぐっと握るもも。


「これで良かったのかな」


 ももは俯いたまま、自分の名前が呼ばれる時を静かに待ったのだった。


 ――それから数十分後。


「宇崎さん、中へ」


 面接会場の扉の前に立つ女性職員は、待合室全体に響く様に声を上げた。


「はい」と立ち上がったももは、女性職員の立つ扉の前へと向かう。ふう、と息を吐いてからその扉をノックし、「失礼します」と言って部屋の中へと足を進めた。


 部屋に入ってすぐに、白衣を着た中年の男性と紺色のスーツを着た三谷暁の姿が視界に入る。感動の再会とはいかなかったが、久しぶりに暁の姿を見て、ももは高揚感を覚えた。


 暁先生だ。本当に本物の。やっと、やっと――


 行ったことはないけれど、これは応援しているアイドルのライブへ数年ぶりに参加したような興奮と似ているのかもしれない、とももは思った。


 部屋の入り口で佇んだままのももに、白衣の男性は首を傾げながら「どうしました?」と尋ねる。


 その声にはっとしたももは、慌てて二人の顔を見据えると、


「よろしくお願いします」


 そう言って丁寧にお辞儀をしてから顔を上げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」と愉快そうに微笑む暁。


 暁は以前と違ってジャージ姿ではなかったものの、見た目や表情に大きな変化はないことを知り、ももは安堵の表情を浮かべる。


 あれから何年も経っているのに。先生は、先生のままだ――


 急に目頭が熱くなり、鼻の奥がつんっとした。


 ここで泣いては面接どころではなくなると思ったももは、ぐっと涙をこらえ、用意されている椅子にゆっくりと座る。


「それでは、まずお名前と志望動機をお願いできますか」


 今日一日で何度も言っているであろう事務的な質問をももに投げかける暁。そしてももは、名前と用意してきた志望動機を淡々と答えた。


 それから「入学したら何を学びたい」や「将来はどうしたい」と言うような質問が来ると、ももはどれも練習通りにスラスラと答えていく。


 今日は調子がいい。きっと暁先生がいてくれるからだ――。


 ももは正面にいる暁をじっと見つめながらそう思った。そして、その姿が見える度に、胸の奥が温かくなるような感じがしていたのだ。


 そろそろ終わりかなとももが思った時、「じゃあ最後に」と暁が微かに笑いながら言った。隣にいる白衣の男性はきょとんとした顔で暁を見る。


 きっと用意されていない問いが来るのだろうとももは身構えた。


「えっと。これは面接と言うより、個人的なことなんだが」そう前置きをすると、


「俺はももに来てほしいと思ってるよ」


 暁はそう言って、ニッと笑った。


「私のこと、覚えていてくださったんですね」


「忘れるはずない。だって、ももや裕行と出逢わなければ、学校を創ろうなんて思わなかったから」


「そう、なんですか?」


 唐突の告白に、ももはきょとんとした顔になる。


 あの短い時間で、先生はそんなことを思ってくれたってこと――?


「おう! だから、ももが来てくれると俺は嬉しいよ」


「はい……私も、先生の学校で学びたいです!」


「ああ、待ってるからな!」


 それから会場を出たももは、暁に言われた言葉を反芻し、嬉しさで流れそうになる涙をこらえながら歩いていた。


「先生、もものことを覚えていてくれた」


 ただの逃げじゃない。そう思えば、少しくらいは後ろめたさがなくなるような気がする――。


 笑顔を取り戻したももは、軽快な足取りで家路についたのだった。




 会場を出てから三時間。自分の部屋に着いたももはベッドに倒れ込み、足をばたつかせる。


「待ってるからな、だって……」


 それは帰宅の道中で何度も呟きながら、その度ににやけていた言葉だった。


「嬉しいなあ。ふふふ。暁先生、全然変わってなかった」


 そして試験会場で見た暁の姿が、ふと脳裏によみがえる。


 温かく優しい笑顔。変わらない無邪気な姿。暁先生は――今でもももの憧れの人。


「もも、少しは大人の女性に近づけたかな。先生は今のももを見て、どう思ってくれたのかな」




 それから数日後、ももの元へ合格通知が届いた。


「やった……やった!!」


 届いた合格通知をももはぎゅっと抱きしめる。



 心の中にあった濃紺色の空が、少しずつ白くなっていく。暁の空。それは夜明けの始まり。


 もうすぐ、ももの夜が明ける――。

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