第7話.災厄の人
――ばくばくと不規則に高鳴る心臓の音が、わずかに開いた唇の間から、漏れてはいないだろうか。
叫びたいほどの恐怖を、私は懸命に堪えていた。
動揺してはいけない。すぐに悟られる。言い聞かせるけれど、落ち着きを取り戻せない。
「……お兄様?」
「正解」
目元を覆っていた手が離れた。私は弾かれたように振り向いた。先手を打ったつもりだった。
目の前には白皙の美貌がある。整った鼻梁、薄い唇、きめ細やかな肌。細身でありながら、鍛えていることが窺える身体。
女をときめかせてやまないすべてを持ち合わせた男――ノヴァ・ネーレミア。
黒髪に、夜闇でも光るような赤目は、帝国中の女たちを虜にするけれど、本性を知る私には悪魔のそれにしか見えない。
(ノヴァはなんにも、覚えていないはず)
スクロールにはひとつ、目立たない特徴がある。破かれたスクロール自体は、発動した古代魔法によって傷つかないということだ。そのスクロールから吐き出された炎によって、塵にはならない。
その地味だが重要な特徴を、私は利用した。スクロール代わりに使ったのは私の舌だ。舌の持ち主である私に回帰前の記憶がはっきりと残るのは、そのためである。私の記憶だけは、巻き戻った世界中の時間の中で失われなかった。
だから目の前のノヴァは、私を残虐な死に追いやったことなど知りもしない。そう分かっていても、恐怖を抱かずにはいられなかった。
「どうしたんだい、僕の可愛いエリー。なんだか顔色が悪いね」
少し間違えば唇が触れるほどの距離で、ノヴァが微笑む。
あの日――鼓膜を震わせた酷薄な言葉を、思い出す。目の前の男は知らない未来でも、私にとってはつい先日の出来事だ。
無言を返すと、何気なく片手を取られ、手首を握られる。柔らかな肌の感触を楽しむように、ノヴァが触れる。回帰前も、たまにノヴァはそんな風にしていた。
今の私には分かっている。ノヴァは、脈の速さを確かめていた。表情や汗量くらいは誤魔化せても、心臓の拍動はおいそれと制御できないからだ。
貴族社会では、目は口ほどに物を言う、などと言う。しかし最も雄弁なのは、胸の下に隠した心臓に違いない。
「――あのねぇ。そんなの当たり前でしょう、ノヴァお兄様」
だから私は、隠さない。
未だばくばくと、内側から壊れそうなほど鳴り続ける心臓をドレスの上からおさえて、むっと頬を膨らませる。上目遣いにノヴァを見上げて、こてりと首を傾げてみせる。どんな仕草が愛らしく見えるかは、よく知っている。
(気丈に振る舞う必要は、ない)
私は、少し大人びたところがあると言われる程度の、齢十一歳の少女なのだ。
動揺を押し殺してぎこちない笑みなど浮かべては、それこそノヴァは違和感を抱くだろう。巻き戻って早々、違和感を抱かれては致命的だ。
「勉強中に急に後ろから視界を隠されて声をかけられたら、誰だってびっくりするんだから!」
頬を膨らませた私は、手を振り上げてノヴァの胸板をぽかりと叩く。自然とノヴァの手は外れて、戯れのような力しかない小さな妹の拳を受け止める形に動いた。
(ひぃいーっ!)
という怯えきった心の声は、もちろんノヴァには聞こえていない。
「そうだね。ごめんよエリー、僕の配慮が足りなかった」
今さら、挨拶代わりのキスが私の指の付け根に落とされる。
大人しくキスを受けながら、私は歯を食いしばってノヴァを見下ろしている。
十九歳になったばかりの頃のノヴァは、やはり美しかった。人形のようだと思っても、この男は物言わぬ人形よりよっぽど性質が悪く、残忍だ。
(悪いわね。もう、甘いマスクに惑わされるわたくしじゃないのよ)
私はもともと、皇族にしては遠慮がちで気弱なところのある少女だった。
侍女や使用人にささいな我が儘を言うことはあったが、相手が同じ皇族となると、何を言われても控えめな微笑みで受け流した。そうすることで立場の弱い自分を守っていた。
(でも、今のわたくしは違う)
舌を切られて処刑されて、未だに気が弱いはずなどあるまい。
不幸中の幸いというべきは、回帰前の私は、ノヴァにだけは変に態度を取り繕ったりはしていなかったということだ。それでも猫を数匹ほど被る必要はあるが、数十匹である必要はない。
私が笑顔を浮かべて用意していると、ノヴァが顔を上げる。
「そういえばさっきの言葉、どういう意味?」
「さっき?」
「『十中八九、ノヴァに利用される……』だっけ。そんなこと呟いてたから」
――ああ。私ってば、本当にどうしてこんな男を、慕っていたのかしら。
にっこにこーと満面の笑みを浮かべたまま、私は面の皮厚いノヴァに向けて、心の中で中指を立てている。
なんて、油断も隙もない男だ。きっと最初は本棚の裏にでも隠れて、様子を窺っていたのだろう。私の不審な独り言を聞きつけてから姿を現したのだ。
だが慌てず騒がず。私にはとっさの機転が働いた。魔塔に保護されるまでは、自分の身は自分で守らねばならないという強い決意が、頭を素早く回転させたのだ。
「ああそれなら、ノヴァ、ではなくて、ノバーね。ここよ、ここの記述」
開いていた古代書の、とある単語を人差し指で示す。
どれどれ、というようにノヴァが屈んで首を伸ばす。私の後頭部に吐息がかかる。吐きそうなほど苛立つが、どうにか我慢する。
傍目には、勉強を教え合う仲の良い兄妹のようにしか見えないだろう。私が思うのは、この図書館に他人の目がなくて本当に良かった、ということだけだ。
「ノバーっていうのは、ラプムでいう古代神が一柱みたい。豊穣を司る神なんだけど、ここに書かれているのは、そのノバーと敵対する神ゴウラの」
「分かったよエリー」
まだ説明し始めたばかりだというのに、参った、というようにノヴァが遮り、首を振る。
「僕にはこんな難解な字は読めないよ。本当にエリーはすごいな」
「ふふ。褒めたって何も出ないわよ?」
――口から出任せではない。
開いた黄ばんだページには、私が言った通りの記述が書かれている。
古代ラプム語を解読できるのは、ラプムの王族以外には居ないとされている。
だがノヴァを侮るわけにはいかない。私が本当に古代語を理解しているかテストしている恐れもあるのだ。
「それにしても、警備は何をしているのかしらね。不審者を図書館に通すなんて」
「不審者はひどいなぁ。僕はエリーのお兄ちゃんだよ?」
分かりやすく不機嫌を装いつつ、私は心の中で口汚く叫びたくなっている。
どうやらこの図書館も、私にとっての安らぎとはほど遠いようだったから。
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