第6話.兄の手



 翌日のこと。


 私はひとり、小さな図書館で書物を読んでいた。

 図書館と一口にいっても、文学や歴史、地質学に興味を持った貴族の令息が興味本位で足を運ぶようなところではない。ここには、初歩的な本は一冊もおいていない。


 古代語――正式名称は、古代ラプム語。

 そう呼ばれる言語の本を、帝国では金貨に物を言わせて、こぞって蒐集している。その本が集められているのが、この私専用の図書館である。


 分厚い図鑑のような、古びた装丁の本をぱらぱらと捲りつつ、私はふわぁと欠伸を漏らす。たまに欠伸ではなく、くしゃみをする。掃除はされているはずだが、古書というのは独特のにおいがあって、長時間この場に留まると鼻の奥がどうにもむずむずしてくる。

 私の十二歳の誕生祭は、早くも一月後に迫っている。皇帝はやきもきしていることだろう。私がいつ最初のスクロールを完成させるか、その披露目は誕生祭に間に合うかと気にしているはずだ。


(私の記憶では、そろそろ晩餐会に呼ばれるはず……)


 以前……十一歳だった頃のエリーシェならば、血眼になってスクロールを書くのに躍起になっていた時期だ。皇帝や兄の期待に応えようと必死になっていた。努力の末に捨てられるとは知らなかった、純粋な頃だ。


 今の私は、勉強する振りをしている。頭の中には、すでに数億にも及ぶ難解な古代ラプム語の言葉が叩き込まれている。今さら覚えることは何もない。ただ、図書館に居る間は、誰の監視の目もなくひとりになれるのがありがたい。

 ラプムの言語体系はあまりにも独特で、独創的だ。単語ひとつ取っても、多くて六十の意味がある。前後の文脈や、謎めいた飾り記号の種類や有無によって、意味が正反対に変わったりもする。古代の王族が使った、魔術を用いた解読不能の暗号のようなものだ。


 古代ラプム語に辞書はなく、師はない。私は母イヌアが遺した日記を足がかりにして、自力で古代語を読み解いていったのだ。

 三歳の頃から、当たり前のようにそうしていた。ひとつの単語を解読するたびに、ノヴァが褒めてくれたからだ。しかし誰も、幼い私に絵本を読んでくれる人は居なかった。


 なんのために、血反吐を吐くような思いをして頑張ってきたのだろうか。

 その答えは、今はまだ、私には分からない。これから見つけなくてはならないのだ。


(それにしても、マヤに事情を明かしたのは正解だったわ)


 ふふふ、とほくそ笑む。

 といっても、自分が過去に戻ってきたとか、ノヴァに罠に嵌められただとか、そんなことを馬鹿正直に打ち明けたわけではない。

 ノヴァが私のことを溺愛しているのは――たとえポーズであっても――周知の事実なのだ。「姫さまご乱心!」などとマヤに思われて医者でも呼ばれたら、それこそすべてが台無しになる。


 だから私は、マヤにこう言った。


『私は、母から受け継いだスクロールを扱う力を、戦のためには使いたくないの。そんなことになったら、きっとネーレミアはラプムと同じように滅びてしまう……大好きなノヴァお兄様が暮らす国を、沈めるわけにはいかないわ』


 最初はそんなことありません、と首を振るマヤだったが、私が涙と共に語れば、最後はいたく感動するまでに至っていた。



『だから私、魔塔に入りたいの。魔法のエリートだけが入れる、秘密にして孤高の塔……魔塔に入って、この力を後生に語り継いでもらうのよ!』



 それは回帰前から、私が考えていたことだ。

 幸い、考える時間はいくらでもあった。生き残るためにどうすればいいのか、考え抜いた末に、私が頼ろうと決めたのが魔塔だ。


 魔塔――ネーレミア帝国の西側に位置するソル共和国の外れに実在する、魔術結社である。

 魔塔では、優れた魔術というより、特殊で珍しい魔術を扱う人間を歓迎する。人々の手により神秘が解き明かされつつある時代において、それでも解明できない域の魔術を後世へと語り継いでいくのが、魔塔の設立目的だという。


 実在するのは確かなのだが、存在する具体的な場所、トップの人間、組織の大きさ、所属するメンバーと、多くの情報が秘密のヴェールに包まれた組織である。

 彼らは、基本的に政治や災害に干渉しない。ただ、そこに居るだけというものだが、魔術結社の中では最大勢力と呼べる規模を誇るとされる。

 どの国のどんな立場の人間であっても、魔塔には敬意を払い、彼らの邪魔はしない。ひとりで一個師団に匹敵する魔術を扱うような化け物も抱える集団に、誰も表向き喧嘩は売れないのだ。


(つまり――大帝国ネーレミアの皇族すら、魔塔には手出しができない)


 私が魔塔に入ってさえしまえば、勝ちだ。

 皇帝もノヴァも、スクロールを生み出す力を欲していても、もう私を利用することはできなくなる。


 私はにんまりと笑う。マヤは、私にとっておきの情報を教えてくれたのだ。

『これは、使用人たちにも箝口令が敷かれていることなのですが』と前置きした上で、マヤは耳打ちしてきた。


(まさか、私の誕生祭を、魔塔の人間がこっそりと見に来てるらしいなんてね……!)


 情報の真偽はともかく、今の私にとっては渡りに船だ。

 しかしそれを聞いて、じゅうぶんあり得るだろうと思えた。私は滅亡した国の唯一の生き残りなのだ。スクロールを扱う特別な力を、魔塔が無視するとは思えない。必ずネーレミアにやって来て、さてどんなものかと見物するはずだ。


 回帰前には、そんなことを聞いた覚えがなかった。やはりノヴァが、噂を広げることを禁じたせいだろう。万が一にも妹の耳に入らないよう仕向けたのだ。私を魔塔に奪われるわけにはいかなかったから。


(これは、さっそく魔塔にアピールできるチャンスよ)


 私の有能さを見せつけて、ほしい人材だと思わせられたら、容易く目的は達成できる。

 だが、問題はあった。回帰前と同じように私が広場に雨を降らせたとしよう。そんなことをしたらどうなるか。


「十中八九、ノヴァに利用される……」


 私は頭を抱える。

 前回の人生では、魔塔の人間から一度も声をかけられなかった。おそらく、ノヴァが食い止めていたからだ。大事な戦道具を、むざむざ引き渡さないために、接触を邪魔していたに違いない。


「こいつ使えるぞ」とノヴァに思われたら、困るのだ。「使えるけど、微妙」くらいがいい。だが微妙すぎると、魔塔の人間は保管する価値のない魔術と捉えて、さっさと帰ってしまうかもしれない。そうなると私は、ずっとノヴァの近くで息を殺して生きるしかなくなるのだ。あるいはどこか、ちょうどいいタイミングで消される可能性だってある。


「どうしよう……」


 私が項垂れたときである。

 突然、視界が真っ暗になった。


(ひぇっ!?)


「だーれだ?」


 間もなく聞こえてきた悪戯っぽい声に、私の心臓が凍りつく。

 動悸が激しくなる。呼吸が荒くなり、ひゅ、ひゅ、と変な音が喉から漏れる。


 こんな下らない真似をしてくる相手を、私はひとりしか知らなかった。



(――――ノヴァ)



 私を死に追いやった男が、今、背後に居る。



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