第5話.十一歳のエリーシェ
「ひいいっ……!」
ぞぞーっと、私の背中に怖気が走る。
きっと全身の鳥肌が立っている。私は二の腕を擦った。毎日、香油を垂らした湯に浸かり、マッサージを受けて手に入れたすべすべの肌だ。間違っても、老婆じみた枯れ枝のような腕ではない。
「うう……」
涙が出そうだ。実際に私は涙ぐんでいた。最高級の羽毛クッションはなんと柔らかく、温かいのだろう。夕方になり、穏やかなオレンジ色の光を灯すランプは、こんなにも目に優しかっただろうか。
この部屋には、回帰前のエリーシェ・ネーレミアが失ったすべてがあった。富に縋りつくのは愚かなことかもしれないけれど、あの牢での日々に比べれば、きっとどんな寂れた家の中だろうと天国に思えたはずだ。
あのとき――牢でたったひとり、二十歳のエリーシェは深く絶望していた。
しかし絶望し、すべてを諦めたわけではない。ノヴァの存在が、あの毒々しくおぞましい口づけが、エリーシェを奮起させたのだ。
(――そう。私は自分の舌裏に、呪文を書いたのよ)
ノヴァに裏切られ、殺人犯の汚名を着せられた私には、それだけが憎きノヴァに一矢報いる方法だった。
舌裏をスクロールに見立てて、先端を尖らせたスプーンで文字を書いた。傷ついた舌からは想像を絶するほどの血が滴った。喉が詰まり、何度も咳き込んでも、私は痛みを堪えて文字を書き続けた。
スクロールに使う魔術紙は特殊な素材で、手元にはなかったが、私の魔力が漲った舌であれば、同じように扱えたのだ。
スクロールで発動できるような古代魔法は、どれも規模が大きいものばかりだ。危険極まりない魔法の中でも、禁忌と称されて、焼き払われた魔法がいくつかある。
私はそのうちのひとつを、自力で復活させた。
「時間を巻き戻す魔法、ちゃんと成功したのね……」
スクロールを破けば魔法が発動する。
罪人として私は舌をちょん切られた。
やれやれと千切れた舌を回収した刑場の人間たちは、気がついただろうか? そこにあまりにも微細な、数千に及ぶ古代文字が刻まれていたことに……。
「ふふ。お兄様に褒めてほしくて魔法を復活させたのが、役に立ったわね」
失われた魔法を扱えるなんてすごいね、とノヴァに言ってほしかった。その一心で私はがんばった。とてもとてもがんばったのだ。
努力の日々を思い、ほのかな笑みを浮かべていた私だが――次の瞬間には歯を食いしばっている。与えられた屈辱の数々が鮮明に眼裏に甦っていたからだ。
「違う。ク・ソ・あ・に…………よ!」
ぺちん、と私は自分の頬を叩く。二度とあの男を兄などと呼ぶものか。いや、本人を前にしたら、致し方なく呼ぶ羽目になるだろうが……。
はぁ、と私は溜め息を吐く。
八年前に戻ってきたのはいい。でも、これからどうしたらいいのかしら。
侍女のマヤに確認して、今が帝国暦七百二十五年ということが分かった。
アマリリスの花が飾られているから、季節は春。私の誕生日は夏だから、十二歳の誕生祭まではまだ少しだけ時間がある。そのはずだ。
(ぼんやりしていたら、また同じ道を辿ることになるわ)
ノヴァに利用し尽くされ、ぼろ雑巾のように捨てられる未来だ。そんなのは二度とごめんだ。
しかしどうすれば、ノヴァの手から逃れられるのか。スクロールを扱えるとひとたび分かれば、ノヴァは私を戦の道具として使い、簡単に手放しはしないだろう。
(でも、スクロールが使えないとアピールしたとして……)
無能でーすと宣言したところで、それをノヴァが素直に信じるだろうか?
私にはそうは思えない。むしろ書けるようになるまで、食事を抜きにして、鞭を打って、私に強制するかもしれない。
「お、お先真っ暗だわ……」
がっくりと私は項垂れる。どう想像しても、悪い方向にしか思考が働かない。
しょんぼりしていると、叩扉の音がした。入ってと許可すると、侍女のマヤがやって来る。しばらくひとりにしてと伝えて遠ざけていたので、心配そうな顔をしている。
「エリーシェ様、お加減はいかがでしょうか? お夕食は食べられそうですか?」
(この子は……きっと、私の味方と考えていいはず)
じーっと食い入るようにマヤを見つめながら、私はそう判断する。
彼女はとっさに私を突き飛ばして助けてくれた。マヤが居なければ、私はあの場で八つ裂きにされて死んでいた。
それにマヤはお茶会の会場を離れた私を、何度も呼び戻そうとしていた。そうすれば私はやっぱり風の刃に裂かれていたわけだから、マヤがノヴァのスパイとは考えにくい。
ノヴァの手際の良さからして、最初からあいつは私に罪を被せるつもりだったはず。他の皇族と一緒に死んでいたら、冤罪を被せるどころの話ではなかっただろう。
(そういえば、あのとき……実行犯の男が、焦っているように見えたわ)
まさか私に見つかるとは思わなかったのか。慌ててスクロールを紐解いてしまったせいで、うっかり私も巻き込まれて死にかけたのだ。
もしもマヤがノヴァ一派の手の者であるなら、むしろうまく私を誘導していたはずだ。などなど、あらゆる面から考えて、マヤは私の味方となり得る人材だと判断を下すことにする。
「……ねぇ。少し内緒の話がしたいわ」
「内緒の話、ですか?」
マヤが小首を傾げる。私はごくりと唾を呑み込み、こう言った。
「マヤ。あなたに相談したいことがあるの」
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