第4話.嘘吐きへの罰



 エリーシェはドレスを剥ぎ取られ、ぼろぼろにすり切れた服を着せられた。それも、名も知らぬ男たちによって無理やり着替えさせられたのだ。皇女にとってはひどい恥辱だった。


 わけが分からないまま、エリーシェは投獄された。

 大罪人が死ぬまで押し込められるという地下牢には、そこかしこに血痕があった。他に投獄されている者は居ないようだったが、すえた異臭のする牢の中は、ぞっとするほど冷酷な気配があった。


 そこに入ってから、どれほどの時間が経ったのだろうか。光の射さない地下牢では、朝も昼も、夜も分からなかった。粗末な寝台は横たわるだけで身体中が痛くなり、一度も満足な眠りにはつけなかった。

 食事は、毎日一度だけ、朝なのか夜なのかも分からなかったが、黴びたパンと腐った水が与えられた。エリーシェはそれが辛かった。何も与えられなければ、飢えて死ぬだけだったのに、パンと水があると、どうしても手を伸ばしてしまうのだ。そのたびに腹を下して、苦しむ羽目に陥ると分かっているのに……。


 苦痛の日々は長く続き――寝台に背を預けていたエリーシェは、ゆっくりと顔を上げた。

 濁った瞳で見つめる先、長い影が揺らめいている。見張りか食事を持ってくる看守が持つ、手燭の炎の揺らめきのせいだ。


 カツン、カツン、と規則的に響く、硬質なブーツの音。

 閉じられた記憶の底が開けられた気がした。エリーシェは痩せ細った足に力を入れてなんとか立ち上がったが、歩く体力はなかった。


 じゃらじゃらと鍵束を鳴らしながら、その男は鍵を開けて牢の中へと入ってきた。

 床においた手燭の明かりで、顔が照らされる。ノヴァだった。

 やつれきったエリーシェを、変わらぬ美貌のまま、じっと見つめている。

 エリーシェは、ひび割れた唇を開いた。


「お、おに、い、……さま」


 縋るように、エリーシェは何度もノヴァを呼ぶ。

 最後に見た彼の顔を、今も鮮明に覚えている。それなのに、ノヴァが会いに来てくれたことに、希望を抱かずにいられなかったのだ。


 すべて嘘だと言ってほしかった。これは何かの間違いだと。

 エリーシェは皇族を殺していない。誰のことも殺していない。ノヴァならば、きっとエリーシェの無実を証明してくれるはず――。


「可哀想に。あんなに美しかったのに、見る影もない」


 ぽつりと、ノヴァが呟く。


 ノヴァが近づいてくる。彼の伸ばした手が、エリーシェの頭を撫でた。

 それだけで涙が出た。腐った水しか与えられていないのに、身体の中にまだ穢れのない水が流れていたのだ。

 エリーシェはこの手の感触が大好きだった。母の手を知らないから、ノヴァの手の温かさだけが、エリーシェに家族というものを教えてくれた。白銀色のきらめきを失った髪でも、変わらずノヴァは愛でてくれるのだと嬉しくなった。


 だが――エリーシェは勘違いをしていた。

 ノヴァは彼女を撫でていたわけではなかった。頭皮ごと髪の毛の束を引っ張っている。あまりの痛みにエリーシェは叫んだ。


「い、いたい、わ……やめて!」


 ノヴァがぱっと手を離す。

 過度の栄養失調のせいか、心身にかかる負荷のせいだろうか。毛の束はごっそりと抜け落ちて、ノヴァの手に絡みついていた。


 ぐすぐすと泣くエリーシェに肩を竦めて、ノヴァは髪の毛を払う。はらはらと、床に散っていく長い髪に見向きもせずに。


「エリーシェ。お前は今までよく頑張ってくれたよ」

「…………」

「お前が描いたスクロールのおかげだ。あんなに優秀な殺人兵器はないよ。あれさえあれば、どんな敵だろうと殺せる。どんな大国だろうと消し飛ばせるんだ。本当にすごいよ」


 揺らめく炎による見間違いではなく、ノヴァの頬は紅潮していた。

 くすくすと楽しげに笑うノヴァを見やる間に、流れる涙は乾ききっていた。


「……お兄様、が、やったのね」


 先を促すように、にやにやと笑いながらノヴァがエリーシェを眺める。


「あの男……花の宮で見かけた男、スクロールを持って、いたわ。あれは私の……」

「今さら気がつくなんて、馬鹿な子だ。――いや、信じたくなかったのかな? 僕がそんなことをするなんて」


 事あるごとに邪魔をしてくる政敵を一掃するのに、ノヴァはエリーシェのスクロールを使ったのだ。

 何もかもを切りつける、巨大な風の刃を生むスクロール。それをエリーシェが使ったように見せかけて投獄した。

 エリーシェは能力の特異性ゆえ、他の姉妹のように他国への縁談話が持ち込まれることもなかった。だからといって、国内から嫁ぎ先もむやみに選べなかったのだろう。飼い殺しにするよりも、消すほうが手軽だと判断された。じゅうぶんな数のスクロールを作り上げたからだ。


 もうエリーシェは、必要とされていない。


 がらがらと、何かが、崩れていく音がする。

 立っていることもできなかった。倒れそうになるエリーシェの顎を、無理やりノヴァが掴んだ。


 一瞬、何をされたのか分からなかった。


「んっ……!?」


 エリーシェはくぐもった声を上げる。

 唇を塞がれていた。他でもない、ノヴァの唇にだ。

 混乱する。息ができない。それは愛し合う男女が、お互いを確かめるためにする神聖な行為だ。本で読んだから知っている。どうして、ノヴァは、エリーシェに……。


 ほんの数秒で、唇が離れる。

 ノヴァはエリーシェの顎を指で掴んだまま、見下ろしていた。真っ赤な目から目が離せない。夜闇よりもずっと濃い髪に、彼が黒い蛇と呼ばれ恐れられているのを思い出す。


「ははっ。田舎の娼婦の唇より臭いな」


 エリーシェは呆然と、ただ目を見開いていた。

 何を言われたのだろう。理解が追いつかない。追いついてほしくないとすら思う。


 だが、ひとつだけ分かったことがある。

 見透かしていたのだ、ノヴァは。近頃のエリーシェが彼に抱いていた愛情の種類に。そしてそれすら余さずに利用した。

 ――否、そもそもエリーシェがノヴァを慕ったのも、ノヴァが仕向けたことではないか。同世代の少年たちから遠ざけられて過ごすエリーシェには、ノヴァしか居なかった。無知な少女を夢中にさせる方法など、ノヴァはいくらでも知っていただろう。




「愛してるよ。可愛い僕の妹。僕の叡智。……だが、お前はもう必要ない。悪いがここで死んでくれ」




 うっとりするほど美しい声音で囁くと、ノヴァはひらひらと手を振って去って行った。

 鍵が閉められる。階段を上る音がして、重い鉄扉が閉まる音が響いてから――しばらく経っても、エリーシェは身動きひとつ取れなかった。


 やがて、崩れ落ちるようにして、エリーシェは硬い土の上に座り込んだ。

 涸れたはずの涙がまた、冷たい地面に染み込む。自分の意思では止められなかった。エリーシェは声を上げずに泣き続けた。

 頭の中心が熱く煮えているようだったのに、四肢は冷たく強張っていて、動かし方を忘れてしまったようだった。


「…………か、かみついてやれば、良かっ……」


 どんな貴人より形の良い唇。柔らかく艶のある唇。恋い焦がれた唇を、力任せに食いちぎってやれば良かったのだ。今さら後悔するけれど、二度とノヴァが姿を見せることはないだろう。


(……そうだわ)


 涙でぼんやりとした脳に、ひとつの閃きが走る。

 エリーシェは水を入れていた器から、小さな匙をとりあげた。エリーシェはそれを掴むと、何度も壁にぶつけ始めた。気が遠くなるほど何度も、何度も、何度も…………。





 それから、おそらく数日が経って。

 兵に引き立てられて、エリーシェは刑場へと連行された。両脇を持ち上げられた枯れ枝のようなエリーシェは、逆らうこともできなかった。


(罰、なのかしら。これは)


 ノヴァに唆されるまま、ノヴァのためにと、大量の呪文をスクロールに刻んできた。

 一度も後悔したことはなかった。だがそのせいで何千、何万人もの人が死んだ。戦場を目にしたことはなくとも、エリーシェの両手はとっくに血にまみれている。

 嵐に切り裂かれ、濁流に呑み込まれ、炎で灼かれる人々と共に、エリーシェは浅い夢の中で何度も死んだ。家族や恋人を失った人の手で首を絞められた。怨嗟の声は今も、頭の奥で鈍痛のように響き、エリーシェを呪っている。


 罰だというのならば、エリーシェはすべてを受け入れるべきだ。

 だけれど――。


(罰であるなら……私を殺すべきは、ノヴァじゃないわ)


 スクロールによって途方もない利益を得てきた男が、邪魔者になったエリーシェを排除しようとしているだけ。

 つまりこれは、罰などではない。ただ兄の計略にエリーシェが嵌められただけ。


「命乞いは?」


 だからエリーシェは、命乞いなどしない。

 首を振れば、執行人の男が高らかに告げる。



「それでは処刑方法を告げる。帝国に勝利を運ぶ女神を自称しながら、皇族六名を虐殺した罪深き女よ。お前の偽りばかりを口にする舌を切り落とす」



 後ろから首を掴まれて、息が詰まる。

 口の中から舌を引っ張り出される。名前も知らない、異様なほど大きな鋏が、目の前に迫ってくる。


 ひどい恐怖で呼吸が荒くなり、視界が暗く狭まっていく。

 だがエリーシェは目を閉じなかった。音を立てて開いていく鋏を、これから自分の舌を切り落とす刃を、黙って見つめていた。


(……偽りばかりだったのは、私じゃない)


 布石は打った。あとはただ、成功を祈るのみだ。

 鋭い刃に、あの顔が映ったような気がした。エリーシェは心の中で叫ぶ。



(お前よ、お前こそ稀代の大嘘吐きよ、ノヴァ・ネーレミア――!)




 そうして刑場に、命が終わる音が響く。

 舌が切断されていく、その音が――。



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