第3話.流転の日



 偉大なる魔法を王都で披露したその日から、エリーシェの人生は変わった。


 帝国貴族の反応は大きく二つに分かれた。

 エリーシェをおだてて媚びへつらい、彼女の名声にあやかるか。あるいは、エリーシェを恐れ、距離をおくかのどちらかである。ただし、エリーシェの顔色を窺うのは誰もが同じだった。


 辟易とする日々の中で、兄と過ごす時間だけが、エリーシェに安らぎを与えてくれた。


「もっと胸を張っていいんだよ、エリー。エリーは他の誰も持たない力を持っているんだから」


 七つ年上のノヴァは、エリーシェをこよなく愛してくれた。彼が褒めてくれるたびに、エリーシェは自分は優れた人間なのだと自信を持つことができた。ノヴァの言葉だけは、本物だと思えたのだ。


 ノヴァは生まれつき魔力を持たなかった。皇族には珍しい体質を、幼い頃は揶揄されて苦労したようだが、彼はそんな逆境を、卓越した剣術によって跳ね返した。十七歳にしてソードマスターの称号を得たのは、彼自身の実力だった。

 帝国はここ数年、領土の拡大を控えていた。しかしノヴァの存在がすべてを変えた。数年後、ノヴァは軍部を掌握し、兵を率いて他国に進撃した。

 ノヴァは倒れた敵兵の服で剣についた血脂を拭っては、最後のひとりを仕留めるまで銀刃を振るった。全身にこびりついた血が黒くなったその姿は、いつしか味方からも敵兵からも、黒い蛇と呼ばれるようになったという。


 ノヴァの大きな力となったのがエリーシェだ。エリーシェはノヴァのために、母の遺した書や、古代の言葉が眠る遺跡を調査し、眠る間も惜しんで熱心に古代語を学んだ。ひとえに、戦に役立つスクロールを書きたかったからだ。


 エリーシェは当初、雨を降らせるスクロールなどは、漠然と農業に役立つだろうくらいに思っていたが、ノヴァはそれすら戦に利用した。

 辺り一帯の天気を操ることができるスクロールの力は、他国の兵を思いのままに蹂躙したという。宮殿でノヴァの帰りを待つエリーシェは、その様子を目にすることはなかったが、ノヴァの武勲を聞くたびに嬉しく、誇らしい気持ちになった。同時に、次の戦ではノヴァが帰らぬ人になるのではないかという怯えも感じていた。


「任せて、お兄様。私は必ずお兄様の力になるから」


 似たようなことを、何度もエリーシェはノヴァに伝えた。そのたびノヴァはエリーシェの頬に口づけて、「お前は僕の勝利の女神だよ」と言ってくれたものだった。


(私が、お兄様に勝利を運ぶ)


 ノヴァの言葉は、エリーシェに力を与えてくれた。


 天候操作のスクロールだけではない。大地を割る魔法、何もないところから海を呼ぶ魔法、台風を起こす魔法……あらゆるスクロールを、エリーシェは作り続けた。何十、何百ものスクロールを生んだのだ。

 その結果、次々と見知らぬ土地に帝国の旗が打ち立てられていき、ネーレミア帝国は植民地を増やしては肥大していった。ノヴァとエリーシェの活躍を讃える声は帝国中に響き渡り、エリーシェは人々から「叡智の姫」、「スクロールの姫」と呼ばれるまでに至った。





 ――そして、帝国暦七百三十三年。

 それはエリーシェが能力を開花させてから、八年後のことである。


 二十歳になったエリーシェは侍女を連れて、花の宮と呼ばれる離宮の庭園を歩いていた。

 花の宮ではその日、年の近い皇族とその母親が集まっての茶会が開かれていた。しかしエリーシェは途中、適当な理由を告げて抜け出してきたのだ。

 昨夜、ノヴァが帝国に戻ってきた。凱旋のパレードのあと、疲れた彼は休んでいるそうで、エリーシェはまだ遠目に見ることしかできていない。それに今日の会はノヴァの活躍を疎んじる皇族が多く、席につくだけで憂鬱だったのだ。


「エリーシェ様、そろそろ戻りませんと」

「……何度も言わなくても分かってるわ」


 窘めてくる侍女に、エリーシェはうんざりと返す。

 近頃は、ほとんど眠れていない。連日のようにノヴァに頼まれたスクロールを作り続けて、魔力が消耗している。それが回復しきるのを待つ暇もなく、スクロールの制作に取り掛かる。その繰り返しだ。


(早くお兄様に会いたいわ)


 無事な姿は確かめられたけれど、二人きりで会いたかった。

 会って、また、頬を撫でて、抱きしめてほしい。エリーはすごいと。さすがは僕の女神だと……。


 ふと、エリーシェの耳が何者かの足音を拾った。

 驚いて目を向けると、花の宮を囲むように生い茂る木々の間に、人の服のようなものがちらついた。その人物の手元に、何か――。


「ねぇ、あそこに誰か、」


 言いかけたエリーシェの肩が突き飛ばされて、次の瞬間には華奢な彼女は宙に投げ出されていた。


 それは、人の身体を浮かせる魔法だ。

 脆弱な魔力のせいだろう。飛んでいる時間はそう長くはなかった。エリーシェは悲鳴を上げる余裕もなく、ため池の中に勢いよく突っ込んでいた。


「っ……ぶは!」


 しばらく経って、泥っぽい水の中から、エリーシェは自力で顔を出す。

 鼻に水が入って苦しい。エリーシェは何度も咳き込んだ。そもそも足のつく程度の水量だったのだが、そんなことが問題なのではない。


「ごほっ、うぇ……」


 涙目で咳をするエリーシェの身体は、冷たさと怒りに震えている。

 エリーシェを魔法で浮かして突き飛ばしたのは、風の魔法を使う侍女だ。

 しかし許可もなく皇族を浮かせるなどと、鞭打ちどころではなく、死刑にしても差し支えないほどの大罪だ。


「ちょっと、あなた――!」


 しかし口にするはずだった怒りの言葉は、形にならなかった。


「な……なんなの、これ」


 ぼたぼたと髪から水滴を垂らしながら。

 エリーシェは目の前の光景に、呆然としていた。


 突如として、突風か竜巻でも起こったのか。木々は薙ぎ倒され、花や芝が千切られ、地面に敷かれた石畳の表面には、岩より硬い刃物で裂かれたかのような亀裂が走っている。

 距離があったからか、宮殿の建物こそ、いくつも傷を刻みながら現存している。だが、茶会の場となっていた中庭は――。


(……あの赤い色彩は……なに)


 削り取られた芝生の色を変えるほどに、赤いものが散っている。その様子は、視界を遮るものがなくなったせいで、よく見ることができた。

 着飾った首や胴体、足が、それぞればらばらにいくつも転がっているのは、どうしてだろう。あんな形で動く人間など、居るはずがないのに……。


 池の向こうが、別の世界へと繋がっていた――そう言われたほうが、まだ、信じられたかもしれない。

 だが、そうではない。それを証明するものが、すぐ近くにあったからだ。


 ほんの小さな布の切れ端が、割れた石畳に引っ掛かっていた。

 だが、その色には見覚えがある。侍女のお仕着せに使われている布だ。そう分かっても、拾うことはできなかった。手を伸ばすこともできない。額の中心から、すぅっとした冷たさが全身に広がっていく。


 エリーシェは池の中に、力なく座り込んだ。

 下着までもが汚れた水で濡れていくが、気持ち悪さは感じなかった。感覚という感覚が麻痺していた。


「……しん、だ?」


 ほんの数分前まで共に歩いていた侍女が、死んだ。

 しかし、死体を捜す勇気はなかった。茶会の場に向かう気力もない。もしも、もう少し近くでそれを見てしまえば、エリーシェの心をすんでのところで守っている防壁のようなものは、簡単に崩れ落ちてしまうだろう。


「居たぞ! あっちだ!」


 エリーシェははっと顔を上げた。

 重い鎧とブーツの足音がいくつも近づいてくる。よく訓練されたその音の意味を、エリーシェは混乱していても、否、だからこそ確実に理解していた。


「お兄様!」


 エリーシェは震える足でどうにか立ち上がった。

 わけのわからない状況も、ノヴァが居ればどうにかしてくれる。エリーシェを救ってくれる。そう思っていたし、信じていた。


「お兄様、ねぇお兄様、」


 そうして涙ながらに駆け寄ろうとしたエリーシェの行く手を、交差した二本の槍が阻む。

 びくりと立ちすくんだエリーシェは、狼狽えながらもその名を呼ぶ。


「お、お兄様?」

「…………」


 返事はなかった。

 代わりに兵士たちの向こうからエリーシェを見下ろすのは今まで一度も見たことのない、冷たく凍りついた瞳――。


 驚きのあまり硬直するエリーシェに、ノヴァは温度のない声でこう言った。



「エリーシェ・ネーレミア。お前を皇族虐殺の容疑で捕らえる」



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