第2話.彼女の持つ力
帝国歴七百二十五年。
後の世の人々に、その年にあった印象的な出来事は何かと問えば、十中八九、エリーシェ・ネーレミアの名を挙げることとなるだろう。
――
スクロールには例外なく、古代の偉大なる大規模魔法が刻まれている。現代魔法では再現できない魔法の神髄が詰まったその巻物を、新たに作り出すことのできる存在はひどく限られていた。
ラプムという小さな島国――その直系たる王族だけが、この地上で唯一、スクロールを生む能力を持つ一族である。
水資源が豊富な国だった。特別に裕福ではないが、民は誰も飢えることはなかった。
しかし穏やかな青の国・ラプムは内乱により滅びた。王太子と同腹の弟が軍を率いて戦い、互いにスクロールを持ち出したからだ。それまでは争いの種とならぬよう、封印されていた巻物を、彼らは管理者たる叔父を殺してまで奪い取ってしまった。
突如として湧き起こった洪水によって、民も、家も、城も、土地も流されていった。
大地が割れ、水の溜まった奈落の底に、誰もが落ちて死んでいった。無論、戦を始めた王族たちも例外ではない。
そうしてラプムは一夜のうちに滅びたが、ひとりだけ生き残った女が居た。
イヌア――ラプムの王女たる彼女は、しかし、生き延びてはならぬ女だった。他国に渡ってはいけない女だった。ラプムの王族は、どんな矛よりも強い武器となるからだ。
イヌアを救い出した国の名を、ネーレミア帝国という。
そのときにはすでにイヌアの腹が膨れていたことは、公然の秘密とされている…………。
◇◇◇
「エリー、緊張してるのかい?」
艶やかな糸を束ねたかのような白銀の髪に、底知れぬ青い瞳。
陶器のような白い肌に、さくらんぼ色の唇。天上と海から、美しい色彩だけを拾い集めて形作られたようなたおやかな美貌の少女は、その呼びかけに振り向いた。
ふわりと、ドレスの裾が丸く膨らむ。
「……ノヴァお兄様」
エリーシェは大きな瞳を柔らかに細めて、美しい次兄を見やる。
ネーレミア帝国第二皇子ノヴァ・ネーレミア。濡れたような黒髪に、鮮やかな紅い瞳を持つノヴァの色は、エリーシェとは正反対だ。その色こそ、ネーレミア皇族の特徴でもあるのだが。
「ねぇお兄様。私は、生まれるべきではなかったのかしら?」
「誰に、何を言われた?」
かつかつとブーツを鳴らして近づいてきたノヴァが、エリーシェの華奢な肩に手をおき、あくまでにこやかに微笑む。
「言って、エリー。そいつの首を城壁にぶら下げてやるよ」
「そんな趣味の悪いアクセサリーはいらないわ。……あのね、私はお母様に抱かれたまま、海の底に眠るべきだったんじゃないかしら」
その愛称でエリーシェを呼ぶ人は、ノヴァを除いて居ない。
名付け親でもある母親のイヌアは、エリーシェを産む前に死んでしまった。内乱で負った傷が悪化して、彼女を蝕んだのだ。エリーシェは、死んだイヌアの腹の中から取り出された。しばらく息をしなかったが、医者たちが手を尽くして、こうして小柄ながら大きな病もしないで育っている。
「エリー、それは大きな間違いだ。もし君が母君の腹の中で死んでいたら、僕は君に出会えなかった」
「……そんな風に言うのはお兄様だけよ」
エリーシェは眉尻を下げて微笑む。
自分の存在が、帝国の貴族に歓迎されていないことは知っている。災いの種になるだろうと、彼らはエリーシェを……エリーシェの血と力とを恐れているのだ。
だがノヴァだけは、母もおらず頼れる者の居ないエリーシェを、いつだって家族のように大切にしてくれる。そんな彼の期待には、エリーシェは応えたいと思ってしまう。だから、幼い頃から必死に勉学にも励んできた。
今日はエリーシェの十二歳の誕生日だ。
そしてこの日、エリーシェは半月もかけて生まれて初めて書いたスクロールを、帝国民へと披露するのだ。
「ほら、合図だ。行っておいでエリーシェ」
「……ええ。頑張ってくる」
背中を優しく押し出され、エリーシェは薄暗がりから歩き出した。
帝国王都の広場を見渡せるテラス。この建物は、主に皇帝が言葉を述べる際などに使われる宮殿だが、今日ここで姿を見せるのはエリーシェだけである。
まぶしさに、エリーシェは手で庇を作る。閉じた目蓋の裏側にまで、強い陽射しが這入り込んでくる。
がやがやと騒がしかった民衆が、少しずつ静まり返っていく。エリーシェがゆっくりと目を開けば、こちらを注視する目を感じた。
白銀の髪と青い瞳は、ラプムの王族の特徴だ。誰もが一目見て、エリーシェが滅びた国の生き残りの姫だと理解しただろう。
エリーシェは、皇帝の侍従よりうやうやしげに渡された巻物――スクロールを手に取ると、はらりと封を解いた。
痛いほどの静寂。何千もの目が自分の一挙一動に注目しているのを感じながら、スクロールを、力を入れて縦に裂く。
そのとたんだった。
人々は頬や額に刺激を受ける。テラスに立つエリーシェではなく、さらに上――先ほどまで青く晴れ渡っていた空を見上げる。
見る見るうちに空が灰色に燻ったかと思うと、叩きつけるような雨粒が一斉に、地上に降り注いだ。
疑問の声が、エリーシェを讃える声に変わるまで、そう時間はかからなかった。帝国には長い間、雨が降っていなかった。乾いた大地に染み込むように、水滴は絶えず地上を濡らしていく。歓喜に沸く人たちの顔が、桶の水を被ったように水浸しになっている。
自分を見上げ、笑顔で両手を掲げる帝国民たちの姿を、エリーシェはぼんやりと見下ろしている。
「エリーシェは本当にすごい子だ」
ノヴァが褒め称える声は、人々の歓声に隠れて聞こえなかった。
エリーシェがおずおずと後ろを向くと、ノヴァはよくやったというように優しく微笑み、頷いた。それを見てようやく、エリーシェはにっこりと笑うことができた。
ほんの数秒前まで、兄の頬を歪めていた笑みが見えなかったのは、果たしてエリーシェにとって僥倖であったかは、その時点では誰にも知る由のないことだったが。
――帝国暦七百二十五年。
それはネーレミア帝国第七皇女が、母方から受け継いだ特別な能力を開花させた年である。
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