スクロールのお姫さま ~逆行した天才姫は、執着兄から逃れたい~
榛名丼
第1話.巻き戻った世界
「――――――あああ……っ!」
叫びのような。断末魔の悲鳴のような。
喩えようのない絶叫のような声を上げて、私――エリーシェは目覚めていた。
まず目に入ったのは、見慣れた天井だ。
跳ね起きるようにして上体を起こした私は、ほとんど半狂乱の状態で周囲を見回した。
細やかなレースのついたカーテンが窓際で揺れている。
壁にかかった、天使が描かれたお気に入りのタペストリー。鮮やかな赤いアマリリスを活けた花瓶。
毛布の中で眠るうさぎのぬいぐるみ。漆喰を塗り込まれたテーブル。少しずつ少しずつ、背伸びを始めた頃の内装……。
込み上げる懐かしさに喉がぐっと詰まる。
幼い日を過ごした部屋が、記憶の底と同じ温かさを湛えている。
「あ、うぅ。ああ……」
ぱくぱくと口を開閉させた私は、大きく身体を震わせる。
騒いでいるのに、部屋の外の人間が気がついたのだろう。ドアが開く音がして、びくりとしていると。
「どうされましたかエリーシェ様。何か恐ろしい夢でも見られましたか?」
可愛らしい、若い女の子の声がする。予想とは違うものだ。
慌てて近づいてきた彼女は、寝台の横にしゃがんでこちらを窺ってくる。
その侍女の顔には、見覚えがあり――私は今度こそ完全に言葉を失ってしまう。
記憶しているよりずいぶん若々しいけれど、確かに彼女はあのとき……。
(どうしてこの子が、ここに居るの)
いや、違う。
私はどうして、
(…………夢?)
もしかして自分は彼女の言う通り、ただ悪夢を見ただけだったのか。
そう思い込めればどんなに楽だったろう。でも私の胸の奥底で、私自身が違うと叫ぶのだ。あれは、夢などと生易しいものではなく、現実なのだと。
(……確かめなくちゃだわ)
そうだ、侍女だけではない。
私の喉から出る甲高い子どものような声も。
白くてほっそりとした指も、ドレッサーに映し出された、幼い顔の意味も……確かめなくては。
「あなた、ねぇ。えっと……」
とっさに名前が出てこない。
「マヤでございます、エリーシェ様」
そう名乗った侍女が微笑む。私は気まずさを覚えた。
皇族はいちいち、身の回りの世話をする人間の名前なんて覚えていないものだ。だが、彼女の名を知らなかったことを、私は悔やんだのだ。
「……ごめんなさい、マヤ。今年は、何年だったかしら?」
謝罪を口にした私に、マヤは驚いたのだろう、目を見開いている。
しかしすぐに柔らかな微笑みを浮かべると、こう告げた。
「今は帝国歴七百二十五年でございます」
帝国歴七百二十五年――。
「……つまり、八年前というわけね」
「え?」
マヤが首を傾げる。私は卑屈な笑みを浮かべた。
道理で身体が小さいわけだ。華奢な背中を覆う白銀の髪の毛を、私は懐かしい心地で撫でつけた。
ドレッサーから見返してくる目は青い。海の底に眠る宝石のように神秘的だと謳われた瞳。以前の私は、それが皮肉だと気がつくこともなかった。
私はおもむろに、口を大きく開けて舌を伸ばした。
マヤは唖然として、主人の奇行を見守っている。
「マヤ。私には、舌が生えているかしら」
口を開けたまま、舌を指差してふがふがと喋る私の言葉をマヤは懸命に聞き取っている。
「あ、当たり前です。キチンと生えてらっしゃいます」
「そう……そうね。そうよね」
赤い舌を口の中に戻す。特に違和感はない。
でも、ほんの数分前に私は……。
「エリーシェ様。あの、お水はいかがですか?」
青い顔で沈黙する私に、マヤがおずおずと訊ねてくる。
先ほどはそれを持ってくる最中だったのだろう。マヤは未だに水差しを手にしている。
この要領の悪さを、愚鈍さを、私は嫌っていた。だけれど今は、マヤの案じるような顔つきを見ているだけで、少しだけ心が落ち着いてくる。
杯を受け取った私は、そっと口をつける。
乾燥した舌の上を、水が通る。べたつくような、塞がれたような息苦しさを覚えていた喉に、よく冷えた水が流れ落ちていく。
「……ありがとう、マヤ」
「いいえ、エリーシェ様」
慣れない礼を口にすれば、マヤがはにかむ。
その顔を、ぼんやりと見上げる。
死んだはずの人間が目の前で動き、殺されたはずの自分も今、こうして水を飲んでいる。
エリーシェ・ネーレミア。
ネーレミア帝国第七皇女――叡智の結晶「スクロールの姫」と呼ばれ尊ばれた私は、不可解な状況をこう結論づける。
(時間が、巻き戻ったんだわ)
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