Episode.2

 ◇



「や、おはよ。糸瀬くん」


 俺が席に着くと、隣から挨拶をされた。柏屋だ。何事もなかったかのように、相変わらず嘘の笑顔で。


「おはよ……」


「てかいつもそんなにギリギリなの? もう朝礼始まるよ?」


 別に早くいっても何も起こらないのだ。そもそも朝礼が始まるまでに席に着いたら全部一緒だろ。


「今、朝礼始まる前に着いたら良いとか思ったでしょ」


「え、何故わかった!?」


 エスパーだ……。いやもう既に変な能力使う時点でエスパーだが。


「ふふ、君の顔を見たらわかるよ」


「いやまだ会って一日しか経ってないって……」


「んー正直、私……あ、朝礼始まった」


 何を言いかけたのだろう……。別に俺には関係ないか。俺は人の事を気にする立場じゃない。俺は、ここにいてはいけない存在なんだから。


 朝礼が終わり、そのまま一限目が始まった。一限目の授業内容は俺の嫌いな数Ⅱだ。数学なんてこの世から消え去ればいいと思っている。現在先生は意味の分からん複素数平面が何たらだとか……延々と講義が続いている。


「ねね、糸瀬くん」


 ぼーっとその講義を聞いていたら、横から静かな俺の嫌いな声が聞こえた。多分気のせいだろう。


「ね、糸瀬くん。無視しないで」


 あーなんだこれ。遂に俺にも幻聴が聞こえてきたか。まあ嫌いな授業だし、疲れているのだろう。ちゃんと寝てるし、寝不足ということは無いと思うんだけどな。


「いて! 何しやがる……」


 こいつ、シャーペンを俺の腕に刺しやがった……。もうダメだ、地獄だこの席……。なんで俺が無視しただけでこんな仕打ちを受けるんだ。授業中だぞ授業中、私語は厳禁だってのに……。現に少しだけ左を向いてみると、柏屋が右手にシャーペン握ってニヤニヤしている。もう世も末だ。


「おーい、糸瀬。僕の完璧な授業中に変な奇声を上げるな」


 俺の嫌いな数学の先生に注意された。全部柏屋のせいなんだ。許してくれよ。


「気のせいじゃないですか?」


 何故か元凶である柏屋がそう先生に向かって言った。俺を庇おうとでもしているのか、元凶なのに。意味わからん。


「ん? 確かに気のせいかもしれないな。すまん糸瀬」


「へ、あ……大丈夫です……」


 頭から離れていた。そうだ、柏屋こいつ変な能力使うんだった。じゃあ先生の抑止がこいつには効かないことになる……これは本気でまずいかもしれない。


「糸瀬くん、これでわかった? 君に私の能力が効かなくても、場を使えば力ずくで……」


 いや怖い怖い怖い。とんでもないサイコパスや。穏便に済ませなければ。


「わ、わかったから……何が目的だ?」


「目的ってわけじゃないんだけど、君も数学苦手でしょ?」


 やっぱりこいつエスパーだ。


「そうだけど、それがどうした」


「単なる私の遊びよ」


 柏屋はそう言ってちゃんと授業を聞く姿勢に切り替えた。何だったのか、嫌な予感がする。


 それから少しもしないうちに先生が黒板に大きく数式を書き始めた。書き終わると先生は皆の方を向く。これはあれだ、誰かを当てて答えさせるやつだ。俺を当てないでくれよ……とどうせみんな思っているのだろう。俺もだ。


「糸瀬穂隆を当てて」


 は? 柏屋それだけは……やべえって……。遊びの範囲を超えているぞ。ただの嫌がらせじゃねえか。


「はい、じゃあ糸瀬。この数式をxについて解いてくれ」


「…………」


 案の定だ。もう、明日から学校行かないでおこうかな。その前に柏屋に罪を償わせてから……。


「糸瀬? 早く解いてくれ。こんな低レベル問題だったら一瞬で解けるだろ」


 皆の視線が俺を向く。期待の眼差し、急かすような眼差し、面白半分な眼差し……。今、俺はこの年になって一番焦っていた。それと同時に柏屋への恨みも増大していく。


 解が分からない。授業をちゃんと聞いていなかったせいだ。もう、何もしていないけど許してくれ柏屋……悪かったよお前に恨みを持って。助けてくれえええ柏屋ああぁぁ……。


「(-1√3i)/3ですね」


 柏屋……? お前……愛してる。俺はもう一生お前についていくよ。


「そうだ、柏屋。糸瀬は放課後残って勉強だな」


 結局居残りかよおおぉ! 柏屋、お前はもう死刑。一生ついていくとか言った俺がバカだった。


 憎しみを込めた眼差しで柏屋を見つめ返すと、勝ったといわんばかりの笑顔を返された。


 少しイラっと来たけど、でも最初の時よりはマシになったか。俺は嫌いなんだ、不本意な笑顔が。生きている心地がしない。


 そんなこんなで授業も四限目を突入し、そのまま昼休みに入った。


 昼休み、俺が一番好きな時間。何のために学校に来ているのかなんて聞かれたらまっさきに俺は昼休みが思いつく。別に昼休みに何かするってわけではないが、いつの間にか何となく昼休みに特別な感情を抱いていたのだ。


 俺はふと左隣の席を見た。先程までいたはずだが……またあそこに……。皆も柏屋がどこに行ったのか気になっているようだったが、さしてそこまで気にしている様子もなかった。俺はもう既に空気扱いだが。


 今日も弁当を片手に持って、俺は屋上へと向かった。正直、昨日あんなことがあったせいで、思うように足が動かない。それでも、俺は屋上へと向かった。


 いつも静けさが漂う階段を上ると心もいつの間にか安らんでいた。屋上へと続く扉の前、俺はそのドアノブを捻った。一昨日まで開かなかったドアノブがガチャリと音を立て、扉の隙間から眩い太陽の日差しが漏れる。そのまま重い扉を開くと、快晴の空が広がっていった。


「やほ、絶対来てくれると思った」


 やはり、そこにはその笑顔に似合わないほどの美人な柏屋が立っていた。グラウンドを見渡たすよう、網に手を当てて。その風景は、絵に描いたように美しかった。


「何を勘違いしている。俺は毎日ここに来ているんだ。決してお前のために来たわけじゃない」


「またそうはぐらかしてー」


 はぐらかすも何も事実を言ったまでなのだが。はぁ、早く昼食食べよ。


 俺はグランドを見つめたままの柏屋を横に、昼食をひとりで食べる。無言の間が続くが、大して気にならなかった。これがあるべき姿なのだと思った。


「柏屋は食べないのか?」


 何も口にしない柏屋がどうしても気になってしまい聞いてしまった。そういえば昨日も手ぶらだったし。


「心配してくれるんだ。優しいね君は。ちょっと食べる気が起きないだけだから。心配しないで、私は大丈夫」


 大丈夫って言われても……そんな顔で言われたら心配しないわけがないだろ。


 まあいい。本人が言っているんだ。これ以上は深く言及しない方がいい。


 俺は食べ終わった弁当を布に包む。そして片手に持って、グラウンドを見つめる柏屋の横に立った。俺も網に左手を当てて、グラウンドを見渡した。グラウンドには、ただただ暑い日差しだけが当たり、オレンジ色に輝いている。


 高校生になってからグラウンドで遊ぶ人は極端に減った。中学までは外でサッカーをしたりドッヂボールをしたり、鬼ごっこをしたりと皆はしゃいでいたわけだが。これも精神が子供から遠ざかっている証拠か。悲しいものだな。大人に近づいていくなんて……。


「悲しいよね。私たち子供は一生子供のままでいい。あんな大人になんて、なりたくない……」


 柏屋はまたもや俺の感情をくみ取ったのか、そんな事を言い出した。それはまさに俺が考えていたこと。そんな気もしていたがやはり、こいつも俺と同類だったか。


「あぁ、そうだな。俺らは一生このままでいい。大人になんて、なりたくないしならせたくない。でもそんなこと言ってもしょうがないよな。人間はそういう生き物なんだ。どうしても、醜く、自分の罪もわからないような大人になってしまうんだ」


 俺が、こんな人間になったのもあいつらのせい。何もかも、あいつらのせいなんだ。


「その気持ち、わかるよ。糸瀬くん。でも、良い大人もいるよ」


「良い大人、か。少なくとも俺の近くにはそんなやついなかったな」


 教師だって、授業するだけで他は何もしてやくれない。ただ課せられた仕事を淡々とこなすだけだ。


「一人だけ、一人だけいたの。もう、その人はいないけど……」


 柏屋の横顔が沈んでいく。


「一度だけでいい。あの日に戻って、やり直したい」


 あの日に戻って、やり直したい。誰でも一度は思ったことはあるだろう。俺だって……いや、俺は生まれた時から間違っていたんだ。だけど、この子は、俺よりも……。


「何があったんだ?」


「……ううん、何でもない。気にしないで……」


「そうか……」


 流石に、そうなるか。でも殻にこもると、いつか俺みたいになる。時には取り返せないほどの事態も予想される。そんなこと、俺の身内で起こってほしくない。


「柏屋、お前の目は俺に似ている。お前が俺の考えを見抜くように、俺もお前の考えていることくらい少しはわかるんだぞ。何か、一人では抱えきれない悩みがあれば俺に相談してくれ。それで俺が何かできるってわけではないが、一人より二人の方が心強いだろ」


「そう、だね……ありがと、糸瀬くん。いつか、聞かせてあげるから。君には私のすべてをわかってほしい。私と似ていたの、目が。そんな人、やっぱり君が初めてだよ」


 俺だってお前みたいなやつが始めてだ。いつも、人前では人一倍の笑顔を見せているはずなのに、その裏はどこか脆く悲しい顔が。すぐに消えてしまいそうで、壊れる寸前の笑顔……俺が守らなければいけない。放っておくと、いつか絶対に後悔してしまう。そんな気がした。


「穂隆くん」


 柏屋は網から手を放し、俺の方を向いた。


「俺の名前……」


「そう、君の名前。やっぱり仲良くなるためにはお互い名前で呼び合う仲にならないとね。だから、穂隆くんも私の事は名前で呼んでほしい」


「……嫌だ」


 恥ずかしい……。


「なんでそんなこと言うのー。やっぱり穂隆くんは私のお願いを直ぐに聞いてくれないかぁ。悲しいなぁ」


 んー、わかったよ……。なんで俺がこんなことを……。


「柏屋、優音……」


「そこから苗字を抜いて?」


「……優音」


「よーくできました。えらいえらい」


 俺は子供じゃないんだ。てかそもそも名前を呼んだだけでえらいえらいって何だよ。完全にからかわれている……。


「ふふ、穂隆くんって意外と可愛いんだね~」


「なんだよ、優音の方が可愛いだろ」


「へ!?」


 あ、まずい。反論しようとしたら思わず口から出てしまった……。


 柏屋は頬を真っ赤に染め、口をパクパクさせながら俺から顔を逸らす。


「えっと、なんか、ごめん……」


「な、なんで謝るのよ。全然大丈夫だから。むしろ、嬉しいし……」


「そ、そうか……ごめん」


「いやだからなんで謝るのよ」


 俺はまともに柏屋──いや、優音の笑顔を見たような気がした。普通に笑ったら、こんなにも可愛いんだと。このまま何もなければいいのだが……な。


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