第12話 悪魔の囁き【神龍町にて】
「そんなことどうでもいいから早くあの子を見つけて下さい!あの子は将来有望な子なのよ!まったく、無能な人たちね」
陰湿な舌打ちと共に叩きつけるように受話器が下ろされた。ツーツーと空虚に響く通話の余韻を聞きながら、伶は長い溜息をついた。横で事務作業をしていた吉岡が心配そうに伶の顔を覗き込んでくる。
「影山健次の親族の方ですか?」
「ああ、彼の遠い親戚に当たる人らしい。育ての親だかなんだかしらないが」伶は無意識のうちに声を潜める。「普通の親じゃないな。……普通の親じゃない」
「彼も大変だったんでしょうね。家出する原因もその親にあったのかも」
吉岡は同情するように何度か頷いた。彼には影山健次があの結界を超えて逃亡したことまでは知らされていない。だから吉岡がこの失踪を典型的な親子間の揉め事の結果だと捉えても無理はない。だが伶の直感は
──恐らく影山健次失踪の一番の原因は他にある。もっと触れてはいけないような、根源にある何かが……。
伶は仕事を中断し、重い腰を上げて外の空気を吸いに出た。灰色の町全体に重くのしかかる
──最近、不穏な事件がやたら多い気がする。これは偶然なのか、それとも?
伶は昨年末からの一連の事件に
──俺たちが真実を知る時は、永遠に訪れないのだろうか。確かに知らない方が良いこともあるのかもしれない。でも知りたい。どうにかできないものだろうか。
これなら多少の不利益を被ってでも“黒蝶”に加入していた方が良かったかも知れない、という考えが脳裏を過ぎった途端、伶は現実に引き戻された。いいや、それはあり得ない。──特殊部隊“黒蝶”。治安維持を行う政府直属の組織で、最も魔法操作に優れた者たちが集まる秘密部隊でもある。実態は謎に包まれているが、そこに行けば確実に機密情報に触れることが出来るとは分かっていた。ただ、黒蝶は独身が加入の絶対条件であり、すでに今の妻と真剣に交際していた当時の伶に黒蝶に加入するという選択肢は無かった。
外から戻る途中、普段殆ど人の通らない署長室の前に人混みができていた。伶も釣られてそちらへ向かうと、彼らの好奇の視線の先には、白と灰色の迷彩を纏った集団がいた。
──あれは黒蝶か!?どうしてこんな所に。
「加藤」
同僚の橋本悠人が声を掛けてきた。興奮冷めやらぬ様子で、声はうわずっている。
「今回の例の事件の担当は黒蝶のやつらに引き継がれるそうだ。それにしても奴らは存在感が違うな」
「それ程重大な事件ということなのか」
「分からん。ただ俺らが首を突っ込むことではないようだな」
橋本はたるんだ腹を揺らしながら、自嘲気味に笑った。伶は同僚のそうした卑屈な態度に軽く不快感を覚えたが、そうなるのも仕方ないことだと割り切った。国家にとって警察の仕事は体裁のいい飾りでしかない。そうは思いつつも伶は好奇心を捨て去ることが出来なかった。不意に署長室の扉が開き、大山署長と共に一人の男が出てきた。伶は自身の目を疑った。真紅の軍服に黄金色の肩章、胸章のバッジには『八』の文字が刻まれている。
──”
黒蝶の中でも特に飛び抜けた精鋭には実力順に一から二十までの席次が与えられ、彼らは”枢基”と呼称されていた。文字通り国家の最高戦力を担っており、人前に姿を見せることは滅多にない。枢基を直に見た周囲の人々は興奮と動揺で色めき立ち、より一層騒ぎ出した。枢基第八席の男は騒ぎ立てる彼らに見向きもせず、他の隊員と共に去ってゆく。伶はその真紅の後ろ姿をただただ眺めていた。
時間が経ち騒ぎが収まった後も、伶は署長室の前で見た黒蝶のことばかり考えていた。上の空で仕事に身が入らず、些細なミスを頻発した。苛立ちが募り半ば自暴自棄となっていた伶が休憩中に漠然とタバコをふかしていると、不意にある発想が頭を掠めた。神龍警察署の地下九階にある機密情報の保管倉庫。大山署長の持っている通行許可証があれば……?伶は自分がそんなことを思いついてしまったという事実に慄然とし、軽く目眩を覚えた。伶はその発想を振り払うように首を横に振った。
──これ以上首を突っ込むのは危険すぎる。引き返せなくなる。
彼の本能がそう告げていた。だがそれと同時に彼は自身の裡から湧き上がってくるある感情の高まりを抑えきれなかった。全身の毛が逆立ち、宙に浮かんでいるような気分であった。足は小刻みに震え、地面の感触は殆ど感じられなかった。足下に意識を集中させながら、伶は踏み外さないようにそろそろと自分の机へ戻っていった。
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