第8話 たった一つの後悔

 健次たちは「戦闘訓練室」と書かれた部屋に移動した。部屋は広く殺風景で、四方の壁から灯りがぼうっと染み出している。少し距離を置いてスバルと向かい合った健次は両腕の裾をしっかりと捲り上げた。剛田や他の隊員は離れた所から二人を見守っている。ミカは健次の元に駆け寄り耳元で、


「スバルさんは盤孤でも一二を争う実力者よ。……気をつけてね」


 と囁いた。ミカの声には僅かに緊張の色が感じられた。健次は小さく頷くと、前方のスバルに照準を合わせた。すらりとした体型に端正な顔立ち。黒縁の眼鏡越しに覗かせる鳶色とびいろの瞳は健次をまっすぐ捉えている。柔和な表情こそ崩さないが、健次はスバルの背後に禍々しい魔力の蠢動を感じ取っていた。彼の体躯から漏れ出す墨色の奔流は、周囲を塗り上げ、健次の方へ迫り来る。


 ──「魔力は想像力だ」


 ふと先生の言葉が脳裏に蘇った。あの夏空の下で放たれた無限の可能性を秘めた言葉。魔法さえあれば、何にでもなれるのではないかと息巻いていたあの頃。だが結局は何一つ変わらなかった。いや寧ろ、根本的にというべきなのだろうか──健次は湧き出る雑念をなんとかして押さえ込むと、集中力を高めるため目を閉じた。自分の身体が未知の大海に放り出され、等速で底へと沈んでゆく感覚。口から零れた泡はみるみる輝く水面みなもへと昇っていき、身体はどんどん深みへと入り込んでいく。そしてコツンと背中が海底に触れたところで、健次は動きを止めた。深藍しんらんに満ちた海底で感じ取る生命の躍動。そうだ、これも先生が教えてくれたことだった──健次は目を開くとスバルを見据えた。スバルは健次に微笑みかけ、


「準備は出来たみたいだね。じゃあもう始めようか。好きに攻撃してきていいよ。ただし、君の全力でね。そうじゃないと魔力が測れないからさ」


「良いんですか。どうなっても知りませんよ」


「問題ない。僕は今の君よりは強いからね」


 スバルは涼しげに言った。健次は小さく頷き、目を閉じる。次の瞬間、スバルを取り囲むように巨大な注連縄しめなわが現出した。強靱に編み込まれた黄褐色の縄は、急速にとぐろを巻き、摩擦音と共にスバルめがけて収斂する。


「”抹消アニヒレイト”」


 スバルが呟くと同時に、縄は至るところで虫食い状に抉り取られ、断裂し、散り散りになった。縄の弾ける破裂音の残響が部屋全体を満たす。スバルはその余韻に浸りながら、大気に所在なさげに漂う麻の繊維を見るともなく眺めた。周囲から微かな感嘆の声が漏れる。健次は一瞬何が起きたのか分からず、動きを止めた。


「なるほどね、こりゃ運が良い」


 スバルは目を意地悪そうに細めた。健次の全身を悪寒が襲い、這うように冷や汗が額から流れ落ちる。危険を察知した健次の身体は瞬時に防御体勢に入った。


「”抹消アニヒレイト”」


 スバルの詠唱と同時に健次は鳩尾あたりに強い違和感を覚えた。少しずつ歪み、内臓がねじれていく感覚──。全身の血液が駆り出され、感覚がより鋭敏に、はっきりと感じられる。反響する拍動の狭間で、健次は自身の身体に起こりつつある異常をスローモーションで感じ取っていた。


 ──まずい。


 健次は反射的に”反転”を唱えた。健次の腹部に顕現していた魔力の塊は、急速にスバルの方へと巻き戻される。肉眼では見えないが、健次はその時魔力の塊をはっきりと認めることが出来た。スバルはその魔力塊をいとも容易く右手で払いのけると、驚いた表情で、


「へえ、すごいな。……うん、間違いないな」


 と独り言のように呟いた。剛田が二人の方へ近づいてきて、右手を挙げ、声高に何かを叫ぶ。周囲の者は騒ぎだし、何処からか拍手も聞こえてくる。健次は歩き出そうとしたが、視界が左右に揺らぎ、力なくその場に膝をついた。汗で背中がびっしょり濡れていることに気づき、急に身体の芯を貫くような寒気に襲われた。頭がガンガンとうるさく鳴り響く。溶けゆく意識の中、健次の脳裏に現れたのは、学校の屋上で屈託なく笑う嘗ての親友の姿だった。

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