第2話 変わらないこと

 冠甲山を下り終えた健次は、眼前に広がる光景に足を止めた。一面見渡す限りの緑。朝の陽光に照らされた草花は輝きながら風に揺られ、その壮大さは健次に広大無辺な大海原を想起させた。ふと足元を褐色の小動物が素早く駆け抜けていく。健次が足下を見ると半ば土に埋もれるように小さな厚板が放置されていた。その厚板には色褪せた赤文字で〈啓正けいせい第一自然保護区〉とだけ記されている。


 ──ここには誰もいないのだろうか。


 健次は足に張り巡らせた魔力を解除すると、風に誘われるがままゆっくりと歩き始めた。腰のあたりまで生い茂る草を掻き分けながら一歩ずつ進んでゆく。柔らかな風と草花の囁きの間に聞こえる鳥たちの調べが小気味よく健次の鼓膜を震わせる。

 少し歩くと前方に人工物らしきものが見えてきた。大きな褐色の台座に直立する、人型の銅像。健次はその銅像に近づくと、足元の石碑に刻まれた文字に目を止めた。


【空は揺るぎない大地を求めた。大地は果てしない空を求めた。】


 錆び付いて読みにくくなったその文を健次は手でなぞった。時を経た錆のざらざらとした感触を確かめるように親指と人差し指を擦り合わせる。一体いつ頃建てられてた像なのだろう?健次は銅像の人物を見上げた。姿勢良く直立する初老の男性。両手で杖を地に突き立てながら、上空を仰ぐその男の瞳は飽くことのない野心を大空へ投げ掛けていた。


 健次はその台座の側に腰掛けて休息を取った。背中に背負ったバックパックから飲みかけの水筒を取りだし、乾いた口をほんの少し湿らせる程度に含む。空を区切る青と白のコントラストをぼんやりと眺めながら、右手の握り飯を口に運んだ。まだ、実感は湧いていなかった。つい昨日まで自分がいた場所、そして今自分がいる場所。自分はこれから何処に行くんだろう。その疑問の毛羽だった粗面が横隔膜に引っかかり、落ちきらないまま心窩部にぶら下がっている。少し前まで自分を飲み込まんとしていた巨大な力はいつの間にか奥へと引っ込んでおり、いくらか考える余裕を取り戻した健次は両手で頬を叩くと、すっと立ち上がった。


 とりあえず、外の情報を集めないと。


 健次は目を閉じ、“感知”を再び展開した。迸る魔力が幾筋もの地脈となり、一斉に広大な大地を駆け巡る。一キロ、五キロ、十キロと突き進み、その枝の先端が四十キロほどにまで達そうとした時、急に健次は”感知”魔法を解除した。健次は姿勢を落としたまま遙か前方に広がる山脈を凝視する。


 人がいる。それも大勢の人が。……あの山を超えたその先に、都市でもあるのだろうか?


 健次の鼓動が再び加速する。そのとき、背後で警報音のような甲高い音が鳴り響いた。健次は一気に魔力を足元に集中させ、目標を四十キロ先に定める。


 ──あちらに味方がいる可能性は低い。だが一か八か、行くしかない。どちらにせよ、もう元には戻れないのだから。


「“飛翔”!」


 全身が眩い光で覆われてゆく。次の瞬間、健次の身体は宙を切り裂くように未知の世界へ加速した。

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