龍の祠~失われた世界で~

鶴谷実

第1話 終わりを告げた日

 新暦七五五年九月二七日早朝、健次は家を飛び出した。見慣れた町を走り抜け、東へと駆ける。路地には人影一つ無く、健次の荒い息遣いと拍動だけがやかましく響く。薄明の藍に染まった町並みは、本来の色を失ったまま後方へと流れ去ってゆく。健次は自分の胸の内側からどす黒い塊がこみ上げてくるのを感じていた。その塊は健次を駆り立て、鼓動を加速させる。


 ゆかなくては──どこかへ。


 自身に纏わり付くしがらみを振り払うかのように健次は腕を振り回す。どのくらい走ったのだろう。いつの間にか健次は隣町の田園地帯へと足を踏み入れていた。前方には冠甲山かんこうざんがなだらかな裾野を広げたまま鎮座している。近づくにつれくっきりと浮かび上がる緑青ろくしょうの濃淡、その輪郭。健次は冠甲山の麓まで来ると立ち止まり、上空を見上げた。天蓋まで張り巡らされた半透明の結界。その上方は日の出間近の光を反射し、虹色に煌めいている。嘗てより絶対的な他者としてそこにあったもの。しかし今その巨大な障壁に流れる魔力の胎動を前に、健次は何処か形容しがたい懐かしさを感じていた。健次は深呼吸すると、行く手を阻む結界へ、そしてこの世界の外へ向けて右手を差し出した。


「”腐敗”せよ」


 健次は小さく呟くと魔力を解放した。パリッという乾いた音と共に結界の中央に小さな穿孔が現れ、結界を飴細工のように溶かしながら急速にその半径を広げてゆく。人が通れるくらいの大きさにまで達したところで、健次は魔力の放出を止めた。


 ──よし。


 ”感知”により周囲に人がいないことを確認すると、健次は結界をくぐり抜け、冠甲山を登り始めた。初めて足を踏み入れる未知の領域。うっそうと茂る樹木の間をかき分け、歩を緩めることなく前進する。額は汗でびっしょり濡れていたが、不思議と疲労は感じなかった。次第に緩やかになる山道を抜け、ひらけた頂上へと出たところで、その日初めて後ろを振り返った。神龍町を南北に走る師走川、”龍”の棲み着く灯山あかりやま、神龍魔法学校、豊治病院、宮本書店……。遠くの稜線から昇る旭光と共に生彩を取り戻してゆく町並みを健次は唯々見下ろしていた。それは見慣れているはずの光景であったが、健次にはいつもと違って感じられた。この町に帰ってくる時、それはすべてを終わらせるときだ。健次にはそんながあった。


 さようなら。


 眼前に広がる光景をしっかりと脳裏に焼き付け、再び東へと駆けだした。

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