第10話 ありがとうございます


「なにっ!」

 デブ店長が叫んだ瞬間、店内のあちこちで小さな爆発が起きた。誰かが悲鳴をあげる。

 爆発はしかし小さい煙が上がっただけ。

 と思ったら、次の瞬間、消火器の噴射みたいに白い煙があちこちから噴き出した。しかも、すべての方向へ。


「火事だっ!」

 誰かか叫ぶ。

「ちがうわ。ルパ子よ!」

 女の声が響いた。


 そのときにはすでに、店内はいっきに膨らんだ白い煙に遮られて、目の前も見えないほど。まるで山の中の濃霧のようだ。まっ白い布が垂れ下ったように何も見えない。

「落ち着け!」

 デブ店長は声を張り上げる。

「落ち着くんだ」

 が、だれか別の女が悲鳴をあげた。

「大変! 『血と涙』が盗まれたわ!」

 ええっ!とデブ店長は展示ケースを振り返るが、白い煙と人だかりでケースの中が確認できない。


「どけっ!」

 叫びながら周囲の人を突き飛ばし、慌てて展示ケースに駆け寄る。

「どくんだ!」


 ケースの前にぼーっと立っている警備員を殴り飛ばし、展示ケースを見る。

 厚さ20センチのアクリル板で守られ、壁に埋め込まれた展示ケース。その中に、『血と涙』はなかった。

 なにもない。ただ赤い布が敷かれているだけ。あの美しいきらめきを放つ、赤と青の宝石がはまった芸術的なデザインの指輪は、そこには影も形もなかった。

「バカな」

 デブ店長は慌てて、電磁キーを取り出すとロックを解除し、暗証番号を入力して、指紋認証する。ピーっと鳴って、展示ケースの扉が開く。

 その中には……。


 あった。指輪はあった。

 何事もなかったように、美しいきらめきを放つ指輪『血と涙』は、ちゃんとそこにあった。

 ほっと息をつくデブ店長。その横から、すっと伸びた細い手が、ケース内の『血と涙』を摘まみ上げる。

「おじさま、ありがとうございます」

「え?」

 と、デブ店長が呆気に取られて振り返る。

 そこには赤い仮面で素顔を隠した美少女がいる。鼓笛隊みたいな白のチュニック。短いマントを羽織り、手にはロングの手袋。きらりと光る大きな瞳と、ルージュの引かれた愛らしい唇。


 にっこりと微笑む美少女は、優雅にお辞儀した。

「ダルーレの『血と涙』。たしかに頂きましたわ」

「ええっ!」

 デブ店長の悲鳴のような叫びが店内に響く。

 そして、すっと一歩さがった少女が、立てた二本指でぴしりと決めポーズをとった。

「美少女怪盗アルセーヌ・ルパ子に、盗めないものはない」

 呆然とするデブ店長は、あわあわと周囲を見回す。

 白い煙の中、警備員も店員たちも、客の姿も見えない。

「では、太ったおじさま、これにて、さようならアデューー」

 マントを翻したルパ子が、白い霧の中に消える。


「……え?」

 あまりのことに、デブ店長は言葉が出ない。

 空っぽの展示ケースを振り返る。そして、厚さ20センチのアクリル板がはめられた扉を確認する。透明なアクリル板には、大きさがぴったりあったポスターのようなものが貼られていた。そのポスターの表面を見ると、そこには写真画質のプリントがされている。プリントには、赤い布だけがあって『血と涙』がない、フェイクの画像が印刷されていた。


 ルパ子は最初の混乱に乗じて、このフェイクのポスターを展示ケースのガラスに貼りつけたのだ。そして、そのトリック・アートともいうべき偽物の画像に騙されたデブ店長は、てっきり展示ケースの中から『血と涙』が盗まれたものだと勘違いし、自分の手でケースをあけてしまった。


「……しまった」

 デブ店長は、まんまと自分がしてやられたことに気づく。

 そればかりではない。『血と涙』が盗まれた。十一億円の指輪が、盗まれたっ!


「やられた! ルパ子だ! アルセーヌ・ルパ子に指輪を盗まれた!」

 デブ店長は絶叫した。

「だれか捕まえてくれ! アルセーヌ・ルパ子を捕まえてくれぇー!」


 いまさら叫んでも遅かった。

 相手は怪盗。すでに逃げ去ってしまっている。それでも、デブ店長は叫ぶ。泣きながら叫んだ。

「だれか、捕まえてくれ。怪盗だ……。俺の指輪が、俺の『血と涙』が盗まれた……。だれか、取り返して……」

 泣きながらデブ店長はその場にくずおれる。だが、彼に優しくしてくれる人はだれもいなかった。突き飛ばされた客も、いつもいじめられていた店員も、殴られた警備員も、だまって泣き崩れるデブ店長を見下ろしているだけだった。

 彼らはみんな、心の底で、ちょっと笑っていた。




(かわいそうに)

 心の中でつぶやきながら、波留はデブ店長の後ろを歩き去る。煙の中でルパ子のコスチュームから着替えた波留は、アニメ好きお姉さんの姿にもどり、まだ白い煙の残る視界の悪い店内を奥へと進む。


 店内のだれもが「ルパ子だ、ルパ子だ」と叫びながら出口を目指すなか、誰もいない店の事務所を抜けて、裏口から外へ出る。

 おじいちゃんが言っていた。

『逃げるときは、最初まっすぐ逃げる。そしてのち、意表を突く方向へ曲がれ』と。

 お店にいたみんなが、「ルパ子が逃げたぞ」と声を上げながら出口方向へ追いかけるのを尻目に、だからルパ子は裏口から逃走したのだ。耳を澄ますと、入口方向で拡声器の声が響き、警察が「外に出ないでください」とみんなに命じている。

「全員、店内にもどってください。捜査への協力をお願いします」

 拡声器の声がここまで響いている。

 警察は店を封鎖して、中にいるかも知れないルパ子を逃げられないようにして捕まえようと考えてるのだ。だが、この宝石店に裏口があることは知らない様子。


 交通整理なんてしてないで、お店の警備をしておけばよかったのに。

 波留が裏口から外に出てしばらくしてから、あわてた警官が店の裏口へ走っていく。だれかに裏口の存在を聞かされたのかも知れない。

 だが、そのときにはもう波留は店の外に逃れてしまっていて、素知らぬ顔で『シャイン・ドリーム』の前の通りを歩いていた。


 駆けつけた警官隊の指揮をとっているのは、この前の刑事さん。たしか明智亮馬の兄。言われてみると顔立ちが似ている。

 アニメ好きお姉さんの変装をした波留は、素知らぬ顔で警察の前を大胆にも歩いて通り過ぎる。来たときとちがうのは、彼女の手提げには丸めたポスターが入っていないことと、ポケットの奥には、十一億円の指輪が入っていることくらい。


「じゃ、イケメンの刑事さん、さよーならアデューー」

 聞こえないようにつぶやいて、波留は警察官たちのまえを堂々と通り過ぎっていった。

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