10
「そこで何をしているんです」
路地裏の物陰。息を潜めて蹲っているなか、声を掛けられて、ナスリー・カーミルは悲鳴を上げた。こんな高い声が出たのはいつぶりだろうか。──背後にいるのが警察だとしても、ただのヒトだとしても、とにかく、逃げなければ。って言ったってどこに逃げれば。立ち上がろうとした拍子にお下がりのローファーが脱げ落ちた。
「待って。そんなに慌てなくても、警察に突き出したりやしません」
シャツを後ろから掴まれる。「嘘ッ! 嘘だっ! 騙されない、離せ、離せっ」と必死に暴れてみたがびくともしない。なんで。ナスリーは「学校」の子供たちの中でも大柄な方だ。抑え込もうとすれば、大の男が相手でも多少は手こずるはず。それが、まるで水の中で藻掻くかのように力が入らない。
「カーミル君、僕です。クルスです」
何度目の呼び掛けだったろう。不意にそんな台詞を聞き取った。振り返ってみれば、無駄にまつ毛の長い、女子みたいな顔の男がいる。確かにクルスだ。
「こんなに震えてまでヒト居住区に来るような用事が?」
──皮肉のつもりか。つい顰め面になってしまう。そのとき初めて自分の体が風邪でも引いたかのようにガクついていることに気付く。くそっ、気に入らない。ナスリーは吐き捨てるように答えた。
「……とぼけやがって。あいつらを探しに来たんだよ。お前が司祭様に言ったんだろうが。俺が原因かもしれないって! お前のせいで二人が」
──ウィンビ君とファナ君が行方不明になりました。捜索のため、幾つか質問したいことがあるのですが──シュジャアからの電話が掛かってきて、聞かされたのは、受け入れ難い事実だった。友人をヒトから守ろうとして喧嘩になり、あまつさえヒトの街に迷い込むまで追い詰めてしまった、などと。加えて、それを最初に指摘したのが、憎たらしいこのヒト種の回し者だなんて。
「君たちの事情なんて知りません。一応、職員としての責任があるので介入はしますが、馬鹿みたいな責任転嫁に付き合うつもりはないですよ。第一、ヒトだから、なんて理由だけで犯人扱いされて、僕も機嫌が悪いんです。さっさと立ちなさい。警察に見つかりたくないんでしょう?」
とだけ告げるとクルスはそのまま歩み去っていく。考えなしにジョニーとエドを探してムニャマ地区を出た挙句、あてもなく迷子になって途方に暮れていた今、業腹だがこの男についていく他の選択肢はなかった。せめてヒトと一緒に行動していれば、警察に見つかったとしてもまだ言い訳がつくだろう。最悪どこかで刃物や何か鋭利な破片を見つけておいて、いつでもこいつを人質に取れるようにすればいい。さっきは体が言うことを聞かなかっただけだ。二度と同じ轍を踏むつもりはない。
「最初からそう素直にしていればいいものを」と呟いてから数秒の沈黙の後「これはただの豆知識なのですが、都市に不法滞在している獣人を警察に突き出すと5ミザーニ貰えるそうですよ。ちょうど煙草が一箱買えますね」
ぎり、と歯の擦れる音がして、自分がかなり苛立っていることに気付いた。
「意地悪が過ぎましたか。そんな顔をしなくても大丈夫ですよ、僕はシュジャア司祭から月1800貰っています。煙草代には困っていません。君を売ってはした金を受け取るより、無事に家に送り返してやって聖堂での立場を守る方が得するんです」
「教師だから生徒を守るって言えないのかよ」と毒づくと、
「君、僕のこと嫌いでしょう。そんな耳障りの良い言葉で納得できますか」
と返された。確かにそうである。が、見透かされているのが気に入らない。
「ああ。嫌いだよ、大っ嫌いだ。信頼なんかできるもんか」
「それでも結構。ただ他人を巻き込むのは止めてください」
分かっている。今回の事を起こしたのは意地になって、視野を狭くしてしまった自分だ。本当に友達を危険から守りたいのなら、他にもっと方法があった。
それに、クルスに獣人への害意がないなんてこと、とっくに気付いていたはずなのに。この男が持っていたのは、人並みの善良さと極端な無関心だけ。露悪的と言うべきか、あくまで事務的でいようとする態度のせいで分かりにくいが、多分、それがクルスの本質だ。この期に及んで、それに気付かないほど馬鹿なつもりはない。もし仮に、いつかジョニーが何かしらに困って助けを求めれば、こいつは自身に面倒が及ばない範囲で助けようとはするだろう。だが、ジョニーが助けを求めないかぎり、きっとこいつは目の前の少年が苦しんでいることにも気付かない。彼が持っているのは、そういう類の危うさなのだ。
少なくとも、話をしていただけで目くじらを立てて、頭ごなしに怒鳴りつけるのでは、ジョニーを納得させることはできない。あいつは歳の割に聡いから、俺より先に分かっていたはずなのだ。クルスが何も企んでいないことを。
「おかげで僕は失業の危機です。何にも悪いことしてないのに。君たちが勝手に先走るせいで」
相変わらずの言動にげんなりした。己の口角がこれでもかというほどに下がっていくのを感じる。苦虫を噛み潰したような顔とは、こういう表情のことを言うのだろうか。
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