7


「ナスリー、いい子で留守番できるか?」


 そう言って、頭を撫でてくれた兄の掌の大きさを覚えている。彼はムニャマ地区を守る自警団、牙と爪メノ・ナ・マクチャの一員として、町のみんなに尊敬されていた。ナスリーはそんな兄が誇らしくて、大好きだった。カーミル家の兄弟の中でいちばん頼りがいがあって、町の男子の中でいちばん喧嘩が強くて、かっこよかった兄さん。だから、彼が警察に連行されたと聞いたときも、きっと無事で帰ってきてくれると思っていた。ヒトなんてみんなやっつけて、何でもないように帰ってきてくれるって。


 アーダム兄は、二年もの月日が経つまで帰ってこなかった。両親はもう彼を死んだもののように扱っていて、ナスリーも、きっとあの人は夢枕に見た幻だったんだと思いかけた頃のこと。カーミル家を悍ましい姿の男が尋ねてきたのだ。


 ひどく痩せ細っていて、腕が奇妙に湾曲していた。顔には、千年前のミイラのように乾いた肌が貼り付けられている。落ち窪んだ眼窩の奥で、焦点の合わない目がこちらを見ていた。近くに寄ると、鼻のもげるような臭いがした。饐えた臭いと、病の臭いと、鉄の腐ったような臭いが漂っている。


 両親や、上の兄さん姉さんはその男をアーダムと呼んで、涙を流して強く抱き締める。そして男はナスリーのことを、愛おしそうに、力なく抱き締めるのだった。


「アーダム兄、なの?」


「ああ。ああ、ナスリー、俺の弟。また会えたんだ。俺は、帰ってこれたのか」


 彼は泣いていた。十分に動かないのだろう、瞼が低いところでひくひくと痙攣している。瘡蓋を伝って滴が線を引く。まるで、生き別れの弟に会ったかのように、嬉しそうに泣いていた。


 ──俺は、こんな人知らない。


 自分の背中を掻き抱く、骨と皮しかないような細い指が、どうしてもあの日のアーダム兄の胼胝だらけで硬かった掌とつながらない。俺は、こんな人、知らないのに。


 彼は「脱獄してきたんだ」と語った。警察に捕まってから、ずっと強制労働をさせられていたという。高い塀に囲まれた農園で、何に使うかも分からない木材を運ばされ続けた。朝と晩、何回か警吏が交代して監視を務めた。ほら、腰のこの傷は、鞭打たれてできた傷だよ。しなやかな棒で抉られると、こんな跡ができるんだ。お湯で濡らしたタオルで拭いてやると、そんなことを教えられた。


「なんで俺は逮捕されたんだろう。分からない。ただムニャマ地区の奴らと都市のヒトの間でトラブルがあったときに仲介しようとして、他の獣人と一緒に捕まった。俺は誰かを殴ったりしていない。何かを盗んでもいない。まだ、どのヒトにも指一本触れていなかった。ただ、警察に言っただけだ。『今回はあんたらに非があるよ』それだけだった。なのに、俺は、死ぬまで懲役を科されることになった。裁判所で言われたんじゃない。取り調べ室でそう言われて、そのまま農場に送られた。俺は……」


 彼は怯えていた。まるで老い衰えた犬のように震えて。がたがたがた、と鈍い音が聞こえる。歯がかち合わされる音だと気付いたのは、数瞬の後だった。


「俺は、奴隷にされていたんだ、と思う。……それにしても寒いな。ナスリー、悪いが、もっとお湯をたっぷりと含ませてくれ。妙に体が寒いんだ。頼む、早く」


 男は身を清めて服を替えても、しきりに「寒い」と呟いていた。多分、限界だったのだと思う。朝、カーミル家の人々が目を覚ましたとき、アーダム兄の寝床には冷たい骸が転がっているだけだった。


 警察が来たのはその日の昼のこと──脱走した囚人がここに来たという通報があった。ユーフレイズ・カーミル、通報をしたのはお前だな? 両親はアーダム兄の死体を引き渡した。やつはそれを蹴り飛ばすと、


「確かに死んでいるようだな。無駄足をかかせやがって」


「ひどく衰弱していたようでした。安心して、糸が切れたのでしょう」


「そうか」


 葬儀はしなかった。脱獄囚は複数いたようで、そのときのムニャマ地区には警察がうろついていたから。罪人を弔っているのが見つかれば、心証が悪くなる。父は、これ以上お前たちを失いたくないんだ、と唇を噛んでいた。


 ──アーダム兄を売るつもりだったくせに。


 こっそり死体を埋めた庭にしゃがみ込む。この下に、ナスリーが憧れていた人がいる。ぼろきれのように踏みにじられて、死んでいった人が。何の罪もないのに、地獄のような責め苦を背負わされた人が。変わり果ててしまった人が。


 だから、俺は。


「ジョニー、お前がこれからもあいつに近づこうとするなら、俺は絶対に止める。いい加減分かれよ。この世界で、俺たちに尊厳はない。自分で守るしかないんだ。俺はあいつを闇討ちしてでも──」


「ナスリー」


 その眼差しが、いつになく険しいのにたじろいだ。いざジョニーと殴り合いになっても、自分なら勝てるはずなのに。胸の奥の傷を抉じ開けられるような、嫌な感覚があった。


「何だ」


「僕はエドを追いかけるよ。お前は、ひどいことを言った」

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