5


 ジョニーはまだ、ミスター・クルスの顔を真正面から見ることができない。


 何だか気恥ずかしくなってしまうのだ。何だろう、この気持ちは。昔、お隣さんのエミリーに感じていたものと似ているけれど、少し違うような気がする。ともかく、彼はクルス青年に並々ならぬ興味を持ちながら、いざ声を掛けると目を合わせられなくなってしまうことに困惑していた。


「何でしょう、ウィンビ君」


 あの、その、と幾度かの躊躇いを抜けて「教科書の公用語で読めないところがあって」と相談を持ち掛けた。ジョニーは勉強が好きだが得意ではない。分からない単語や文章は山ほどあった。この理由なら何度でも話しかけられる。いつになく思いついた名案だが、自分の頭脳の頑張りを褒めてやりたい気分だった。


 明日習うところのページを開いて差し出そうとして、ミスター・クルスの指にぶつかった。か細く、柔らかい感触に心臓が跳ねる。


「あ、あの」


「ん? ああ、なるほど。やたら慣用表現が多いですね、このテキスト。君たちには不親切でしょう。ウィンビ君、これはどの先生が用意したものですか」


「み、ミスター・ロジが」


「ありがとう。もし彼と話すことがあれば、来年から別のものに変えるよう提案しておきます」


 ミスター・クルスはジョニーの方を見ない。まるで教科書と話しているような姿勢でいる。その間にジョニーは息を整えて、彼のおでこを観察する。鶏の卵のように艶やかな肌の上を、さらさらとした髪が流れている。学校で貰える飲み水みたいだと思った。透き通っていて、汚れひとつない。


「ミスター・クルスは、獣人をどう思っていますか」


 ふと漏れたのはそんな言葉。「僕たちを」と言うつもりだったのに。不機嫌そうなナスリーの姿が脳裏を過ぎった。最近彼とは顔を合せる度に喧嘩している。


 ──あれはヒトだ。クルスの野郎は俺たちのことなんて眼中にない、見れば分かるだろ。バカみたいに鼻の下伸ばしやがって、それで痛い目を見るのはお前なんだぞ。いつかあいつがお前のことを足蹴にしても、悪者にされるのは獣人のお前だ。だから、やめろ。近づいてもいいことなんか一つもない。


「ミスター・クルスは親切で、優しいひとです」


「……いいえ。僕はそんな大した人間じゃありません。こうして君に対応しているのも、司祭殿とそういう契約をしたからです。業務時間が終われば、僕は君を無視して帰りますよ」


「ナスリーは先生が僕のことを蹴り倒すかもしれないって不安がっていました」


「そんなことしません。もし司祭殿の機嫌を損ねて給金を減らされたりでもしたら、どうしてくれるんですか」


 その言い方がなんだかおかしくて、ふふ、と思わず笑みがこぼれた。


「心外ですね。けっこう切実なんですよ、こっちは」


 ミスター・クルスはひとしきり教科書を読み終わったのか、顔を上げると、


「まあいいです。西教室が空いているので使わせてもらいましょう。鍵を取ってくるので待っていなさい」


 と準備室の方へと踵を返す。ほとんどナスリーと変わらないくらいの背中が、不思議とずっと大人びて見えた。学校に来たばかりの頃は染み一つなかったシャツに、チョークの汚れが薄く残っている。やっぱり、彼は優しいひとだと思うのだ。


「あー、さっきの質問ですが」


 ミスター・クルスが、数歩歩いたところで立ち止まった。


「昔は獣人のことも学問の対象として興味深く思っていましたが、自分でなってみると大変ですね。うんざりします。君たちには多少、同情していますよ」


 だからこそ、どうしてナスリーが彼を苦手に思うのかも、分かるような気がする。

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