3


「クルス君、申し訳ないんだけどノートを一箱運んできてくれ。緑の棚の──ええと、下の方にあるはずだった、かな、今は。まぁ、見ればすぐ分かるだろうから、心配しなくてもいい。少し遠いけど、よろしく頼むよ」


 はい、と淡泊に答えて離れの倉庫へと向かっていった青年の後ろ姿を見送りながら、ファジュル・ワマブベシは頭を掻いた。


 ──なんだろうなぁ、あれは。


 非常に真面目で、手際も良く、すぐに仕事も覚えてくれるだろう、優秀な新人だ。見るからに上等な空色のシャツが汚れても、気にした様子もなくチョークを握る。雑用だって文句も言わずにこなしてくれる。だが、どうしてか彼を「熱心」だと評する気にはなれなかった。どこか、何と言えばいいか、忠実なロボットを相手にしているような感を受ける、と言えばいいのだろうか。彼と話す度に、仄かで生温かい不安が背中を這う気がするのだ。何事も最低限の受け答えで済まそうとする性格か、動かない表情か。果てには僅かな指の動きさえ薄気味悪く思えた──何より、どう見たってヒトの姿をした青年が「混血」を名乗ってこの聖堂の懐に潜り込んでいるという事実。


 シュジャア司祭の人を見る目を疑うわけではないが、ちゃんと面接をして採用したのだろうか。人手が足りないからって適当に済ませてはいやしないか? あの頼りない司祭殿のことだ。何だかあり得そうな気もして嫌だった。


 考えながら。黒板に次の問題式を書いていると「あの、先生」と背後から、遠慮がちに少年の声がした。


「おや、もう解けたのかい?」


 振り返ると立っていたのはエドワード・ファナ。僅かに伏せた目元が翳っている。ノートを持ってきた様子はなかった。


「……違うみたいだね。どこか分からないところでもあった?」


 分数の理解でつまづく生徒は多い。特に通分や分数同士の除法などでは。身近なものを例にすると却ってややこしくなることもある。残り三分の一まで使い切ったバケツに、ボトル半分まで入った水を注ごうとする生徒が絶えないのだ。それでは計算にならないというのに。ともかく。彼個人にするならどんな説明が一番分かりやすいだろうか、咄嗟に頭で用意をする。


「ええと、相談したいことがあって」


 彼の声は今にも教室の喧騒のなかに掻き消えそうなほどだった。どうも授業とは別の用件らしい。「ゆっくりでいいよ、言ってごらん?」と促すと、


「先生は、クルス先生のこと、どう思いますか」


 思いも寄らない質問だった。何と答えればいいものか。まさか生徒の目の前で「得体が知れなくて気味が悪いよね」などと言えるわけもない。


 苦し紛れに「どう、って?」と問い返してしまい、唇を噛む──違う。間違えた。教師として。自分が取るべき態度は、そうやってはぐらかそうとすることではない。ファナ少年は少し怯んだようだった。色褪せたシャツの胸元を握りしめて、幾つかどもった後、


「その、クルス先生って、いい先生だと思いますか。……あの、クルス先生って、僕らが用事があるときはちゃんと立ち止まって聞いてくれるんです。でも、あんまり僕らと話していても楽しくなさそうだし、その。本当は嫌だったりするんじゃないかなって。ナスリーが、ヒトは信用できないって、僕らのこと、馬鹿にしてるんだって。でも、ええと、でも……」


 それっきり、言葉に詰まってしまったようだった。


 けれど。強い子だと、そう思った。せめて何か、教師として示してやらなければなるまい。彼を安心させられるような何かを。それでいて、誠実に答えてやれるような何かを。躊躇いを振り払うように、なるべく選んだ言葉で微笑みかける。


「まだ、あまり仲良くなれていないから、詳しいところは分からないけれど。とても真面目で優秀な先生だと思うよ」


 だから、大丈夫。それだけ告げると黒板に向き直った。けれどファナは席に戻る様子がない。ああ、そりゃダメだよな、こんな答えじゃ、なんて自嘲する。


「ジョニーとナスリーがそのことで、ずっと、喧嘩してて、二人とも、大事な友達だから、でも、僕じゃ止められなくて」


 その声はか細く震えていた。


「……先生、僕、どうすればいいのかな」


 沈黙。ファジュル・ワマブベシは深く息を吸って、軽く吐いて、残った空気で口を開く。変に包み隠そうとしたのが良くなかった。この少年はどうしても、言葉の端の後ろめたさを、煮え切らなさに気付いてしまう。


 だから、


「分かった。じゃあこうしよう。ボクがミスター・クルスと直接話して確かめてくる。彼を信頼していいのか、するべきじゃないのか──だから、君は吉報を待ってなさい」


「え」


 少年はぎょっとした様子だった。言葉を続ける。なるべく悪戯めいた笑みを見せながら、


「正直言って、かなり胡散臭いと思うよ、あの男。ヒトの富裕層がこんな町に働きに来るなんて。慈善事業ってならまだ分かるんだけどね。警察のスパイだと言われたら納得してしまいかねない。ナスリー・カーミルが疑うのも分かる。実際、ボクだって気が気でなかったんだ。だからさ、ボクが確かめてくるよ」


 そう言って、エドワード・ファナの肩を掴む。


「これでも大人だからね、先生に任せなさい。それに、ウィンビ君もカーミル君も、友達想いの良いやつだろう? なら、ちょっとのきっかけで和解できるさ。ミスター・クルスのことはついでくらいに思うといい。さっき先生に打ち明けてくれたみたいな勇気があれば充分。もう一度、じっくり話してみることをお勧めするよ」


 ファジュル・ワマブベシは思わず顔をほころばせた。少年が、照れくさそうに頬を掻いて、気力を取り戻したように勢いよく、頷いたから。


 ──そして、放課後。


「ミスター・クルス、ちょっといいかな」


 西教室でひとり片付けをしていたところに声を掛ける。振り向きざま、銀にも似た綺麗な色の髪が夕焼けに透けるのを見た。窓から風が吹き込んでいて、やけに背中が寒く感じられる。結局、彼を見つけるのに日暮れまで掛かってしまった。どうもずっとここにいたらしい。一体何をしていたのだか。ともかく、


「今から二人で食事にでも行かないかい? 話したいことがあるんだ」

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