ギルバート・クルス
1
聖堂の午後。オースティン・シュジャア司祭は明日の「学校」の準備をしていた。手元には教員たちによる授業用原稿がある。寒さに震える指で一つ一つを確認し、アドバイスやメモを書き加えていく。このごろ隙間風がひどいのだ。教区の婦人が寄付してくれたメリヤス編みのセーターだけが頼りである。かといって彼ひとりのために暖炉を使うわけにもいかない。資金には限りがあるのだから。
シュジャア師が赴任して以来、ムニャマ地区の外れにあるこの聖堂は私塾として開かれていた。「出自を理由に必要な教育を受けられない獣人たちのために」。
この国において公立学校の授業は全てヒトの言語で行われている。ゆえに初等教育の段階でドロップアウトしてしまう獣人が非常に多い。あまつさえ、血の滲むような努力を重ねて勉強をしたとしても、そもそも亜人を受け入れてくれる学び舎のない地域もある。ヒト以外に生まれながら十分な教育を受けることができる者は一握りだ。かくいうシュジャアが神学校に通うことができたのは「毛皮の氏族」の王子であるという立場もあってのことである。
だからこそ、獣人の教育水準の改善は彼の悲願だった。
今はとにかく先立つものと人手が欲しい。ンシチャナ女史は支援を続けてくれるだろうか? そのためにはまず成果を上げなければ。新たにリリエンブルム氏と交渉してみるのはどうだ? 彼はヒトのなかでも我々の活動を理解してくれている。教師の数だって絶対的に足りていないのだ。貼り紙やビラも効果があるかどうか。だが、リリエンブルム財閥ならば優秀な人材を派遣してくれるかもしれない。無謀だとしても頼んでみる価値はあるだろう。生徒からの授業料にも限界が──
彼を思考の底から引き上げたのは入り口の古びた扉が開かれる音だった。
来客のようだ。膝がひどく痛むが仕方あるまい。貰い物ばかりで彩られた仕事机から腰を上げて入り口の方へと向かう。
「ようこそ、あなたの聖堂へ」
もう何度言ったか分からない歓迎の言葉を口にする。こんな時間にいらっしゃるなんて珍しい。一体どのような御用ですかな。そう言って微笑みかけた相手の目線は意外に低かった。色素の薄い髪が深紅のダスターコートによく映えている。一方、側頭部には獣人であることを示す特徴はない。
あまりに華やかな容貌をした、ヒトの少年だった。
「絶世の」という言葉がふさわしいのだろうか。深窓の令嬢を思わせるかのように白い肌。まつ毛はシダの葉のように細長く繊細である。空色の瞳はどういうわけかこちらを警戒するかのように歪められていた。──いや、理由は分かっている。ムニャマ地区をヒトが歩けばどれだけの危険に見舞われることか。
そう思って言葉を継ごうとしたが、少年が口を開く方が早かった。
「ギルバート・クルス」
名乗りは簡潔に。見た目にそぐわない、堂々とした声だった。
「求人の広告を見てここに来ました」
そう言って彼が差し出したA4の用紙には、非常に見覚えのある筆跡で文言が書かれている。シュジャアは頭を抱えた。そして次に、己の先入観と浅慮を恨んだ。チラシの内容は以下の通りである。
教員求む。学校に通えない人々のために。
人種は不問。ただし獣人共通語のうち一つと公用語の知識要。
報酬は月900ミザーニ。その他言語の知識や修学歴によっては増額可。
面接はムニャマ地区の聖堂まで。
オースティン・シュジャア司祭
「人種は不問」と書いたからといって、どうしてヒトがこんな安月給で、そしてわざわざこの町にまでやってくると予想できただろう。きっと何かの手違いが起こったのだ。それに相手は少年で、とても成人しているようには見えない。どうにか傷つけないように断って。少なくとも彼がニューフォードまで無事に帰れるように付き添うのは大人の義務だ。さて、どうすれば──
「先に言っておきますが」
どこか投げやりになったような声色だった。そのまま彼はまくし立てる。
「僕は二十三歳です。大学だって出ました。『紫煙』語も、『毛皮』語も、獣人共通語はだいたい話せます。言語学を専攻していたので。それに、純血のヒトでもありません。面接を受ける資格はあるはずです」
彼がポケットから取り出した身分証には確かに「1941年5月6日生」「混血」の二つの言葉が記されている。いや、後者は別に何でもかまわない。かまわないが、本人の身の安全を考えると──。
「まさか、僕の容姿を理由に、それだけで面接を拒否したり、しませんよね?」
……もちろん。人々が理不尽な目に遭わないで済むように今の活動をしているのだ。こちらが不条理の側となるつもりはさらさらない。シュジャアは観念したように白塗りの木箱を二つ運んでくると、ギルバートと名乗った青年に対面で座るよう促した。
「面接と言ってもそう堅苦しいものではありません。えーと、とりあえず」
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