親愛なるけものたちの闘い

藤田桜

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 ムニャマ地区の粗末な住宅街を一人の女性が逃げ惑っている。頭に巻いたスカーフは外れかかっており、白い毛に覆われた細長い耳が覗いていた。それは彼女が兎獣人の血を引いていることを示す。本来ムニャマは獣人の町だ。「耳付き」が表を歩いていたとしても危害を加えられることは普通ない。だが、現に彼女は追い詰められていた──他ならぬ獣人たちの手によって。


 舗装されていない剥き出しの地面を蹴る度に砂埃が舞い上がる。トタンをつぎはぎにした家々の間を転ぶように駆け抜けるうちに息が上がり、だんだんと足に力が入らなくなっていく。まるで底なし沼をもがいているかのようだった。


 住民たちは彼女を助けようとはしてくれない。差し伸べられるのは冗談まじりの石つぶてと、拒絶するように扉を閉ざす音だけ。ここは危ない、少しでも遮蔽物の多いところへ行かなければ──朦朧とした頭で考える。どこか、隠れられる場所は──。少し立ち止まって辺りを見渡した。それが良くなかったのだろうか。背中を硬い衝撃が襲って、きゅうと体の奥を締め付けるような痛みにうずくまる。「当たりだ!」叫ぶ子供の声がした。


 ──誰かに後をつけられていると気が付いたのは、ニューフォードからの帰りのこと。郊外の、人通りの少ない道に差し掛かったとき、それは聞こえた。静まり返った場所では微かな物音でさえひどく目立つ。それがいらだちを隠しかねたような荒々しい足音ならなおさら。恐怖に心臓がひときわ大きく跳ねた。


 今日は、幸せな一日になるはずだったのに。


 約束した建物でに会って、息子の近況について色々と聞いて。それから、魚の缶詰めだとか石鹸だとか、差し入れも貰ったのだ。まだ二人との縁が切れていないように思えて、嬉しかった。あの子が公用語の授業で一番を取ったこと。誕生日、あの子が大喜びでローストチキンを食べていたこと。あの子が初めての友達を連れて公園に遊びに行ったこと……。話しながら彼が見せてくれる写真の中では九歳になった息子が微笑んでいた。きっと今日は、生きる意味を確かめ直すような、幸せに満ちた一日になるはずだったのに。


 最初は、警察が追ってきているのだと思った。都市ではの管理下にない亜人が滞在することは許されない。なるべく家政婦や使用人に見えるような格好をしてきたつもりだが、身分証の提示を求められればボロが出る。獣人居住区にまで逃げ込めば彼らも諦めるだろうと歩を早めたが、どうやら判断を間違えてしまったらしい。


 彼女を追い立てていた者たちの名は牙と爪メノ・ナ・マクチャ。ムニャマ地区の獣人を守るために結成された自警団。ヒトと内通した裏切り者を決して許さない、恐怖と秩序の象徴。この町は彼らの庭のようなものだった。なかでもひときわ精悍な男が彼女の襟首を掴んで、凄んでみせる。


「なぁ、ライラ。お前ニューフォードで誰に会っていた?」


 言えない。「耳付き」の自分が彼と密かに会っていたことが明らかになれば、彼にも、あの子にも迷惑を掛けてしまう。黙ったまま、彼女は男を睨み上げた。


「いや、いい。答えなくても分かるさ。警察だろう? 俺たちの仲間を売って施しにありついていたわけだ。お前、女の独り身にしては羽振りが良かったもんなぁ?」


 ──違う。そんなことはしていない。だが、彼女にはそれを証す手立てがなかった。男たちの腕を振り払うこともできず、屈辱に目が滲む。あらんかぎりの力を振り絞って暴れてもびくともしなくて、そのまま、


「来い」


 彼女は人通りの多い十字路へと引き立てられていった。掴まれた肩が今にも潰れそうだと悲鳴を上げる。それでも必死に逃れようと身を捩らせた。なかなか抵抗を止めようとしないのに苛立ったのか、彼らのうちの誰かが耳を掴んで引っ張ってくる。頭にぎぃんと鈍いものが響いた。それから何度も顔を殴られて、次第に意識が薄らいでいく。


「同胞を裏切ったやつの末路を教えてやる──混血の淫売女め。ヒトに媚びへつらって食う飯は美味かったか? 美味かったろうなぁ。俺たちが石みてえに硬いパンと安物の缶詰めで飢えを凌いでる間、お前は何を食べてたんだ? なぁ、おい」


 男たちの怒鳴り声と通行人のざわめきが聞こえてくる。何か重いものを頭に被せられた。ガソリンの臭いがする。まさか──。気が付いたときにはもう遅かった。焦げるような臭いと、肺の奥まで焼き尽くすような熱気が濃くなっていく。


 はずせない、いやだ、はずせない! あつい、あつい、あつい──!


 死を悟った彼女が最期に考えたのは、家族のことだった。──あの子が大人になっていくのを、私はもう二度と見られないのか。彼は私がいなくなったことを嘆いてくれるだろうか。姉は……そうか、私の死亡通知は彼女が出してくれるだろう。ただ、この不名誉な死に方が彼女に迷惑を掛けるだろうことが後ろめたい。


 結局あの子と一緒にいられたのは妊娠から出産の間だけだったような気もする。叶うなら、親子三人で暮らしたかった。だが、そんなこと初めから不可能だったのだろう。彼はヒトで、息子も見た目はほとんどヒトで、なのに私だけが「耳付き」の亜人。あの子に一滴でも獣人の血を混ざっていることが知られれば、きっとまともな人生は送れなくなる。結婚も、就職も、純粋なヒトでないというだけで制限されるような国だ。身を引いて隠れる他に、私が親としてできることはなかった。あの子がそれで幸せになれるなら、それでいいと、そう納得していたはずなのに。後悔ばかりが溢れだしてくる。


 叶うなら。


 なにかを恐れることなく家族といっしょにいられるような、そんなせかいにうまれたかった。


 かなうなら。


 あのこがおとなになっていくのを、ちかくでみまもっていたかった。

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