episode1. 始まりの日


 邸宅内に大きな足音が響いている。クローザー家当主の子息であるエルセは、庭園へ続く廊下を、脇目も振らずに走っていた。いつものことだと使用人たちは気にも留めていないようだが、一人だけ彼に声をかける少女がいた。


「エルセ、お部屋にいなくていいの?今日は承継式でしょ?」


 走り去ろうとするエルセの背中に声を掛けたのは、彼の使用人であるイコルという少女だ。彼女の言う通り、今日は炎狐の心核えんこのしんかくの継承式を行うこととなっている。炎狐の心核は、氷の魔神・忌霊エリシスを封じる扉の鍵であり、クローザー家の当主が管理人として保持することとなっている。声を掛けられたエルセはというと、部屋に戻る気も、立ち止まる気もさらさらないようで、慌ただしく廊下の向こうへ走って行く。


「いいんだよ。部屋に籠ってばかりだと、息が詰まっちゃうからな。イコル、お前も付いて来いよ」

「分かったから待ってよー。お願いだから、邸宅の中を走らないで!」


 イコルは慌てて彼の背中を追う。エルセが廊下の角を勢い良く曲がると、目の前にリードが突然現れて、出合い頭に衝突しそうになった。エルセと同じ赤みがかった茶色い髪の彼は、エルセの父親であり、この家の当主だ。エルセは前に出した足で踏み留まり、そのまま一歩後ろへと下がる。走っていたことに対して苦言を吐かれるだろうか。エルセは恐々と目だけを動かして、リードの顔を見上げたが、表情からは機嫌を読み取れなかった。


「あっ、リード様……」


 イコルも、リードの存在に気付いたようで、エルセの側まで駆け寄ると、立ち止まった。


「エルセ、炎狐の心核の継承は本日の暮相くれあいに行う予定だ。遊びに行くのもいいが」

「はーい。だってさ、イコル。あー、とうとうオレも心核者だよ」


 小言が続くと分かったエルセは、リードの話を遮り、背後にいるイコルに話かけた。イコルは眉をしかめてから、口の横に手を当てて耳打ちをする。


「リード様のお話の途中だよー。ちゃんと聞かなきゃだめだよ」


 真面目な使用人だよ、ほんと。そう思いながらも、エルセは素直にリードの方へ向き直る。その様子を見ていた彼は、小さく溜息を吐いて、右手を腰に当てた。


「すぐには難しいと思うが、管理人の一人としての自覚を持つんだ。私はこれから用のため家を出るが、承継式には間に合うように戻るよ。それまでに必ず支度を済ませておいてくれ。イコル、エルセを任せたぞ」

「は、はい! 承知いたしました!」


 イコルは、咄嗟に背筋を伸ばし、体の側面に沿うように腕をぴたりと付けた。リードは二人に視線を当ててから、止めていた足を動かす。去り際に少し微笑んでいたのを、エルセは見落とさなかった。どうやら今日の父は機嫌が良いようだ。


「いってらっしゃーい」


 エルセは、小さくなっていくその背中に向かって軽く手を振った。リードが歩いて行った先には正面玄関があるから、このまま邸宅を出るのだろう。彼が見えなくなったのを確認すると、二人は一気に肩の力を抜いた。


「ふぅ。何が承知いたしましたーだよ。むしろオレがお前の面倒を見てるようなものだろ」


 そう言われたイコルは、後ろで編み下ろした紺色の髪を揺らしながら、首を横に振った。


「そ、そんなことないよ!それに使用人として、リード様の命令には逆らえないもん」


 オレなんて度々父さんの言うことに逆らっているけど、使用人という立場は難しいんだな。エルセは両手を頭の後ろで組んで、溜息を吐くと、庭園へ出るため南玄関の方へ歩き出した。イコルもその後を同じ歩調で付いて行く。


「管理人の自覚を持てって言われても、ただ鍵の管理をするだけだろ。毎日の生活が変わるものでもないし、父さんは大袈裟だよな」


 父への文句を吐いていると、廊下の向こうから男が歩いて来ていることに気付いた。長剣を腰に提げているため、恐らくこの邸宅の警護剣士であろう彼は、エルセとすれ違う際に言葉を放った。


「鍵を狙う者は、一定数必ず存在しますよ」


 これって、オレに話かけているのか? そう思い、エルセは立ち止まって彼の方へ顔を向ける。すると彼も立ち止まってエルセの顔を見た。


「どうか気をつけてくださいね。彼らに鍵を奪われないように」


 そう言うと、剣を提げた金髪の男は、微笑むように目を細めてから、廊下の向こうへと歩いて行った。


「なんだアイツ」


 エルセの言葉を聞き、イコルは慌てたように手をバタバタと上下に振る。


「しー! 聞こえちゃうよー。リード様が雇われている警護剣士のシノさんだよ。従者の顔くらい覚えた方がいいよー」


「ふーん。男になんて興味ないからさ、いちいち覚えてらんないよ。あれ、でも、あの子は本当に見覚えがないぞ」


「へ?」


 イコルはエルセの視線を追って、窓の外を見た。庭園のすぐ手前にある地下庫の入り口から、白に近い金の髪を風に靡かせた女の子が出て来ている。少し派手な服装をしており、一度見ていれば思い出せそうだが、その女の子に見覚えはなかった。使用人の制服でも、警護剣士の制服でもない格好だが、一体どこの人だろう。


「あ、私も知らない・・・・・・制服も着ていないし、外から入り込んで来ちゃったかな?」


「庭園内にいるんだから関係者じゃないのか? オレたちも行ってみようよ」

「あっ! ちょっと待ってよー!」


 また走りだしたエルセを追って、イコルも走りだす。今日も騒がしい二人だなと、すれ違う使用人たちは思っているに違いない。

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